無言の抵抗、それがもっとも手ごわい





革命叫べば逮捕、ならば無言で抵抗 香港人が訴える「目に見えない大切なこと」香港国家安全維持法(国安法)の施行で「革命」などのスローガンが禁止されたことに、香港市民が「無言」で抵抗している。香港の飲食店などには、スローガンを書いた付箋を貼って連帯を示す「レノン・ウオール」と呼ばれるボードがあちこちにあったが、施行後はボードを掲げるだけで同法違反に問われる可能性がある。そこで登場したのが、何も書いていない付箋を貼った「無言」のレノン・ウオールだ。色とりどりの付箋だけのボードは、香港市民の強い怒りを示している。香港の繁華街・銅鑼湾の飲食店に登場した「無言」のレノン・ウオール=2020年7月4日、福岡静哉撮影(毎日新聞)

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Lennon Wall at City University Hong Kong. September 25 2019. This is one of many locations that has Lennon Walls containing posters, messages and grafitti that are found around Hong Kong.(一年前の様子。上下二枚の写真を凝視してみます。民主派がここまで追い込まれてしまったという側面と、習近平派がこんなことまでしなければ「迫りくる危機」を乗り越えられないという側面がある。これから Long Revolutin   への闘いが続く。独裁権力はきっと倒される。現下の政治状況は、二十年前の「ソ連」に酷似していると、ぼくには思われる。この状況は「対岸の火事」などではまったくない。いつでもどこでも、どんな権力も「独裁」や「専制」を欲するものだ。

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 学びの場は現場だったってこと

 「学校と私」

 小学校の思い出は、やはり写真との出会いかな。下町でげた店を開いていたおやじは、本業より写真に夢中。セミプロ級の腕前で、よく七五三や入学式の写真撮影を頼まれて、おれが助手としてついていった。

 兄弟は他にもいたのになぜおれを選んだのかはわからない。三脚を立て、暗箱の中にカメラを組み立ててレンズをのぞくと、逆さまの校舎が見えた。一切の風景を遮断して被写体と向き合う、あの不思議な一瞬は忘れられない。

 おやじはじきに、ベビーパールという名前のおもちゃのようなカメラを買ってくれた。それでいっぱしの「芸術作品」を撮るぞ、と思ったんだな。小学校の林間学校で日光の東照宮に行った時、1人で朝早く起きて、閉まっていた門を乗り越えて、中の風景を撮ったことを覚えている。

 放課後はろくに勉強もせず、外で友達とメンコや剣玉、ベーゴマ遊びをしていた。でもなぜか成績はよくて、5段階評価で音楽が3だった以外はオール5だった。読書が好きだったわけでもないけれど、作文もほめられたりしたなぁ。

 小学校で覚えているのは戦地から引き揚げてきた帰還兵の先生。毎朝、本を朗読してくれた。朗々と「レ・ミゼラブル」を読み上げるんだが、ジャン・バルジャンの人生が胸に迫り楽しみだった。クリスマスの時期になると外国人の家に連れていってくれ、ジングルベルを聞いたりした。読書とか英語とか、これからの時代を生きるのに必要だと思ったんだろうなぁ。

 中学で初めて好きな女の子ができた。修学旅行ではその子を狙ってシャッターを押した。もちろん寺も撮った。女と風景。そのころからずっと、同じものを撮っているのかもしれない。

 写真を専攻しようと千葉大工学部の写真印刷工学科に進んだが、期待と違って、フィルムやカメラの仕組みを勉強する学科だった。32歳でプロになるまで特に撮影の勉強はしなかった。おやじが購読していた「写真新聞」を小さいころからながめたり、撮影助手をしたりで、自然と感覚が身についた。学びの場は現場だったってことだろう。【聞き手・山本紀子】 ==============

 ■人物略歴

 ◇あらき・のぶよし=40年東京都生まれ。通称アラーキー。64年、下町の子どもを撮った写真集「さっちん」で太陽賞受賞、72年に電通を辞めフリーに。女性ヌードを多く手がけ、作品に「わが愛、陽子」など。(毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊)

  このコラムはどれくらいつづいているのか。(ぼくは新聞を読まなくなってから久しいので、このコラムの現況も知らないままです)新聞は旧聞になり、反対に旧聞は新聞に顔貌をかえるのが世の常のようでもあります。したがって、「旧聞」をひとまとまりでも束ねておけば、世の中の人情や世情を知るのに不自由しないという仕儀に至るようです。ぼくは今では考えられませんが、「切り抜き」などという面倒をいとわずにやっていたことがあり、それがかなりは分量になって残っているのです。ひまにあかせて折々、そいつを引っ張り出してはあらぬことを妄想したり、世の無常や無情を嘆いてみたり、ということはしませんで、いつでも変わらないままなんだなあ、という諦念を強くするのです。

 本日はアラーキーです。一度だけどこかで会った記憶があります。不思議なお顔をされていました。小さな方でしたね。でも、さすがに彼のフォトはいいものだというぐらいはわかります。森山大道さんとは全く異なりますが。

 それぞれのひとが「自分と学校」、「自分の学校」を語ってきました。学校に対する距離感の違い、教師に向ける眼差しの濃淡、あるいは学校そのものに対する信心と不信。学校(教育)に寄せる想いはまた、一人ひとりの生き方の流儀を語るものでもあるようです。卒業して何(十)年も経った時点での語らいですから、美化する人もいれば、はなから峻拒する人もいます。自分にとって「学校」派立った人地ではないはず。監獄が、酒場が、映画館が「がっこう」だという人は無数にいるはずです。自分が「(いろんな意味で)賢い人間」に慣れたか、なりかけたかしたら、そのきっかけになるのが「学校」だ。

 だが、そこに共通して認められるのは、多様で多彩な不信の念のようでもあります。不信はいけないのではなく、それは独立心(他人に依存しない傾向)を強めてもくれるのですね。荒木さんの場合は、どうですか。

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 子どもの知恵を呼び覚ますのが大人

「アテネの学堂」(ラファエロ作・ヴァチカン美術館蔵)ヴァチカン宮の「署名の間」にあるフレスコ。正面中央右がアリストテレス、左がプラトン。(二人の腕の向きに注目)その左八人目あたりの黄土色の着衣がソクラテスとされる。その他、ここに描かれているのは当代を代表する哲学者たちだった。

 大江健三郎さんの講演の一部から。

 (ギリシアの哲学者のプラトンという人はその師匠であったソクラテスを主人公にしてたくさんの対話篇を書きました)そのなかに『メノン』という作品があります。他の都市国家から来たメノンという人と、ソクラテスがこのように話したという本です。『メノン』は、ソクラテスが死ぬ三年前にこういう対話があった、という仕方で書かれています。ソクラテスは七十歳で死にましたから、三年前というと大体いまの私ですね。いまの私はあのソクラテスの年齢なんですよ(笑)。

 ソクラテスをつうじてプラトンは、『メノン』という本でどういうことをいっているかというと、人間の徳、人間の一番大切なもの、その人の生きている社会で役に立つ知恵、英語のvirtueという言葉とつうじるものですが、力として役に立つ徳ということですね。人間の資質の本当に優れているところ。それは人間に生まれつくものか、そうでなくて教育することができるものかということを議論している本なんです。

 そこに、生徒は先生にとってどういう関係にあるかということを書いたところがあります。(中略)

 それで根本にあるのは、ソクラテスがこう考えていることです。プラトンもそう考えているわけです。子供はみんな本当の知恵を持っている、先生が知っていることを子供に教えるんじゃない。そうじゃなくて、子供が知っているけれども、自分ではっきり知っているとわかっていないことをはっきりさせてやる。それが、教えるということだと。もともと子どもは知っている。子供には知恵がある、それを呼び覚ましてやること、それが教育だ、というのがソクラテスの考え方、つまりこの本を書いたプラトンの考え方ですね。だから教育の現場では、生徒が先生に質問するよりも、先生が生徒に質問することのほうが多いんだ、とソクラテスはいうんです。このことは重要です。君はどんな問題を持っているのか、きみには何が大切なのか、きみは何がわからないと思っているのか、ということを子供たちに発見させてやる。それが教育だ、というんです。(大江健三郎「きみたちにつたえたい言葉」『鎖国してはならない』所収。講談社刊、2001年)

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  このくだりはとても有名なものです。一辺が二プウスの正方形、その二倍の面積をもつ正方形はどのようにして求められるか。それをメノンの家の小さな「奴隷」に尋ねます。彼は学校に行ったことがありません。その彼に向かって、ソクラテスは幾何の問題を提出したのです。棒切れを使い、土間に図を書いて「問答」を続けていく。

 結論をいうと、次のようになります。それはソクラテスの言でもあります。

 「この子供は自分と話しているうちに、いまの図を作って考えて行って二倍の正方形の作り方が正しいということを自分でわかっていた。それは教えたんじゃない」「子供が学んでそれを発見したのだ。かれは本当に自分が知っていたものに気がついたのだ。それが本当の、子供が新しいことを発見してゆく仕方だ」(大江)

 「皆さんが、学校で学ぶことも、たいていさきに自分でわかっていること、自分で知っていることなんです。たとえば『なぜ人を殺してはいけないか』というようなことを、大人がこのごろ訊ねるしょう。それは子供が生きてゆく上で、ちゃんと自分で知っていることです。そして守っていることでしょう?いまなぜ自分が人を殺さないかということは、自分の心のなかではっきり知っている。あらためて質問するなら、それを子どもたちが自分の言葉でも表現できるようにする。ソクラテス式にそれをたすける話しをしてゆく、ということが必要です。ただ『なぜ殺さないか』という質問をして、そのまま答えを待っている先生は間違っているんです。子供と話しながら先生が、あるいは親が、『なぜ自分が人を殺さないのか』、それを本当は自分が知っていると、子供の心のなかではっきりしてくる方向に向かわせる。そこへ子供たちの考える運動を導いてゆくのが先生の教え方、父親の教え方だということを、もう二千三百年も前のソクラテスが教えていたわけです。それが重要だと私は思うんです」(大江)

 なんかじつに簡単な方法だと思われそうですが、なかなか、そうじゃないでしょう。先ず時間がかかりすぎる。(これは「問答法(対話術)」 という)教師の仕事は「教えないで、質問する」ことだと再三いってきました。ここでもまた、同じことがいわれています。「教えないで、訊ねる」これにはどのような仔細が背後に隠されているのか。じっくりと考えてみる必要がありそうです。『メノン』をくりかえし読むことが何よりです。

 「ものを知る」というのは、すでに知っていて、それを忘却しているのだから、うまく思い出す、つまり「想起する・させる(アナムネーシス)」のだというのです。(*哲学におけるアナムネーシス (ギリシア語: ἀνάμνησις )とはプラトンの認識論的・心理学的理論で使われる概念。日本語では想起という訳語が与えられる。この概念はプラトンの対話篇の中でも『メノン』および『パイドン』で発展させられ、『パイドロス』でもそれとなく言及されている。wikipedia)

 記憶を失ってしまったというのは正しくないので、どのような記憶でも、脳内に保存されているのだが、それをうまく取り出す(思い出す)仕組みが機能していないから、それを手助けする人や働きが求められるというのです。ここに「教育」(問答法→産馬術(生み出す)((maieutikē の訳語)」の役割があり、教師や親の仕事があるのです。教え込むのではなく、引き出す。思い出させるということ、「あっ、そうだったのか」という具合に。そのとき、「生みの苦しみ」が必ず伴うのです。

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● ディアレクティケ(英語表記)dialektikē=問答法ないし弁証法を意味するギリシア語。ディアレクティケの創始者はエレア派のゼノンとされ,その方法は相手の主張を仮説として認め,その仮説が矛盾した結論を導くことを証明して相手を論破する争論的性格のものであった。しかしプラトンはそれを真の意味での問いと答えの弁証法として哲学そのものの方法にまで高めた (『国家』『クラテュロス』) 。一方,アリストテレスは真の前提から出発する演繹体系として分析論から区別して,一般的に承認された見解に基づく推論をディアレクティケと呼んだ (『分析論前書』) 。またストア派では「真と偽および真偽いずれでもないものを問いと答えのうちに弁別する知識」と定義されている。以後中世末期までは一般的にいってディアレクティカ (ラテン語形) は論理学の一部あるいは論理学そのものであった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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