水みなぎつて舟あやうし

山形大雨 最上川5カ所氾濫 浸水90棟、避難2438人(毎日新聞2020年7月30日 東京朝刊)山形大雨 最上川5カ所氾濫 浸水90棟、避難2438人

 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰(ここ)に至れり。

 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云(いう)おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ゝ(ひまひま)に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

五月雨をあつめて早し最上川

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 「五月雨を…」の句は、元禄二年五月二十九日、土地の船宿主の高野一栄宅において読まれたものです。はじめは「すゝしもかミ川」とされていました。川水も土地の俳人。その後、梅雨の雨を受けながら、一行は本合海から清川まで下り降りた。

  さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉

  岸にほたるを繋ぐ舟杭       一栄

  爪ばたけいざよふ空に影待ちて   曽良

  里をむかひに桑のほそミち     川水       (「芭蕉真蹟歌仙」より)

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大雨の影響で浸水の被害があった山形県河北町付近(手前)。左は最上川(29日午前10時17分、読売機から)=三浦邦彦撮影 【読売新聞社】

 もともと最上川は急流(暴れ川)とされていましたし、芭蕉の「細道」にも「ごてん」「はやぶさ」という難所が記述されており、「水みなぎつて舟あやうし」とあります。しかし、そんなレベルをはるかに超えて、想像を絶する豪雨が芭蕉の曽遊の地でもある大石田を急襲したのです。いつ何時、どこでかかる危険に遭わないとも限らないのが近年の豪雨災害です。ニュースを見ながら、ぼくはごてん(碁点)・はやぶさ(隼)の超ド級の急流が暴れ狂うさまを夢にまで見た始末です。

 およそ梅雨らしからぬ激しすぎる「集中・局地豪雨」の季節がようやく開ける気配です。だが、コロナ禍は感染力をいや増しに増しながら、不始末続きの行政の隙間(無作為)を容易につきながら、真夏の島に襲来中です。くれぐれもわが身第一に、余力があれば他者にも力を。他人には頼らないこと、これを専一に注意深く過ごしたい。

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 香港の次は自分たち…懸念する台湾

香港の次は自分たち…国家安全法施行におびえる台湾
2020年7月8日 14:37 発信地:台北/台湾 [台湾 中国・台湾 香港 アジア・オセアニア]
【7月8日 AFP】香港で施行された「香港国家安全維持法」が今、台湾の人々を震撼(しんかん)させている。中国政府の次の狙いは、民主主義体制をとる台湾ではないかとの懸念が広まっているのだ。
 
 1949年、毛沢東(Mao Zedong)率いる中国共産党との内戦で敗れた中国国民党は台湾に逃れた。以来、中国政府は必要なら武力行使も辞さない構えで、中台の統一を目指している。(以下略)( (c)AFP/Amber WANG)

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 香港の次は「台湾」だという疑心が多くの人に抱かれているという。その「台湾」の次は…。中国の経済力は、今ではアメリカをしのぐほどの規模になっています。軍事力もまた強大である。となると、アメリカと一戦を、と中国中枢は考えているのかどうか。いわれるところの「チキンレース」は今後もますます激しくなります。この島社会はどうするか。アメリカと組んで(傘下に入って)対抗するのか。独自の外交で乗り切るのか。尖閣をはじめとする東シナ海の領土問題を避けて通るわけにはいかないのが現状です。こと領土問題に関しては、けっして領土を「譲る」という交渉は成り立ちにくい。いさましい「精神論」にではなく、将来を見据えた「現実論」を作り出す有司は、双方に出てくるのでしょうか。そうとう前から、「沖縄」は「わが領土」というような意味のことを中国は主張してきていますよ。

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 何が私をこうさせたか(承前)

 朝鮮で朝鮮で見たものは

 九歳(一九一二年)の夏、朝鮮につれていかれます。その二年前に、ご承知のように日本が韓国を併合し植民地にしていました。まさにその時に彼女はある理由があって朝鮮につれていかれました。まあ、連行のようなかっこうでした。そこにおよそ七年間いましたが、その七年間というのはまるで地獄のような生活であったと自身の手記に書いています。たしかに想像を絶するような過酷な試練をうけた時代のようでした。

 十六歳(一九一九年四月)のときに日本へ戻ってきます。そして母親の実家のある山梨県の諏訪村に戻ってしばらく滞在していましたが、その後一人で東京へでてきます。東京にきていろいろな職業につきました。住み込みの女中さん、新聞販売、飲み屋の店員、夜店の売り子などなど。苦労しながら自活の道を開こうとし、なおかついくつかの専門学校にかよい、またキリスト教に近づきながら学ぶことに対する餓えをみたそうとするのでした。学校に行けなかったという負い目か、あるいは、付きまとったみじめさが彼女に学問への執着をもたらせたといっていいかもしれません。この時期の生活もそれ以前に劣らず過酷なものであったわけですが、外から強いられたのではなく、みずから選んだという点では充実していたようにもみえます。じつにけなげに真摯な生活をつくりあげようとした形跡がうかがえます。

 そのような生活を送るなかで、何人かの在日の朝鮮人に出会うことになります。そして結論的にいってしまえば、そのうちの一人の朴烈(パク・ヨル)という人といっしょに住むようになります(一九二二年)。この当時、朴烈は抗日テロ組織である「「黒友会」の指導者であり、また在日思想団体「黒涛会」の中心人物でもあったのです。金持ちは結婚すれば新婚旅行にいく。でも自分たちはそうはできないから、なにか記念になるようなことをしようといって、二人で出版社をつくります。仲間を集めて出版社をつくったのです。その名前がふるっているんですね。「不逞社」。不逞(ふてい)の輩(やから)っていう言葉をご存知ですね。まことに挑戦的ではありませんか。

 そして雑誌を発行するんです。その雑誌の名前がまたすさまじい。『太い鮮人』、「太い」(不逞)というのはどういうことでしょう。「あいつは太い野郎」だという言い方がありますが、図々しい奴、横着者ということでしょうか。「鮮人」という言葉はただいまではつかわれませんが、朝鮮人に対する蔑称としてこの国では常用されていました。だから、それを逆手にとったんですね。この『太い鮮人』という雑誌は何号か出されました。

 一九二三年、関東大震災が九月一日に発生しました。ご承知だろうと思いますけれども、その関東大震災の騒ぎに乗じて、当時日本にいた朝鮮人(それに中国人も)が、正確な数字はよくわかりませんけれども、四千人とも六千人ともいわれるほどたくさん「虐殺」されるという事件がありました。ふみ子と朴の二人は関東大震災に遭遇して、最初は凶暴な市民から身を守るためといって陸軍によって保護検束されました。それ以前より「不逞社」は治安警察法違反という理由で「秘密結社」の指定を受けていたのです。その後すぐに逮捕監禁されます。刑法第73条(大逆罪)と爆発物取締罰則違反という嫌疑でした。

 およそ二年の予審後、大逆罪を犯したというかどで裁判にかけられます。明治四三年に幸徳秋水たちの「天皇暗殺」計画事件がありましたが、それと同じ「大逆罪」容疑で起訴されたのです。当時は大正天皇の時代ですが、その天皇の息子である皇太子(後の昭和天皇)の爆殺を計画したとして、大審院で非公開の裁判を受け死刑を宣告されます(二六年三月二五日)。その直後の四月五日に恩赦があり、二人は罪一等を減じられ、死刑から無期懲役に減刑されます。

 「恩赦」というのは政府によって、その大半は国家規模の慶事にさいして「犯罪者に対して刑罰権の全部または一部を消滅させる処分」(広辞苑)のことで、その種類には「大赦・特赦・減刑・刑の執行免除及び復権」の五種類があげられています(「恩赦法第1条」)。これはずいぶん古い制度ですが、金子ふみ子、朴烈の二人は特赦(「有罪の判決を受けた特定のものに対してこれを行う。(第4条)」)をうけ、死刑から無期懲役に減刑されたのでした。

 現在も地名がのこっていますが、新宿区富久町というところがあります。今はなくなってしまいましたが元の新宿厚生年金会館があった裏にあたる場所です。そこに当時市ヶ谷刑務所がありました。上に名前が出た幸徳秋水たちはここで処刑されました。いまもそのことを記した碑があります。「刑死者慰霊碑」という石碑がそれです。「東京監獄」として作られたのが明治三三年で、大正一一年に「市ヶ谷刑務所」と改称されています。いまの区域は余丁町に入りますが、富久町児童公園となっているところです。

 金子ふみ子と朴烈も市ヶ谷刑務所に収監されていました。刑務所所長は秋山要という人でした。まず朴烈に特赦状を渡して、朴烈はそれをうけとります。彼は二十年後の一九四五年十月、GHQの指令によって釈放されます。翌四十六年十月に「在日本朝鮮人居留民団」が結成され、初代団長に就任しています。彼は七十四歳で一九七四年に現在の北朝鮮で亡くなりました。

 彼女は所長から特赦状をわたされ、所長の面前で破りすてたといいます。その直後、宇都宮刑務所に移送され、七月に獄中で死去(自殺したとされています)。栃木に移され獄中で書いたのが『何が私をこうさせたか』という手記です。彼女には学校歴はほとんどないにひとしい。かろうじて学校に行ったといえなくはないんですが、いずれもほんの瞬間のことでした。だから、この本を一読するかぎり、学校教育をうけたことによって、彼女がなんらかの知識をもったという形跡は認められない。それだから、といえば言葉がすぎるでしょうが、ともかくこれは最良の人間の記録だとぼくは思いました。(つづく)

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 コロナも豪雨も、お呼びじゃない

 東京五輪の1年前セレモニーで、聖火がともされたランタンを手にしながらスピーチをする競泳女子の池江璃花子(2020年7月23日撮影)。(c)Du Xiaoyi / POOL / AFP(AFPBB News / 2020年7月24日 11時37分)
【AFP=時事】新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)で大会の開催が危ぶまれている中、延期になった2020年東京五輪の1年前セレモニーが23日、ほぼ空席の国立競技場(Japan National Stadium)で静かに行われた。(以下略)

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 コロナ禍がますます猛威を振るっている最中、延期された東京五輪の来年7月開催の一年前行事として、新設国立競技場にて、上掲写真のような催しが行われました。このことについて、ぼくは多言しない。(いまでも書くことは止めるべしという感情があり、それに対抗するように、証拠として書くべしという、内からの声もある)世界規模の新規感染者の激増やそのことによる死者が一向に減少しない事態にありながら、内外に向けて、これを強行(挙行)した意図はなんであり、それはだれのものだったか。国内的にも感染者が増大の一途をたどり、加えて、豪雨災害が各地を急襲しているのです。税金をばらまくだけばらまいて、おのれ一個の評価を高からしめんとしたというなら、もはや終わり。自他ともに、救われないとはこのこと。五輪の政治利用、コロナの政治利用、難病者の政治利用。国難とは、かかる愚昧・愚蒙が要路・要諦を占め続けている、そのことを指して言うのです。(ここに書きたくないのですが、「国辱」「国恥」a national disgrace. という言葉が頭からはなれない)

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 みかんの花咲く丘

 すべての被爆者を冒涜し、広島を売り、日本を売る、安売りマーケットの店じまいです。「広島サミット」なる催しが終…

 私はこの不平等を呪うのであります

 金子ふみ子という一女性の生涯をたどってみたいと思います。(数回の連載を予定)

 彼女は親から棄てられ、学校からも棄てられ、つまりは世の中から排除されて、なお生きざるを得なかった。このような人間が歩いた道はどのようなものだったか。想像を絶するものだったろうとだけは言えそうです。学校教育や、その証明である学歴がものいう時代、それは決して全否定される筋のものではないのを認めた上で、そのような人生観はあまりにも狭すぎるし、偏り過ぎているのではないでしょうか。たった一人で歩かざるをえなかった彼女の歩いた道に、端倪(たんげい)すべからざる荊棘の足跡が記された。

 生き方の流儀―金子ふみこの場合―

《本来平等であるべき人間が、現実社会にあっていかその / 位置が不平等であるか、私はこの不平等を呪うのであります》

 無籍者であるということ

 金子ふみ子。それはどういう人だったか。彼女は世間でアナーキストという呼び方をされる人でした。アナーキストという言葉、日本語では無政府主義者というふうに訳しますけれども、あまりいい訳じゃなさそうです。きくからに恐ろしそうじゃありませんか。クロポトキンやバクーニン、さらにはプルードンなどを代表とする一つの政治思想・立場をさします。明治以降に時の政治権力にはむかうような主義者を社会主義者、共産主義者として蛇蝎のごとくに忌みきらいました。そのなかに、いまあげたような政治思想家達の主義を信奉していた人びともふくまれていました、もっとも過激な主義者として。だから、なおさらアナーキストときけば、ある種の思考停止、痙攣状態を世間ではひきおこすことになったろうと想像しています。

 みずからの特権的な地位を維持するために権力を悪用するとか、専制的な政治体制に抵抗する人民を抑圧する、そういう圧政的・暴力的な政府や政治権力をなくしてしまうという点ではたしかに無政府主義です、アナーキズムは。でも、どんなときにも人間は一人で生活することはできないし、集団をなして生きていく以上はかならずある種の政治システムあるいは組織は必要でしょう。だけどそれは可能なかぎり表面に出ない、個人の自由や権利を拘束するような政治機構・権力をもたない、そういう状況を希求してさまざまな思想を生きてきた人たちをアナーキストと呼んでもいいだろうと、ぼくは考えています。権力はかならず腐敗するし、人民を抑圧する。それは人類の歴史が示しています。だからこそ、権力の亡者になるにちがいない暴力的な政治(機構)を不要とするような社会を希求した人がもった思想です。

 一九〇四(明治三十七)年に生まれて、一九二六年(大正十四)年に死去。ずいぶん若くして亡くなっていますが、病死じゃありません。大正天皇の長男である皇太子(後の昭和天皇)の暗殺を企てた嫌疑で逮捕、死刑の判決を受けました。その直後に恩赦があって、罪一等を減じられ無期懲役とされたのですけれども、恩赦に服することを潔しとせず、天皇の特赦状を破り、その三ヶ月後に獄中で首をくくって死んだ(といわれている)人です。この獄中死の真因はいまもなお不明です。(あるいは自死だったのではないか、とぼくは疑っています。今となれば解明の糸口は容易には見つかりませんが)

 彼女は生まれてから何年間かは籍をもたない存在でした。戸籍制度の上では存在しない存在だった。無籍者であったわけです。父親と母親は正式な婚姻関係を結んでおらず、しかも、その間に生まれたふみ子を戸籍にいれなかったからでした。このことは彼女の生き方の流儀に決定的な役割をはたしたとぼくはみています。存在しているにもかかわらず、その存在が認知されないという奇怪な状態を想像してください。

 実父は佐伯文一といって、横浜寿警察署の刑事をやっていた人。実母は金子とくの。二人は山梨県の諏訪村という山間の村で知りあい、その後横浜にでてきました。その間に金子ふみ子が生まれた。長女でした。でも、両親は法律上の婚姻関係をもっていなかった。さきほど申しましたような内縁の関係にあったのです。その二人の間に生まれたふみ子さんはずっと戸籍には入れられないままで少女期をすごすことになります。

 無籍扱いをされた子どもは、じゅうぶんにそのことの意味を知らないままであったと考えられますし、ある時期まではそのことが当人に致命的な影響を与えたとは思えません。でも、自分たちの子どもをそのようにあつかう親の気持ちはどういうものだったか。面倒だからとか、生死にかかわらないのだからということだったのか。このような境涯に自分がおかれていることを知るようになってから、という意味は、ふみ子自身に物心がついたということですが、両親や世間に対して、さらにはみずからに対してはっきりした直観を得たようにぼくにはみえます。もちろんこういう境遇を生きた人はそんなにたくさんではないにしてもいたでしょうし、今日でもおられるでしょう。しかし、当人の感情というものははかりしれないことです。

 戦前もそうだったわけで、だれでも六歳になれば国家がもうけた学校へ行かなければならなかった。でも出生届けがないために学校に行けないという状況がつづきました。近所の同い年の子どもたちがみんな学校に行くのに、自分だけがとりのこされる、その時の感情とはどのようなものだったでしょうか。おおきな傷となって、その後の生き方に深い溝を掘ったのではないかと思われます。終生、彼女はまともな学校教育をうけなかった、というよりはうけられなかった。そのことのよしあしをいうんじゃない。いってもはじまらないからでもありますが、事実として学校にかよわなかったことが、金子ふみ子の生き方を決定的に方向づけたという点を考えてみなければならないということですね。学校というところが一人の人間をどのようにするのか、ということを学校に行かなかった人間の側からとらえてみるということであります。

 宇都宮の刑務所に収監されて、ほんの三カ月ほどで書いた有名な獄中手記があります。『何が私をこうさせたか』というタイトルで、死後に出版されました。これはいまでも手にとって読むことができます。彼女はこれ一冊だけを後世に託して、一九二六年七月に獄中で死んでいきました。これもまた、彼女が世の中に投擲した爆弾であったといえば、言葉が過ぎるでしょうか。

 これを読むたびに、ぼくはある感慨に襲われます。こういうまっとうな人生、まっとうすぎる人生をよくぞ生きたなっていう感慨、にです。こんな言い方はおおくの非難をうけるだろうと思いながら、そういいたいのです。彼女の生涯は、日露戦争が終わって日本がだんだんと国家主義に走り出していく時期にあたっています。いわゆる脱亜入欧を敢行していく時期とかさなる。大正時代に入るといわゆる日本型産業革命がおこり、国力・軍事力の拡大・増進をはかって大国意識が国民のあいだにひろがった時期でもありました。

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 古い社会相の、ぼやけた写真

『子供の遊戯』(こどものゆうぎ, : Kinderspelen, : Children's Games)は、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルにより1560年に描かれた油彩画。現在、ウィーン美術史美術館に収蔵・展示されている。(Wikipedia)

 この「かごめかごめ」という児童の遊戯をみて、なにを感じるか。あるいは、そこでどのようなことをかんがえることができるか。それは「遊戯の意味(歴史)」を尋ねることであると同時に、「子どもとはなにものか?」という疑問に直面することでもあるはずです。子どもとは、単に幼い、半人前の存在ではない。大人になるための準備段階に生きているものではないというとらえ方は、この国では当たり前に見られました。いかにも不可思議な存在、それが、子どもに対する社会(大人)の視線であったといってもかまわないとおもいます。(既出部分を再掲)

 そのことを、柳田国男という人は「かごめかごめ」という遊戯をとおして考えようとしたんですね。

 《 若い男女の多く雇われた大農の家の台所で、冬の夜長の慰みに、あるいはまたなにか寄合いのなどに、仲間の中でいちばん朴直なる一人を選定して真中にすわらせ、これを取り囲んで他の一同が唱え言をする。多くは神仏の名をくり返し、また簡単な文言 もあります。こんな手軽な方法でも、その真中の一人の若者には刺激でありまして、二、三十分間も単調なをくり返すうちに、いわゆる催眠状態にはいってしまうのです。そうすると最初のうちは、『うん』とか『いや』とか一言で答えられることばかりを尋ねますが、後にはいちだんと変になっていろいろのことをしゃべるそうです。後しばらく寝かせておくと、いつの間にかもとのとおりに復すると申します 。》(同上)

 こんな報告もあります。山形県のという村で行われていた神事です。

 そこでは村のために必要な場合には「神降ろし」をするそうで、その様式は「かごめかごめ」とまったく同じであったというのです。

 柳田さんは子どもの遊びは、純粋に子ども用に作られ持ち伝えられたものではなく、「へたかもしれぬがやはり古い社会相の一つの写真が、ぼやけて今にのこっているものとして珍重すべきです」といわれます。

 《 一人のこどもに目を閉じさせて、丸い輪の真中にしゃがませます。手をつないだ大ぜいが、その周囲をきりきりと回って、はやしことばの終わるとともに不意に静止して、『うしろの正面だーれ』と問うのです。その答の的中したときは、名ざされた子が次の鬼となり、同じ動作をくり返すことになっていますが、もとはこの輪を作っているこどもの中の年かさの者が、他にもいろいろの問答をしたのではないかと思います。》

《 われわれが昔何の心もつかずに、次のこどもに引き渡しておいたこれらの遊戯は、こういうなつかしい先祖の記念であったのです。詞などの、地方によって相違のあるのも、何か隠れた意味がありそうです。もちろん語音には転訛が多く、また誤解をも伴うかもしれません。少なくともその間拍子だけは、伝わっていることと思います。》

《 私などの田舎(註 播磨)では「中の中の小坊は、なぜに背が低い」と申しておりました。これは当初からの呪文であろうとは思われませんから、たぶん中座の子が朦朧状態になっていて、何を言ってもかまわぬと見なして、ざれ言をする文句でありましょう。殊勝に目をつぶってその小坊主になっていた昔の自分を、思い出さずにはおれません。(同上)

◆参考資料

〇かごめ‐かごめ【籠目籠目】児童の遊戯の一。しゃがんで目をふさいだ一人を籠の中の鳥に擬し、周囲を他の数人が手をつないで歌いながらまわり、歌の終ったとき、中の者に背後の人の名をあてさせ、あてられた者が代って中にうずくまる。細取(コマドリ)。(広辞苑)

〇こ‐とり【子捕り・子取り】①子供の遊戯の一。一人は鬼、一人は親、他はすべて子となって順々に親の後ろにつかまり、鬼が最尾の子を捕えれば、代って鬼となる。子をとろ子とろ。(広辞苑)

〇「回りの小仏」日本の伝統遊戯の一つ。〈まわりまわりのこぼとけ〉〈なかのなかのこぼとけ〉〈なかのなかのじぞうさん〉,あるいは単に〈こぼとけ〉ともいう。〈かごめかごめ〉と同様の遊びで,子どもたちが手をつないで輪をつくり,その輪の中に目隠しをした小仏(地蔵あるいは小坊とも)が1人入り,まわりを子どもたちがはやしことばを歌いながらめぐり,歌が終わってかがんだところを小仏がその1人をつかまえ名を当て,当てられたものが小仏となる。はやしことばは地方によって違いがあるが,東京地方では〈まわりまわりの小仏はなぜせいがひくい,親の日にとと食ってまま食って,それでせいがひくいな,うしろにいるものだあれ〉とはやす。元来は小仏のほうも〈線香,抹香(まつこう),花抹香,しきみの花でおさまった〉といいながら任意のところから外の人を数え,その最後の者が次に中に入って小仏となった。肉親の忌日には精進(しようじん)せよとのいましめの意味を含むものと思われ,1760年(宝暦10)の土御門泰邦の《東行説話》では,転輪蔵(一切経をおさめる回転式書架)を1回転すれば経文を読んだことに相当する功徳(くどく)があるという故事に起源するという。(1998 Hitachi Digital Heibonsha)

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 子どもの遊びとは不思議なものです。縦(時間)につながっていることはいうまでもありませんが、それが横(空間)にもつながっているのですから、じゅうぶんにかんがえてみる価値がありそうです。子どもは「大人」でもあるのです。子どもの遊びを通して、大人たちがまじめにやっていた「神事」がかろうじて見て取れるというのが柳田民俗学の、一つの柱でもありました。「児戯に類する」とは「大人の行い」を宿しているというのでしょう。透視絵ですね。

 今ではすたれ切ったのも時代の流れです。再び復活することはあり得ないでしょう。もしあるとすれば、幼い子どもたちの些細な立ち居振る舞いのなかに、かろうじて看取できるかどうか、それくらいにぼくたちは歴史の暮れ方に生きているのかもしれません。歴史に生きる存在が、歴史の外に出てしまうとは、それは何を意味するのでしょうか。

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