もっと賢くなるためにどうするか

 なんだか、宮本常一さんのことが想い出されて仕方がない。没後四十年です。思いつくままに、メモ風に彼の文章を並べてみました。 まずは、宮本さんの故郷、周防大島でのことです。

 村にひとりの大工がいた。旅暮らしをしている間にひとりの女ができた。大工は女を置いたまま村に帰った。そこには女房がいたのである。女は大工を恨み狐を仕掛けたというのです。まもなく男は足を病んでしまった。大工は自分にとりついた狐を丘の畑の松の下にまつったが、ついに足が腐って死んでしまった。

 その後、このほこらにはときどきお参りする人もあったが、だんだんと忘れられてしまった。「私はそのほこらのほとりをたまたま通ったのだが、誰かそれを見ていたらしい。まもなく、私がそのほこらの信者であり、そこへ参って病気もよくなり、きちがいも治ったといううわさがひろがった」それからというもの、ほこらに参る人が増えだし、赤い鳥居が建ち、小さいお堂もできた。荒熊神社と名づけられ、眼病に効くともいわれて戦争の終わり頃まで相当の参拝客があったそうです。

 「ひとつの信仰の流行の起源にはこんなところにあった」と宮本さんはいわれます。

 ひとのうわさも七十五日?

 師範学校を卒業し、大阪は泉南郡田尻小学校に勤務していた宮本さんは胸を病み、周防大島に帰郷して長期の療養をしていた時期のことでした。昭和五、六年ころです。ようやく健康を回復して野山を歩き回ったり、浜や田んぼで寝ころがったりしていたら、そのうちに近所のひとびとの間に「宮本は気が狂った」といううわさがひろまった。「道行く女が顔をそむけ、道をさけ、子供に石を投げられるようになって」はじめて、自分のことがどのようにうわさされているのか気づいたというのです。

 村では、一日中仕事もしないで田んぼや浜辺で寝ころんでいるような暮らし方がなかったためだと宮本さんはいいます。「きちがいと思ったのも無理はないであろう」とも。

 「その私が、ある丘の上の小さなほこらの前を通って田のほとりに出たことがあった。そのほこらというのは、狐をまつったものである」(宮本「民俗学への道」1968年)

《…人をいそがしくさせることが文明の最後の目的ではない。ときには静かでおちつきのある調和のとれた生活をすることが文明の目的であるとするならば、今われわれのあるいている道は目的から少しそれはじめているのではないか。

 そしておどろきをもって見た橋に不調和を観ずるようになっていく中にわれわれは本物を失わないで歩いていこうとするもうひとりの自分を見出すような気がする》(「一枚の写真から」)『日本を思う』(1973年9月)

 《…一つの封鎖せられた社会は同一の文化をもっている場合、どこかに中心をもとめずにはすまない性質をもっていたのであると思う。地方は地方で、そこに一つの中心点をもってくる。その中心点を軸にして動いてゆく。文化とはそういうものである。そうした小さな渦が大きくなっていく》(「日本を思う」)

 《…私の仕事は民俗の研究ということになっているが、私自身の仕事はむしろ、私の周囲で働きつづけている人たちの生活が少しでも充実し向上し安定することのための協力につとめて来た。

 …何よりも大切なことは人間一人一人がもっとかしこくなることであり、お互いがただ自己の権利を主張するだけでなく、共通の分母を見出してゆくことだと思う》(『日本を思う』「あとがき」)

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 経世済民などという語は今でも使われているのかどうか。本来は政治方面の言葉でした。よりよく国(世のなか)を治めて、人民の苦しみをより少なくするという政治の要諦を言い当てたものでした。いまではすっかり廃れてしまい、こんなことを政治(家)に期待すれば、笑われてしまうのが落ちです。ないものねだりといいますが、そりゃあ、ねだる方がまちがっているというのでしょう。「八百屋で魚」の類ですね。宮本さんは言います、「私自身の仕事はむしろ、私の周囲で働きつづけている人たちの生活が少しでも充実し向上し安定することのための協力につとめて来た」と。大した自己評価であると、ぼくは本当に感心するのです。その目的で仕事をされていたのか、と

 細かいことは省きますが、たしかに宮本さんは営農指導に類する仕事もされたし、佐渡では青年たちに太鼓の導入も進めたりしました。地域の状況に応じて、村や町にふさわしい職業を言い当てたりもされました。それもそうですが、彼が足を棒にして全国を歩き回って残された仕事そのものが、それ(業績)から学ぶ人にとっては、文字通りに「経世済民」の人であったと思われるほどに、すこしでも地域をよくするための「民俗学」だったといえるのです。

 彼を顕彰するための「記念館」も郷里に作られましたが、それは決して宮本さんを尊敬する行為などではないとぼくなどは考えたりします。なぜか。言うまでもないことで、残された彼の仕事に、敬意を以て近づくこと、そこから学ぶものがきっとあるはずです。劣島には「記念館」や「記念碑」だらけになってしまいますね、やがて。いまだってそうですよと、誰かが言う声が聞こえてきます。廃墟や廃物化したものも少なからず見られます。当の本人を「尊敬」しているのではなく、「侮辱」しているように、ぼくには感じられます。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです