
教師は「教える人」であると同時に、あるいはそれ以上に「訊ねる(尋ねる)人」なのだということを執拗に言いたい気がします。何十年にもわたって、ぼくは一つ覚えのように「教えすぎてはダメだ」といい続けてきました。「考える」「疑う」という余地を子どもから奪うことにしかならないからです。さらに、「教える=与える」とするなら、与えられる不幸というものもあるということを考えてほしいのです。教師は教える人、それがいわば定番で、日本の学校の頑迷な固定観念にすらなっています。たくさん「教える=与える」教師は「いい教師」というけれど、何のために「いい教師」なのかは問われないままです。質問するこころざしを持つ必要があることを忘れている教師が多すぎます。考える働きを行使するのは、自らが自由であることの証です。その働きを奪うというのは、どういうことなのか、それをよく考えたいですね。
一人の哲学者、ソクラテス研究者の告白を紹介します。林竹二(1906-1985)さん。東北大の教授を務められ、そのご新設された宮城教育大学の学長に就任された方です。
《 自分が授業というものに興味を持って関われたのはソクラテスを学んでいたからだ。彼の問答法というのは、魂を裸にして吟味する仕事で、それこそ教育というものであった。でも、それはけっして「教える」ことではなかったのだ、と。/ これだけは「教える」必要があると勝手にみなしたことを徹底して教え込む。それが子どものためになるかどうか、そんなことはいっさいかまわない。教えることこそが、自らの仕事だと思いこんでいるのが教師というのだろうか。そこには「教」はあっても「育」は存在しないのだ 》(林竹二「〝生きたソクラテス〟に会う」1981/12)

晩年の貴重な時間を使って、全国各地で授業行脚を続けられた人でした。上に引用した文章には、次のように書かれていた。
《十年前に私はある小学校の六年生と、はじめて人間についての授業をした。ごく軽いきもちで試みた授業だったが、クラスの全員が感想を書いてくれた。それを読んで私は、はじめて子供の内側を垣間見た思いがした。

その中に一枚「林先生が人間についてのことをぼくのひみつにしておきたいと思いました」という感想があった。そこにはつづいてこう書かれていた―「林先生はぼくたちのことをいっしょうわすれることはないと思いました。しかしぼくだったら、すぐわすれているかもしれませんけど、ゆるしてください。林先生げんきでいてください」。 この授業が私に、かつて予想したこともない道を歩かせることになった。まさしく転機であった。授業は私に人生の新しい地平を開いた。その新しい地平のなかで、かつて私が人生や学問での出会いを経験した人たちが、新しい生命をもって立ち現れてくるのを見た。私は授業ではじめて子どもたちの内面にふれた。それは私が、教育という営みにはじめてじかにふれた経験であったといってよいだろう》(同上)
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すでに紹介した大江健三郎さん。かれは林竹二さんとは別の表現で、しかし同じ意味合いの教師・教育論を述べていると、ぼくには思われるのです。以下にその障りの部分を引用しておきます。
《 先生とは、本来、すくなくともプラトンの『メノン』以来認められてきたとおり、知らない人間に教えることを知っている誰か、というのではありません。かれは、むしろ生徒の心のなかに問題をあらためて作り出すようつとめる人であって、それをやるかれの戦略は、なによりも、生徒にかれがすでに、はっきりと言葉にできないけれど知っていることを認めさせることなのです。それは、かれが知っていることを本当に知ることをさまたげている、心のなかの抑圧の、いろんな力をこわすことをふくみます。生徒よりむしろ先生の方が、たいていの質問をすることの、それが理由です 》(『「自分の木」の下で』毎日新聞社、01年)
《 柳田國男という学者が、先生から教えられたことをそのまま真似るような勉強の仕方をマナブ―マネブという古い言葉と同じ―、それを自分で活用することも出来るようにするのがオボエル―自転車の乗り方をオボエルというでしょう―そして教えられなくても自分で判断できることをサトルと分けました。マナブからオボエルまで進まなくてはならないし、できればサトルようになりたい、といっています 》(同上)

「学」と書いて「まなぶ」と読ませます。まなぶとは「まねぶ」(まねる)を意味します。「覚」と書いて「おぼえる」と読ませます。おぼえるとは「まなぶ」を意味します。元来、「学」と「覚」は同根です。面倒なことははぶきますが、「學」も「覺」も根っ子はいっしょだと考えられていました。その「覚」(おぼえる)はまた「さとる」とも読みます。「まなぶ」から「おぼえる」まできて、さらにそこからなにかを「さとる」(発見する)。これこそがものを学ぶという行為の深い姿ではないかと思われてきます。
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