個人の尊厳を重んじ、真理と平和を…

国民学校における体錬・打倒すべき標的は「鬼畜米英」でルーズベルトとチャーチルに見立てています。女生徒は槍を持っています。少年少女もまた立派な兵隊さんたれ。怠りいさめながら、教師も励んだのです。この場に「ぼく」がいたら、どうだったか。「模範少年兵」へと一直線であったか。あるいは「兵隊ヤクザ」の牙を磨いていただろうか。

 《 戦争の間の国民学校で、私は軍国主義の教育を受けましたが、放課後は家の隅に閉じこもりわずかな本を暗記するほど読み返している子供でした。いまも自分の性格に、英語でいうよく訓練された(ディシプリンド)ところが欠けているのを感じます。
 私が学校に行くことと自己解放を初めて重ねることができたのは、敗戦後二年たって、夢のまた夢だった松山の中学校の代わりに、村にできた新制中学に入っての短い間でした 》

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*国民学校=1941年3月国民学校令が公布され,同年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。初等科6年,高等科2年で,ほかに特修科 (1年) をおくこともできた。「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。この名称はドイツのフォルクスシューレによったものであった。教科の編成を改め,教科書も新しく編集された。第2次世界大戦後は 47年の新学制により,初等科は新制の小学校に改められ,高等科は新制の中学校設置の母体となった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 《 憲法が施行された年でもあり、教師から話を聞いて、まだその教科書が届かないまま、同じ年にできた教育基本法を、私はノートに写しました。自分の好きな言葉を覚えるために作ったノートです。村の農家の長男だった先生が、何にでも興味を持つ子供を笑わず、憲法を全部写すのは無理やが、基本法は短いし、わかりやすい言葉で書いてある、とすすめてくれたのです。
 私が好きだったのは、《 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育 》という文章で、ずっと後になってから、野上弥生子さんに、あなたはどうして希求するというような古い言葉を使うの?といわれました。
 中学校には都会の勤め先や家が戦災で焼かれ、疎開して来たまま、村にすみついて臨時に職につかれた先生がいました。その人たちの口ぐせは、本当の中学校はこんなものじゃない、というものでした。それが私を、独りで本を読み、言葉を収集する、自己流の勉強に押し戻したように思います 》(大江健三郎「伝える言葉 もう一度、新しく(de nouveau)」(朝日新聞・04/06/08)

 もう一度、大江さんです。ずいぶん古い記事ですが、とても印象に残っているので、ここに再録しました。このブログの「教師の残影」というカテゴリ内で大江さんの文章「未来につながる教室」をご紹介しました。(タイトル名は「教室の中での解放感」)

   《 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。
 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚…》

 「学校に行くことと自己解放を初めて重ねることができた」のは敗戦後二年経った新制中学校においてであった、と言われます。1947年のことです。でも、その解放感も瞬時につぶされてしまいました。「本当の中学校はこんなものじゃない」という都会出の先生たちの「口ぐせ」だったといえば、なんともやりきれない気がします。ちょっとぐらい夢を見させてやってもいいじゃないか、といいたくなります。都会出の教師がいった「本当の中学校」とはいったいどんな学校だったのでしょうか。ぼくはずいぶん前から「本当の教育」「本当の教師」「本当の…」という表現に大きなる違和感をいだいてきました。本当の…なんて、いったいどこにあるのさ。そういう言ういい方をしている当人の頭の中にしかないのではありませんか、と。それは「観念論」というもので、まるで「蕎麦屋も釜」です、「湯(言う)」だけだという程度のものでしょうに。

 この時代、新制の中学校(三年制)が出発したばかりでした。
 ぼくは大江さんほどに感受性は鋭敏でもないし、根がまじめでもなかったから、学校というものにほとんど信や真をおいたことはありませんでした。「ホントの学校なんて、どこにあるかよ。いまある、この窮屈な学校こそが、ホントの学校や」と、京都のせせこましい学校を、はっきりとそのように見ていました。だから、学校に溺れることもなければ、学校に反発をおぼえることもなかった。そのことになにか意味があると思いませんが、学校にくっつきすぎることがなかったがゆえに、「学校の餌食」にならないですんだという実感だけはあります。学校って、「なんぼのもん?」というようには言わない。行っても行かない、居ても居ない、こんな芸当を平気でするような生徒だったな。

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 《 今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義の本当の意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もとないといわなければならない。

 では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現れであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にあるすべての人間を個人として尊厳な価値をもつものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。

 人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスの口車に乗せられたりしてはならないと思うであろう。同じ社会に住む人々、隣の国の人々、遠い海のかなたに住んでいる人々、それらの人々がすべて尊い人生の営みを続けていることを深く感ずる人は、進んでそれらの人々と協力し、世のため人のために働いて、平和な住みよい世界を築き上げて行こうと決意するであろう。そうして、すべての人間が、自分自身の才能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標であることをはっきりと悟るであろう。それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない 》

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 すでに触れました戦後に新設された教科であった「社会」科のあたらしい教科書『民主主義』(上・下)は48年に作成され53年まで中・高校で使われました。今でも僕は、このテキストをくりかえし読み直しています。文部省著作物で、これを書いたのは法哲学者だった尾高朝雄さんでした。(もちろん、ぼくはこの教科書を使ってはいません。でもその雰囲気はまだ濃厚に残っていた時代でありました。ぼくが通学した京都の中学校は、生徒数約2千名。「こんなん、学校とちゃうやん」と思い続けていました。暴力は日常の殺風景で、まるで軍隊だったか。でも好きな教師に出会った。数学担当、若くして亡くなられた)

 その教科書(文部省著作)『民主主義』の「はしがき」が上に引用した部分です。

 じつに明確に言い切っています。民主主義は人間の集団には不可欠の原理であり、目標であり、精神であるというのです。そのように貴重でもあり奥深くもある「民主主義」を体現することには大きな困難がともなうにちがいない。したがって《 複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見わたすためには、よい地図がいるし、親切な案内書がいる。そこで、だれもが信頼できるような地図となり、案内書となることを目的として、この本は生まれた 》というのです。教科書がそのような意味をもっていたとはどういう意味でしょうか。今日からはとうてい考えられないような姿勢であり態度だというべきかもしれない。

 この教科書は七十数年前に島の学校の教室に登場した。大江さんが学んだのはこのテキストであり、「あたらしい憲法のはなし」でした。「戦後世代」とか、「戦後民主主義」の申し子などと称された大江健三郎さん。その方が憲法九条改竄や民主主義の危機を訴えてデモ行進の先頭に立ち、抗議集会の演壇に立つという時代です。隔世の感、というべきか。(長年はまりきっている)中島みゆき流に「あんな時代もあったね」というべきか。大江健三郎、八十五歳。

 「自分の好きな言葉を覚えるために作ったノート」に書き写した「教育基本法」も無残にも、あるいは惨たらしくも「変質」させられました。教育にまったく興味も関心も責任も感じたことのない輩によって。

 ぼくたちはどんな時代に生きているのか。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。