
ある何かを信じていないで、どうしてソクラテスのように徹底的に疑うことができただろうか? 疑うためには信じなければならない。また、自分を越えた存在(精神)というものに出会うことなしで、ぼくたちは生きる意味に至れないんじゃないですか?逆に、人間の分際で、「人生の意味」だとか「人生の価値」などといってみても、結局は、世の中の趨勢や空気に感染しているだけだとしか言えないと、ぼくには思われるのです。こんな人生がいいのだと、世情で言われる、そんな人生に価値を置くのがせいぜいなんでしょう。これは「世の中の価値観」であり、「ドクさ」といわれるものなんです。多くの学校では、「ドクサ」を子どもに移植するのが役目になっているようにしか思われません。
「…じつはドクサとは、個人的な誤った物事のとらえ方という以上に、個々の人間の思考をがんじがらめにしている世間の通念、という側面が決定的につよいのであります。

このように、世間の通念としてドクサをとらえますと、ドクサにたいする反駁は、すなわち世間にたいする攻撃として受けとられずにはいない。これを個人の生活に即してとらえますと、世間の通念であるドクサから抜け出して、それから自由になるということは、要するに、全世間を敵にまわして孤立して生きる道を選択することであり、実生活における自分の足場をみずから否定することを意味しています」(林 竹二)
プラトン描くところのソクラテスは、そのような人として生き死にしました。教育とは世間の通念(ドクサ)を植え付ける仕事だという立場と、そのようなドクサから解放させることこそ教育の大事なんだという立場では、まったく正反対の方向にその目的は向かっています。このような対立のもっとも深い理由はどこにあるのでしょうか。これを考えることが、学校や教育を考えることに直結しているのです。
アランという人がソクラテスについて次のように言っています。(アラン『イデー』)

《 彼(ソクラテス)は他人のように、また他人と一緒に考える。そしてそのことさえも彼は他人に知らせる。「そういうのは君だ」これこそ産婆術のもっとも驚くべき言葉である。「産婆術」は自分からではなく、他人から観念を引き出して検討し、量り、最後に、それが通用するか否かを決定する。…私たちに欠けているのは、普遍的なものを完全に信ずることである。どんなに小さな思想にも、普遍的なものを否定する思想にさえも、普遍的なものの現存を知る。私たち自身がソクラテスにおけるこの現存にあずかるなら、私たちはプラトンを理解できるだろう。…本当のソクラテスは先ず恐れない人であり、満足する人である。富がなく、力がなく、知識がなくて満足している。しかしこの疑う人には、それ以上のものがある。疑いは既に強い精神のしるしであり、そこには普遍的に考えることが保証されているように、外面的な善や人の意見に無関心であることは、すべての証拠に先立って、大きな決意のしるしである 》
もう少しアランを引用します。

《 正しい国家において正しいのは軍人でもなく、職人でもなく、法官でもなく、国家が正しいのであり、それと同じように、人間において正しいのは心臓でもなく、腹でもなく、頭でさえもなく、人間が正しいのである。その意味で、国家と個人は同じ正義を分有すると言える》《人間を見て、人間が正しいのは機会や外的な関係によるのではなく、その人間の中の固有の正義により、その人間のさまざまな力の調和によるという観念をつくろうではないか 》
「正しい行為、明らかに正しい行為であっても、君がもし、内面的に正しいのでなければ、君はそれを正しく行うことはできない」というのが、アランという哲人の肺腑の言であり、ぼくたちの導きの糸でもあるのではないですか。
アランの語る内容は、たくさんのことがいわれているように思われるし、たった一つのことしかいっていないようにも考えられます。それはいったい、なにか。
「その人間の中の固有の正しさ」、それをぼくたちは求めようではないか。
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