
〇正義のかたち:裁判官の告白/4 安楽死、認める4要件
◇進まぬ議論嘆く「遺言」--「殺人罪」評議に重圧
判決後も退官後も「裁判長」にとって事件は終わっていなかった。ビデオの中で、迫り来る病魔を感じさせない熱い口調で語る。
「近い将来に安楽死の問題が出てくる気がした。議論の材料を提供する意味で、少し踏み込んだ判断を示したんです。判決から10年たちますけど遅々として議論に進歩がない」
終末期医療での医師の行為が初めて刑事裁判になった東海大安楽死事件を横浜地裁で裁いた松浦繁さん。殺人罪に問われた医師に95年3月、執行猶予付き有罪判決を下した。06年3月に富山県の呼吸器外しを巡り取材を受けたテレビ番組の録画ビデオは今「遺言」に見える。約半年後の同11月、松浦さんは63歳で生涯を閉じた。

東海大の医師は、末期がん患者を苦しみから解放するよう家族に頼まれ薬物を使った。判決は有罪無罪の前提として(1)耐え難い肉体的苦痛(2)死期が迫っている(3)苦痛を除く手段が他にない(4)本人の明確な意思表示--という積極的安楽死が許される4要件を新たに提示。患者が昏睡(こんすい)状態で痛みを感じておらず、(1)(3)(4)に反するとして有罪と結論した。
4要件は捜査や裁判の今も変わらぬ基準だ。だが松浦さんは、医療現場や市民も議論に加わり終末期医療の指針作りや法整備が法廷外で進むことを念じていた。「仕事のことは黙して語らずの夫が、議論が進まない、と嘆いていました」と妻真理子さん(60)は話す。
真理子さんに車の運転を頼んで事件現場へ休日に出向くなど、現役時代は納得できるまで考え抜いた。自宅書斎に70冊以上並ぶ安楽死に関する本が、退官後の関心を物語る。
真理子さんは「たとえ自分の基準が否定されてもよかったはずです」と亡き夫を代弁する。

朝日新聞(2014/01/17)
延命治療の中止などは患者本人の決定を基本とする「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を厚生労働省が定め、一歩を踏み出したのは昨年5月。亡くなってから半年後のことだった。
◇ ◇
裁判官は法と証拠に照らして事件を裁く。よりどころの「法」にあいまいな点があれば、自ら基準を設定せざるを得ない。終末期医療を巡る事件で言えば、百家争鳴の「死の迎え方」についてわずか3人、裁判員制度でも9人で一つの答えを決めねばならない。
幅広い議論の必要を感じながらも、密室の評議で決断を迫られる矛盾。「医師の行為が良かったのか悪かったのか。市民感覚を聞いてみたかった」。松浦さんと共に東海大事件を担当した元裁判官の広瀬健二・立教大法科大学院教授(57)は、再び医師が殺人罪に問われた川崎協同病院事件での胸中を語る。

広瀬さんは05年、同じ横浜地裁で今度は裁判長として執行猶予付き有罪判決を出した。川崎事件は発生から起訴まで4年以上たっていて、事実関係を見極める作業で困難を極めた。この経験から「国民参加には大きな意義があるが、裁判員制度に向かない事件もある」と見る。
プロの裁判官が悩みや苦労を抱えてきた安楽死事件。殺人罪で起訴されれば、裁判員も同じ立場に立つ。=つづく(毎日新聞 2008年3月24日 東京朝刊)
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● 東海大学安楽死事件=患者は多発性骨髄腫のため、東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手は、患者の嫌がっているというフォーリーカテーテルや点滴を外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。

しかしなおも苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手は殺意を持って、塩酸ベラパミル製剤を通常の二倍量を注射したが、脈拍などに変化がなかったため、続いて塩化カリウム製剤20mlを注射した。患者は同日、急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させられた。 翌5月にこのことが発覚し、助手は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、患者自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。
裁判において、被告人側は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた。 なお、先例として名古屋安楽死事件がある。(wikipedia)
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安楽死に賛成か反対か、という問い方はどうだろうか。生死にかかわる問題を多数決で決めるような方法は正しいとは思わない。(しかし、最後はそのようにしか決められないのかもしれない)それはまるで、死刑制度に賛成か反対かという問題に重なる。「人為的死」は「殺人」と地続きだからです。この社会で「臓器移植」問題が議論された時にも(「脳死臨調」)、けっして議論が一つの結論に収斂することはなかった。最終的には「心臓移植の必要性」から「脳死は人の死」という観点で臓器移植がみとめられた。

安楽死を「君はどう考えているか」、この問いにぼくはじゅうぶん納得できるような解を自分に与えることはできない。考えを深めていけば、ついには正解にいたる問題であるとも思われない。東海大学における事案以降も何件か、医療現場で「安楽死」問題とされる事件が生じています。法廷で裁かれた事件もあります。交通違反のような線引きは不可能であり、だからこそ、多くの関係者は悩むのだ。ぼく自身が当事者になれば、とうぜん何らかの反応を示さなければならないが、現時点では、この問題に関する「是非」は判断中止であるといわざるを得ない。生死の問題は計算でも統計でもないからだ。
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