〇正義のかたち:裁判官の告白/7 死刑への信条、正反対に変化

◇「廃止は空論」「誤判の危険」--制度存続は国民次第
判決で死刑を言い渡すことを決断する過酷さは時に信条さえも変える。多くの裁判や被告と向き合う中で、正反対に振り子が振れた2人の元裁判官がいる。
「死刑なんてけしからん」。元岐阜地・家裁所長の塩見秀則さん(81)は学生時代から任官当初にかけてそう思っていた。駆け出しのころ、北海道で裁いた殺人事件。死刑を主張する先輩2人を説き伏せ、無期懲役で合議をまとめたほどだ。
だが法壇に座る経験を重ね、次第に変わっていく。「死刑反対は浮ついた理想論。実際の事件は、そんなに甘いもんじゃない」と思い始めた。他の裁判官の判決に学び、こんな事件ならと、死刑言い渡しの相場もつかんだ。
名古屋地裁で82年、女子大生誘拐殺人の被告に死刑を言い渡した。被害者は1人だが、殺害後も生存を装い、しつこく身代金を要求していた。

「ひどいことをやっていると、それほど死刑に抵抗はない」。被告が取り乱さぬよう後回しが多い主文を、普段と同じく冒頭に言い渡した。今も憤る塩見さんは「死刑は存続すべきだ」と言い切る。
「再審請負人」の異名を持つ秋山賢三弁護士(67)は、67年の任官後に配属された横浜地裁で2度死刑言い渡しに加わったという。どちらも被害者は複数で、被告は自白。やむを得ないと納得した。死刑廃止は思いさえしなかった。だが、今は、もっと慎重に判断すべきだと思う。
転機のキーワードは「誤判」だ。初めての死後再審となった徳島ラジオ商事件。裁判官12年目で着任した徳島地裁で、懲役刑が確定し仮釈放中だった冨士茂子元服役囚の再審請求を担当した。
確定判決のページをめくる度に、これはひどい、と怒りすら覚えた。住み込み店員をしていた少年は、冨士さんに頼まれ凶器の包丁を川に捨てたと供述。だが、川から包丁は見つかっていない。後に、検察に強要されたと少年は告白した。
秋山さんらは再審開始を決定、その後無罪が確定する。その時、冨士さんはこの世にいなかった。「誤判は取り返しがつかない」。まして懲役刑でなく死刑だったら。死刑廃止に傾いた。

20年余で退官して弁護士になってからは、袴田事件の再審弁護団に加わるなど冤罪(えんざい)にこだわる。
秋山さんは死刑に限らず量刑判断は、裁判員には無理だと見る。被告の将来も見通した適正な刑はプロでも難しいからだ。だが誤判をただした経験から思う。「裁判官の過信が一番いけない。裁判員より裁判官の方が優秀とは言い切れない」
現役を含め多くの裁判官は「制度がある以上、死刑を言い渡すこともある」と口をそろえる。死刑存廃は国民次第という意味だ。
内閣府の世論調査によると04年、死刑存続派が初めて80%を超えた。裁判員制度スタートの09年は5年ごとの調査と重なる。=つづく(毎日新聞 2008年3月28日 東京朝刊)

〇地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人・高橋シズヱさん(71)オウム真理教の事件で死刑が確定した、13人が執行されました。死刑囚はいつ執行されるか分からないなか、自分の罪と向き合うことが求められます。終身刑とは違う心情の変化があるという点でも、刑罰として死刑はあるべきだと考えています。/オウム真理教の事件で死刑が確定した、13人が執行されました。死刑囚はいつ執行されるか分からないなか、自分の罪と向き合うことが求められます。終身刑とは違う心情の変化があるという点でも、刑罰として死刑はあるべきだと考えています。 ただ、変えて欲しい点もあります。被害者遺族として、法務省には①死刑囚との面会②執行前の通知③執行時の立ち会い④執行後の通知――を求めていました。執行後の連絡はありましたが、他の3点は実現しませんでした。面会を希望したのは、彼らが死と向き合うなかで事件についてどのように思い、再発防止策をどう考えているのか、直接聞くべきだと思ったからです。(略) 〇ドキュメンタリー映画を監督・制作の長塚洋さん(59)市民135人が死刑について議論する様子を追うドキュメンタリー映画「望むのは死刑ですか 考え悩む“世論”」を2015年に監督・制作しました。/ 最初は多くの人が「死刑についてあまり考えたことがないけれど、賛成」という意見でした。でも、弁護士や犯罪被害者から話を聞き、死刑や刑事裁判について知ると、簡単に「賛成」と言える人が減りました。死刑に反対する被害者がいると知り、揺らぐ人もいました。 死刑とは我々の国家の責任で、人の命を奪うという刑罰です。私たち一人ひとりにとってとても大事なことのはずなのに、よく知らないで「賛成」「反対」と決めるのは不健全だと思います。社会にとって大事なことを「知らない」「論じない」でいいのでしょうか。 関心がないわけじゃないけど、ぼんやりとしか知らない。まずはそんな人たちに、制度について知ってもらいたいです。例えばオウム真理教の元幹部たちの死刑執行をめぐる報道には「公開処刑のようだ」という批判も起きました。しかし、これまで秘密主義を貫いてきた日本の死刑を、一般の人が「リアルだ」と感じたのなら、弊害だけではないはずです。今回の執行が、死刑に関する議論をするためのきっかけになればと思います。(略)(朝日新聞デジタル・2018年9月16日)(https://www.asahi.com/articles/ASL9D3CT1L9DUTIL005.html)
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これまでにほんの僅かばかりですが、この社会における死刑制度の存廃については卑見らしいものを述べてみました。この問題に結論があるとは思えないのですが、ぼくは死刑制度は廃止する必要があると長い間考えてきました。この問題になにがしかの発言をするなら、その状況や背景、法律面や社会面、他国の状況などにも配慮するべきだと考えていたので、なにかと面倒を厭わない姿勢を取ろうとしているのです。(EU加盟の条件はまず「死刑廃止」が挙げられています)
死刑を執行するのが国家であるという点、量刑を判断するのも司法権力です。この社会の歴史を見れば、国家というものがいかに無限定の「暴力」を法の名において振るってきたかが瞭然とします。「治安維持法」などはその典型例でしょう。法は「行為を裁く」ばかりでなく、「思想をも裁く」ことがあったのです。今もなお、そうであろうとしています。
《 現役を含め多くの裁判官は「制度がある以上、死刑を言い渡すこともある」と口をそろえる。死刑存廃は国民次第という意味だ 》とありますが、現在のように、この問題の内容を十分に知らない(知らさない)で、「賛成か反対か」を問うような仕組みを利用する内閣府調査にも大きな課題(問題点)が残されているし、なによりも「国民次第」という側面で、それを進めるための糸口さえ見出されていない状況を越える工夫を施さなければならないと、ぼくは思っています。「勧善懲悪」はその通りとして、「報復的司法」もまた時代を越えて価値があるといえるかどうか。
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