国は人権を踏みにじるだけの機関だ

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 《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか 》(以下略)(加藤周一「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)(この文章はすでに別のコラムで既出)

 加藤さんの文章は十数年も前に近隣諸国との間に生じだ「歴史教科書」問題のおりに書かれたものです。加藤さんも数年前に亡くなられました。いったい、この「愛国心」を誰かの専売であると考えている愚か者がいるのは、ぼくには解せないのです。いまでも「お前に愛国心を語る資格はない」といわれかねない雰囲気があります。アホらしいことですね。「~を愛する」かたち(方法)はひとそれぞれ、誰にも指さされる理由はないのではないですか。徒党を組んで「愛国心」は好まないし、同じく「衆を頼んで」反国運動もぼくの趣味に合わない。「愛する」のは、たった一人でだ。

 「愛国心を教える」ことはできても、愛国心とはなにかと「考えることを教える」なんてできない相談だと思っている、無精で無粋な教師や政治家たちがほとんどではないか、と減らず口を叩きたくなります。学校における「日の丸・君が代」はいったいどうなっているんですか。仕方なしに、あるいは無理やりに歌わせられて育つ「愛国心」とはどんなものか。裁判所を含めて、情けないくらいに「趣味が悪い」し、不細工です。歌っているかいないか、口に耳を当てて確認するような教育委員会には「学校教育」をゆだねられないですね。白昼堂々と「愚行」を恐れないという愚連隊が劣島に多すぎます。

 「愛国心教育」とは、学校の「儀式」で「日の丸・君が代」を強制されても文句をいわない、それを何十年もつづければ涵養される、そんなアホな教育だと見なされています。野鳥を捕ってきて鳥カゴにいれて飼いならすのとまるで同じ。飼いならすというのはカゴの中でしか生きられないと思いこませることでもあるのです。これを「飼育する」(breed)という。「教育」は「飼育」であり「強制」なんかでは、断じてありません。 

 「学校に対する不信感を強め」ないままで、ながい学校教育をうけいれてしまうと、どんな感覚の人間になるのでしょうか。皮肉でも何でもありません。正直に、思っていることを言いたいだけです。学校は、どんな人間をつくるつもりですか、一人一人の教師が問われているのです。それに対してどうこたえるか、それが日々、自らの実践が示しているところです。おわかりになりますか。

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 「おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ」これは飛行場建設にたった一人で反対し、国家権力に踏みにじられても闘った小泉よねさんの「戦闘宣言」です。早くに夫と死別し、土間と六畳間の「小屋」に住み、2アールの土地を一人で耕していたよねさん。そこへ突然、「ここを飛行場にするから、立ち退け」と大学卒の役人は一片の紙切れで命令を下したのです。66年のことでした。(大学はどんな人間を受け入れ、請出しているのか。今でも大学の教育は問われ続けています。「クイズ王」に沽券をかけている屑大学もある)

 「公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います」なんとしても理不尽な暴力を許せなかった。よねさんに四坪ばかりの土地(住まい)を貸していた島村良助さんは「よねに財産があったり、教育があったりしたら、よねにたいしての代執行なんかできなかったんじゃないか」と語る。立ち退きの代償に支払われた「補償金」は八十万円也。居宅である「小屋」を踏みつぶした空港公団が用意した「住居」にはいることを、彼女は峻拒したのでした。

 国家そのものが「人間の値うち」を財産や学歴でみている。その国家が掌握する学校教育で生産されるのも同じ価値観・人間観をもつ人間もどきであるのはいうまでもないことです。器用な児童、要領のいい生徒、つまりずるがしこい人間の再生産装置です、学校は。

 国家のいいなりになるのも、国家にたった一人で対峙するのも、自らが経験してきた教育(生き方)によります。「もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから」どうしても国家権力の理不尽なふるまいをみとめるわけにはいかない、たった一人の闘いであると同時に、個人の権利を踏みにじられたくない人間たちの闘いでもあったのです。この生き様です、一人ではないし、人間としても闘い、ぼくはここに尊厳をいだきながら生きてきました。

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 成田空港(土地収用)問題、ぼくはこれ一つだけでも国家というものが許しがたい代物だと断じてきました。国際化の時代に羽田(米軍の横田基地に配慮するために)に代わって「空の玄関」を求めていた国は、いろいろ千葉県内を物色した挙句、成田の三里塚に白羽に矢を立てた。ぼくが大学に入ったころでした。なぜここを選んだか、胸糞が悪くなるような理由からでした。(今は省略)「ここに空港をつくるから、お前らはどけ。代わりの土地はやるからさ」といった態度で農民を蹴散らそうとした。乱暴のかぎりをつくした。これも詳細は省きますが、ぼくは戸村一作さん(反対同盟委員長)の話を聞いたり、それなりに問題を知ろうとしたのを今も忘れていません。

 これは今から考えれば、あきらかに「若気の至り」といえそうですが、後悔はしていない。十分に反対の意思を表さなかったという忸怩たる思いも手伝って、「ぼくは絶対に、成田空港からは乗らない」と誓いました。以来半世紀以上が経過しました。友人を送り迎えするために仕方なしに空港に出かけますが、一度たりとも飛び立つことはなかった。かみさんが外国に出かけるときも、空港に近づきさえもしなかった。そのために何かと不便や不利益がありましたが、「許し難い」という気持ちと、身命を賭して「権力の理不尽さ」と闘った人々の衷心を考えれば、当然であると今も固く思っているのです。

 権力は、厚顔にも「国民の生命財産」をいとも簡単に足蹴にします。他国の専制権力を云々できないのではないですか。人権を足蹴にしたり踏みにじったり、それは悪辣国家のやることです。土足で踏みつけるだけではない。白足袋を履いた足で踏みつぶすこともある。あの手この手で、言うことを聞かぬ(従わない)ものを苛め抜くのです。

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●小泉よね=生年明治40(1907)年11月25日 没年昭和48(1973)年12月14日 出生地千葉県印旛郡八街村 別名=小泉 よね(コイズミ ヨネ) 経歴7歳の時から子守、女中奉公、露店商、行商などで流浪。昭和17年ブローカーの大木実と結婚、三里塚(千葉県成田市)に定住。戦後、配分を受け、開墾した土地で農業を営む。23年に夫と死別。41年に結成された成田空港反対同盟に参加、闘争激化とともに行動・集会の先頭に立った。46年9月第2次強制代執行で反対派農家として唯一自宅が破壊され、東峰に移転。その後も運動を続けたが、48年12月心臓病で死亡。遺体は第2期工事の滑走路予定地に土葬された。その後、養子で市民運動家の小泉英政が国を相手に“土地の明け渡しを認めた緊急採決”の取り消しを求める裁判を起こし、平成11年国の謝罪により和解が成立。14年には新東京国際空港公団が小泉に対し空港地内の土地の使用権を認めた。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

●生年明治42(1909)年5月29日 没年昭和54(1979)年11月2日 出生地千葉県成田市三里塚 学歴〔年〕成田中(旧制)卒 経歴実家は三里塚に定着してから3代目の農機具商。また3代つづいたキリスト者。鉄の彫刻で二科展会員として活躍。昭和38年成田空港建設反対のキリスト者空港設置反対同盟を結成。41年より三里塚芝山連合空港反対同盟の委員長として、激しい実力闘争を続けた。42年より成田市議を2期務める。著書に「闘いに生きる」「野に起つ」「我が十字架・三里塚」「小説・三里塚」がある。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

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 生きられた生活が思想です

 (この「対談」は何度目かの登場です。たいへんに興味深い話が出てきますので、ぜひご一読を)

鶴見 ひとつ考えていることがあるんです。日本の歴史というと、私は近ごろのことしか知らないのですが、知識人と大衆との関係ということがずっと気になっているんです。さっきの血管が狭くなっているという問題ですね。これが学問としての日本の歴史を大変に貧しくしていると思うんです。それは明治以後の日本の知識人の養成ルートとの関係があると思うんです。幕末の教育を受けた人たちは、その養成ルートに乗っていない。養成ルートは明治半ばからできているわけで、これができたあとが「概念のブロック積み」になってくるわけですね。抽象名詞から発していたと思うんです。このまま行くと能率的であるが転換期にたえられない。

  抽象名詞も、暮らしの中に挿し木みたいに伸びていく可能性はあるんですけど、時間がかかるでしょう。「人権」という抽象名詞にしても、根づいてほしいんだけど、「人権」というと負け犬の遠ぼえみたいな感じがして、まともに金儲けしている人間はそんなこと言わんぞ、という反応が現に今の日本にあるでしょう。これでは困る。部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない。それは暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語を新しく使うことだと思うんです。昔の日本語から力を得ていく。抽象名詞は日本語の中で非常に少ないのですから、動詞や形容詞からもとらえていく。これは柳田国男が早くから言っていて、卓見だと思うんです。(中略)

 これから改革しなきゃいけないことは、とても多いんですね。外国人差別、在日朝鮮人、アイヌへの差別など、たくさんの問題があるでしょう。それらの改革は次の「一八五三年*」類似の事件が起こるまで待たなきゃならないのか。大まかにいえば、私の問題はそれなんです。(*嘉永六年六月にペリーが大統領の国書を携えて浦賀に来航。翌安政元年一月再来し、開国を迫る)

 網野 いまの高校の教科書を読んでいると、まったく「神話」といってもいいようなおかしなことが書かれており、いまだにそれが教壇で教えられているんですね。たとえば、「江戸時代の農村は自給自足であった。日本の人口の八〇パーセントは農民であった」ということなどそのよい例ですね。これは戦後のマルクス主義も含む歴史学のつくってきた歴史像ですけれども、この歴史像にとどまる限り、「日本国」や天皇の呪縛からは絶対に逃れられない。それをどうやって客観化できる立場に立てるかというのが現代のいちばんの問題だと思います。歴史学を勉強することは本当にコワイと思いますね。(中略)

 鶴見 「君が代」もそうですね。詠み人知らずの歌で千年残ってきたというのは面白いことです。敗戦後、すぐ歌う気力があったら、占領に対するはっきりした抵抗で、それは立派なものだと思うんですけど、七年間歌わないできて、突然復活してくる。そして今度は「君が代」を演奏しているときは校長が生徒に立て、と強制する。(中略)

 網野 いまのお話を伺っていて思いついたのは、津田左右吉さんのことなんです。…津田さんの本を私は全部読んでいるわけではないけれども、明治以後の歴史家の中では非常に特異な方だったという感じを持っているんです。津田さんは「生きた生活」という言葉が大好きで、彼が言おうとしたのは、極端にいえばいままでの日本の文学にせよ、思想にせよ、すべて本当の日本人の生きた生活に根ざしたものではない、ということだと思うんです。有名な「文学に現はれたる我が国民思想の研究」(一九一六~二一年)をはじめ、一貫して言おうとしているのはそれだと思うんです。  津田さんの書いたものには「生きた生活」という言葉がいたるところに出てくるんです。江戸時代の儒者に対する批判、国学者も同じで、みんな生きた生活から離れている、という言い方で批判を加えていくわけです。(鶴見・網野編『歴史の話』朝日新聞社刊、2004)(右上写真は津田左右吉)

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卯の花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき(芭蕉)

 門弟其角の母親の法要の際に、詠んだもの。「貞亨4年5月12日、44歳。この年、4月8日門人其角の母が逝去。その五七日忌の追善俳諧での句」とものの本に記されています。句意は「卯の花のあまりにも白いその花が、法要が営まれている宿(家)には、不似合いなほどに輝いている」とでもいっておきましょうか。

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 学校で習う(学ぶ)「歴史」がどんなものだったか、ひとそれぞれにある種の感慨や批判を持っていると思う。ぼくにもある。よく「歴史は暗記もの」などと粗末にされ、けっして真に迫って、それを学んだことはなかった。息苦しい学校時代を離れて初めて、ぼくは「歴史」をつかまえようとした。それは絶対に暗記ものではなかったし、暗記物にしてはいけないと痛感したのです。歴史に登場する人間は血も涙もある「にんげんそのもの」であり、だからこそ、その人間の所業を、ぼくたちは学ぶことができるのでしょう。ぼくのつたない経験から言えば、学校の歴史担当の教師は(全部ではありえないが)、いかにもつまらなさそうにしか「歴史」を「教えよう」とはしなかった。それが不思議でならなかった記憶が鮮明に残っています。さらに、歴史に登場する人物は映画や小説の主人公などには、まず収まりきらないのだとぼくは早くから断定していました。

 《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。

 私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を政治的傾向を異にする新聞がいかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒みずから考えることを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない》(加藤周一(1919-2008)「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)

 楝散る 川辺の宿の 門遠く

うつ‐ぎ【空木/×卯木】 =ユキノシタ科の落葉低木。山野に自生。幹の内部は中空で、よく分枝する。葉は卵形でとがり、縁に細かいぎざぎざがある。初夏、白い5弁花が群れ咲く。生け垣にしたり、木釘 (きくぎ) や楊枝 (ようじ) を作る。うのはな。かきみぐさ。(デジタル大辞泉)
佐作信綱作詞 小山作之助作曲(明治二十九年新編教育唱歌集)

 夏は来ぬ


卯(う)の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ
 
さみだれの、そそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ
 
橘(たちばな)の、薫るのきばの
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ
 
楝(おうち)ちる、川べの宿の
門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ
 
五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ

 この唱歌が出版されたのは明治二十九年五月。ギリシアで第一回近代オリンピックが開かれました(四月)。参加者は二百人余。今日の商売五輪とは「隔世の感」ですね。六月には三陸大津波が発生。死者三万余人とされます。痛感するのは、いつの世も災難や災害が途切れなく襲来しているさまです。百年余前も、まったく無防備だったというか、備えはあっても憂いもまたなくならないという、人の世の無常を痛感します。そんなことは長明さんが遥か悠久の昔に明示してくれているところではあったのです。

 この唱歌の歌詞を、ぼくはくり返し読んだものです。いまでは想像もつかない「夏の景色」が見事に謳いこまれているからです。今日ではもはや見られなくなった景物や動植物もありそうです。ようするに、夏は、あらゆるものを含めた「まるごとの夏」だったという思いを強くいだきます。卯の花や時鳥はまだしも、早乙女*(左写真)、玉苗(同)、橘(柑橘類の古名)(上部写真左)、楝(右上の写真)、水鶏(上部写真の右)は説明されなけれな分からなくなりました。「春の小川」が流れていたのは渋谷区の某所だったというのに等しく、土地も自然環境も破壊に破壊をくわえられて「近代化」とは、まことに野蛮な所業の残滓ではあったというべきです。

*二番の「早乙女」は変更されたもので、原詞は「賤の女」(しずのめ)でした。「しず〔しづ〕【×賤】[名]卑しいこと。身分の低い者。「貴人 (あてびと) 、―が身何の変わりたる所あるべき」〈藤村・春〉[代]一人称の人代名詞。拙者。わたし。江戸時代に幇間 (ほうかん) などが用いた。「君さへ合点なさるれば、―が聟になるぢゃげな」〈浄・卯月の紅葉〉(デジタル大辞泉)

 ここでは「卑しい、身分の低いもの」の意味で用いられたと考えられます。だれも「気づかない」ままで唱歌として人口に膾炙していました。「偏見と差別」はこうして根付いていくのです。個人の問題であると同時に、集団の「過ち」でもあるでしょう。

(このように、元の詞が変更された唱歌はとても多くあります。いずれは、これをテーマで記述してみようと考えていました。「春の小川」「港」「汽車」「蛍の光」ほか、数えられないほどあります。変更の理由もさまざまでした)

 この島社会の「偏見と差別」意識(風潮)が、学校音楽にも導入されていたという時代相が読み取れます。今少し、この問題をていねいにたどらなければならないと考えております。

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 文明化は野蛮化を意味しているんじゃないかとさえ言いたくなります。文化は自然を根拠にしています、その文化を遅れたもの、未開なものと野蛮視した「文明」こそ野蛮であったというのは、どうしたことだったか。豪雨も暴風も止められないのは自然の摂理です。

1800年代と2000年代の東京湾の比較

 人命もまた、近代化や文明化という残虐野蛮行為の絶えざる犠牲に供されてきているのです。

 「夏は来ぬ(夏は来た)」、けれども往時の風情も情緒もすっかり滅却してしまい、あるのは狂気の熱波と暴風雨ばかりです。これは紛れもない人為の心無い業の惨たらしい結果でもあります。これを書いている今(6月28日午前6時ころ)豪雨が屋根といわず土といわず、たたきつけるが如くに空から落下してきています。今春生まれたばかりの猫四兄弟姉妹は、脅威を感じて泣きじゃくっています、親もつられて大泣きです。ぼくは手当てにずぶ濡れ、かみさんはどこかへ泊り。

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 こんな人たちに負けるわけには…

 転ばぬ先の杖、などといいます。「前もって用心していれば失敗することはないというたとえ」(大辞林)なんと用心がいいのでしょう。おそらくそんな意味では使われなかったはずです。人間は自分の足で歩きたい。だれかに頼りたくないのです。それはどんなに小さな子どもでも同じです。転ばないように手を添えると、子どもは自尊心を傷つけられたと受けとる。自分から杖をもとうとするのではなく、横から親や大人が、無理にももたせようとするのです。おそらく、節介をいましめた俚諺(ことわざ)だったとわたしには理解されます。

表彰式の国旗掲揚で敬礼するヒトラー(中央)。スタンドの観衆も全員が立ち上がりナチス式の敬礼をしている=ベルリンのオリンピックスタジアムで1936(昭和11)年8月、高田正雄本社(毎日新聞)特派員撮影

 まちがえない、失敗しないように正解をあたえる。もらった側は、それを記憶するだけが求められる。それも試験が済むまでの間です。「与えられる不幸」というものを少しは考えたい。与えられることになれれば、かならず不満がでてきます。もらう一方だから、たまらない。自分でなにかしたいのに、させてもらえない不満です。自分で、自分の頭で考え、判断することを放棄してしまえば、それはひとりの人間であることのかなり重要な部分を失ってしまうことになります。「教える」は「与える」と同義で、それが教師の大事な仕事になっているところに子どもの不幸があるのではないでしょうか。もちろん、それは教師の不幸でもあるのですが。

 《 感じることのほうが、学ぶことの本来の領域であって、ことばにして話すとか、道徳的なことを学校の授業で学ぶということは、学ぶということのほんの一部であって、そういうことは、じつは身につかない学び方じゃないのかな。それは、学校を終えれば終わっちゃうことでしょう。そうじゃない? 感じ方って自然に身につく。こちらのほうが、いくらか本格的な教育ってことじゃないのかな 》(鶴見俊輔)

 「感じる」ことに直結していて、しかもその人の意志(意欲の存在)を証明するものとして「考える」ちからがある。ここで、<考える>というのは、<疑う>ということです。それはまた、<自由>ということにもなる。ぼくがいつも強く願ったのは、自分にも自由(考え・疑う)の精神があるということをそれぞれの人に実感してもらいたいことでした。私たちは不自由をかこっているにもかかわらず、その自覚がはなはだ乏しいと思われるからです。まるで、鎖につながれているのに、自分は鎖の長さの分だけ自由だと信じている犬のようではありませんか。鎖が長ければ、それだけ自由だ、そう信じているのは、犬ではなく人間の方かもしれないのに。

 <自由>って、不安であり孤独であるということでもあります。だから、そこから逃げ出してしまうことになんの不思議があるものかというわけでしょう。その反対に、自分は確信を得たと思ったとたんに、そこで崩れてしまう。これしかない、と決めこんだ瞬間、その足は地面を離れてしまう。あるいは足下をすくわれるのです。徒党を組むのも不安からの逃げです。宗教集団にはいるのも安心感を得たいからです。最後は、もっとも力のある者への帰依です。

 難しいですね。自由でありたい、けれど自由は「寄る辺ない」、それは不安そのものでもあるのです。その不安から逃げ出したいという人は、ぼくたちの想像を超えてはるかに多いのではないでしょうか。若いころから熟読してきた何冊かの本の一冊に『自由からの逃走』があります。著者はエーリッヒ・フロムでした。自由という不安に襲われて、人々は雪崩を打って「権力」(教会も含まれる)にすり寄りました。これはドイツだけのことではなかった。

*エーリッヒ・フロム=1900.3.23 – 1980.3.18 米国の精神分析学者。 元・ニューヨーク大学教授。 フランクフルト生まれ。精神分析の中での社会的要因を強調し、新フロイト主義の指導的役割を担ったユダヤ系精神分析学者。1930年より3年間フランクフルト社会学研究所に勤務し、その後コロンビア大学、ベニントン大学、’51年からメキシコ国立大学で教壇に立つ。’62年にはニューヨーク大学教授となる。「自由からの逃走」(’41年)や「正気の社会」(’55年)などの著書がある。(出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」)

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 この島では、ひとりの首班による政権が七年余もつづいています。驚くべき事態ですが、いったい何が行われて来たのでしょうか。余人をもって代えがたい人物だと衆目が一致したからの結果だとはとても思えない。「時宜を得る」という言葉がありますが、ぼくはそれにあたると考えてきました。どんなに無能であっても、取り巻き(政官財)が「無能者」を祭りあげ、そいつに「ものを言わせる儀式(腹話術)」(その舞台が国会でした)を期待通りに進めてきたのでした。その証拠に、何の成果らしきものは皆無だし、道義の退廃には顕著なものがあったにもかかわらず、「傀儡」は気分をよくして、される(担がれる)がままに、でたらめのかぎりをつくしていたのです。時宜を得当た」のは彼らであって、ぼく(たち)ではなかったのはいうまでもありません。

 なぜこんなに続いたか、それにははっきりとした理由や背景がありました。(詳細は別の機会に譲る)(表向きの)権力者の条件は「無知・無能」だけ。それをいいことに取り巻きは甘い汁やおいしい話を堪能してきたのです。

前回の都議選ではたった一回の街頭演説(秋葉原)で、「安倍辞めろ」コールを浴びせられ、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と絶叫した安倍首相(写真:日刊現代/アフロ)(17/07/02] 

 権力を行使し、暴力を使って「政権維持」を計ったのではない。それどころか、虚偽違法行為、(数を頼んだ)強硬政権維持の連続。くわえて数次の国政選挙によって「支持された結果」でした。民意とは何か、それはどこにあるのか。多数決とは?小選挙区制とは?野党は与党では?(幸いにして、「五輪」は延期(というより中止)になりました。かりに「コロナ禍」がなければ、ベルリン五輪と重なる、まるで恐ろしくも悪い冗談でした。これからも予断は許されませんが。(折悪しくか、こういう不謹慎な政情が続くのは、この小さな島だけの問題ではありません)

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 教師は芸術家である、と。

 教育実践とは何か

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 私は、実践ということは、いつでも事実を動かすことだと考えています。自分の目の前にある事実を、一つの方法でだめならば、他の方法で動かしてみる。そのようにして子どもがひとつの高い地点にいくと、いままで天井だった教育の可能性が、それをつき抜けて屋根の上まで遠のいていってしまう。そこに新しく生じた子どもの姿から、さらに高い子どもの可能性とか、人間像とかいうものが、私にみえてくるようになる。そういうことから、教育の可能性とか教育への願いとかが、つぎつぎと高いものになり、また事実が動き、新しい姿の子どもが出るにつれて、そのなかにある法則的なものをつかみ、つぎのより高い実践への噴射力としていったと思うのです。(中略)

 平面的に、機械的、形式的に一時間の授業が進行してくだけのものは、展開といえない。それは子どもを殺してしまっているし、教師自身も自分の持っている固定したものだけを、一方的に注入しているだけだから進歩しない。

 展開というのはもっと生きた力動的なものであり、それは一人の教師と一人の子どものあいだでできるのではなく、一人の教師と三十人とか四十人の子どもと相互の関係をもって、教材を使って、教師と教材、教師と子ども、子どもと教材、子どもと子どもとのあいだに、複雑な衝突・葛藤を起こさせさながら授業を進めていきます。

 そういう格闘をしていくと、教師がそれまで予想もしていなかったような論理とか、不完全ではあるが論理的になる要素を持っているものとかが、子どものなかから出てきます。そのときに教師は困って何もいえなくなり、自分の我なり固定した考えなりを押しつけて、これが世のなか通用の正しいことなんだ、というのではなくて、どうたたいら相手が納得し新しいものをつくり出していくだろうかとか、さまざまに考えいろいろの方法をとってみなくてはならない。

 それを克服したときに、非論理の子どもは、なるほど私はちがっていたんだとか、こういう意味でちがっていたんだと考え、クラス全体がパッと明るくなるわけです。そういうことをくり返す ことで、子どもが豊かになったり、強靭になったり、教師も人間として変わっていったりするんだといっているんです。そうすると、展開というのは、Aのほうへいこうと思っていたのが、パーッとそれてBという方向へいくこともあるし、Cのほうへいってしまうこともある。いろいろ動いていく。だから展開のある授業というのは、充実味もあるしダイナミックになる。それだけ授業の展開のすじみちをはっきりと記憶することもできる。(斎藤喜博「教育実践とは何か」斎藤喜博全集別巻2。国土社刊、1971年)

  教師の仕事の最重要部は授業です。授業がなりたたなければ話にならない。もちろん、いい授業とはさまざまな要素から生みだされるのだから、これぞ授業という定番はなさそうです。そのつど、心を新たにして授業を作りだしていくほかありません。「教える―教えられる」という決まりきった関係から自由になる、そこからしか授業の可能性は生まれそうにありません。斎藤さんはよく、「授業を組織する」といいました。あるいは「授業の成立」とも言われたりしました。それはどういうことだったか。

 斎藤さんの授業(教授学)論、教材研究論に耳をかたむけてください。

《 教材研究というと、その文章を教師がわかるようにするとか、算数の問題がとけるようにするとかだと考えている向きもあるが、私の学校ではそういうものを教材研究とは いっていない。文章が解釈できたり、算数の答えが出せたりすることは、教師として当然なことなのであり、それは教材研究以前の問題である。

 そういう教師は問題外なのだが、ほんとうによい授業をやろうとするものは、一月に一度でもよいから、紙の上で生きてうごいていくような、創作的な指導案を書くような努力をしなければいけないのだと思っている。そして、固定した指導案しか書けない教師、固定した授業しかできない教師から、早く抜け出さなくてはならないのだと思っている。

 指導案が創作になり、授業が創作と同じようになったとき、「教師は芸術家である」ということが、はっきりいえるのだと私は思う 》(斎藤喜博『授業入門』)

●斎藤喜博=教育研究家。群馬県佐波(さわ)郡芝根村(現、玉村町)に生まれる。1930年(昭和5)群馬県師範学校卒業。長く小学校教員を務め、1952年(昭和27)佐波郡島村小学校長、1964年境小学校長となる。また戦後一時期、教員組合役員としても活躍。民主主義教育のあり方を授業実践のなかで厳しく追究し、民間教育運動や教授学研究に大きな影響を与えた。主著に『未来につながる学力』(1957)、『授業入門』(1960)がある。[三原芳一]『『斎藤喜博全集』(第1期全18巻・1969~1971、第2期全12巻・1983、1984・国土社)』(大辞林第三版の解説)

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 「教材研究」ってのは、まあ芝居でいえば本読みですね。白紙の状態で台本に当たり、読みを重ねていくうちに、その役のイメージを深く確かなものにしていく。そして読み合わせで、イメージの修正や強化などを施す。もちろん、それ以前に教師は教室という劇場で行われる「芝居(授業)」の「台本」を仕上げなければならない。

 教師のばあい、その表面の形式は「一人芝居」だけれど、実体はけっしてそうじゃない。それは「教材研究」といわれる作業を行っている時も変わらないことです。題材や単元を前にして、さてこれをどのように料理するか、客を思い描かないで包丁をにぎる板前を想像することはできないでしょう。教師もその意味では、立派かどうかはともかく、板前であり、役者でもあるのですよ。

 でも近年では、客がだれであるかに心を配らないで、弁当やソバなどをパックにして売っている店もあるように、まただれが作ったかを気にしないでそれを買う客がいるというように、万事がお手軽で無責任な商売を流行らせています。教師の世界もご同様といえば、腹を立てる向きもあるでしょうし、またそういう人(腹を立てる人)がたくさんいてほしいですね。客の素性を知らないで、ものが売れればそれでよしというのが商売なら、さていかにもお気楽ですねと、ぼくは憎まれ口を利きたくなります。(一回限りの講演が大流行りですが、なんともつまらないことです) 

 教材研究以前の問題をさも「教材研究」だと受けとめている人も少なからずいます。話すことを調べる、調べたことを話す、こんなのが教材研究であり授業であるはずがありませんね。先ず「教材」ですが、教科書はそれだけでは教材にはなりませんね。それをいっしょに学習する子どもたち向けに作り上げる(料理する)作業こそが、教材化の第一歩です。市場から買ってきた鰹を皿にのせて「召し上がれ」はないでしょう。刺身にするのかどうか、手を入れる「料理する」仕事を抜きにして、なにが魚屋かと、言いたくなるのは当然です。

 「教師は芸術家である」と斎藤さんは言っておられます。受け止め方はさまざまでも、その心意気は「芸術家」であってほしいと、ぼくも願うばかりです。「作品」はまた別個のいのちを持って生きていきます。でも、考えてみれば、斎藤喜博さんはとんでもないことを言っていませんか。芸術家だなんて、そんなことあるかよと、たまげる人がたくさんいると思う。当然ですね、偏差値や学力に血道を挙げているのが関の山なんだから。

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 死の島に向かっている

独バイエル、ラウンドアップ訴訟で和解金1兆円超の支払いに合意

2020年6月25日 14:47 発信地:フランクフルト/ドイツ

米カリフォルニア州の小売店に並ぶ農薬大手モンサントの除草剤「ラウンドアップ」。(2018年6月19日撮影)。(c)AFP PHOTO / Robyn Beck
ドイツ西部ボンで製薬大手バイエルの年次総会が行われる中、会場の外で抗議活動を行う人々(2019年4月26日撮影)。(c)INA FASSBENDER / AFP
【6月25日 AFP】ドイツ製薬大手バイエル(Bayer)は24日、除草剤「ラウンドアップ(Roundup)」の発がん性をめぐって米国で起こされた訴訟の大半について、計100億ドル(約1兆円)超の和解金を支払って決着させることで合意したと発表した。
 
 バイエルは、ラウンドアップの製造元である米モンサント(Monsanto)を2018年に630億ドル (約6兆7000億円)で買収したが、この除草剤のせいでがんを発病したと訴える訴訟が相次ぎ、大きな頭痛の種となっていた。
 バイエルのベルナー・バウマン(Werner Baumann)最高経営責任者(CEO)は、「長期にわたる混迷に終止符を打つため、和解はバイエルにとって適切なタイミングでの適切な行動だ」と説明した。
 
 バイエルはまた、ラウンドアップ以外の複数の製品をめぐる法廷闘争についても、数億円規模の和解金で決着をつけることで合意したとも発表した。/ 突然の発表を受け、バイエルの株価は時間外取引で6%近く値上がりした。/ バイエルによると、今回のラウンドアップ訴訟の和解により、約12万5000件の争訟の75%が決着する。
 
 ただ、学校の校庭を管理していたドウェイン・ジョンソン(Dewayne Johnson)さんがラウンドアップにより末期がんになったと訴えて7850万ドル(約84億万円)の損害賠償命令がバイエルに下された裁判など、同社が上訴中の訴訟3件は今回の和解に含まれていないという。(c)AFP/Michelle FITZPATRICK

 ずいぶん前から、ぼくはこの「除草剤」に関しては危険であるといい続けてきましたが、大半のホームセンターでは聞く耳を持っていなかった。ぼくは年中、草取りに追われています(そのときは「草刈正雄」になります)。だが、除草剤はほとんど使わない。理由は簡単、草が枯れ死するというのは、毒性があるという意味です。草を殺すものは、いつかは人を殺す。アメリカで無用になった(使い物にならなくなった)戦争武器を大量に日本は買わされている(トランプは「あべを脅せば、いくらでも買う」と蔑みの調子で言っていたと、ボルトン語録で)。この発がん性物質を含んだ「グリホサート」で作られている「ラウンドアップ」も同様で、日本を武器や毒薬の放棄(埋め立て)場としか見ていないし、その処理係が塵総理だというわけ。PMは国会議員夫婦ともども「jail」へ直行ですな。(この島は世界中から「笑いもの」ではなく、地球を壊す「危険な島」とされているんです)(ぼくは、ホームセンターでは危険人物視されています。営業妨害だ、とも。やがて裁判を起こすかも、実害は避けられているけれども)(上の新聞記事は日刊ゲンダイ Digital版・2019/5/22)

「ラウンドアップが世界中で禁止され閉め出されるなかで、唯一日本政府がモンサント(現バイエル)の救世主となって一手に引き受ける段取りをとり、日本市場になだれをうって持ち込まれている。国民の健康や生命を危険にさらし、子子孫孫の繁栄にもかかわる国益をモンサント(同上)という一私企業に売り飛ばしていることを暴露している。」(山口・長周新聞・2019年5月23日)