あなたをなぐさめてあげられるから

 入江杏(あん)さん著『この悲しみの意味を知ることができるなら 世田谷事件・喪失と再生の物語』春秋社刊。07年12月)

 《10年に近い海外生活ののち帰国した2000年12月31日未明、「世田谷一家殺人事件」に遭遇し、妹一家を失う。その後、犯罪被害からの回復・自助とグリーフケア(家族・友人など大切な人を亡くして大きな悲嘆に襲われている人に対するサポート)に取り組みながら、絵本創作と読み聞かせ活動に従事している〈ミシュカの森〉主宰。著書『ずっとつながってるよ こぐまのミシュカのおはなし』(絵本、くもん出版)。》(同書の著者紹介より)

 入江さんの語られる物語に『スーホの白い馬』がでてくる。お読みになった方もおれるでしょう。スーホという名の羊飼いの少年に一頭の白い馬がいた。その白馬は大きく成長し、国中でいちばん速く駆ける馬になった。しかし、殿様が主宰する大会で優勝したために、スーホは殿様に取り上げられてしまった。スーホのもとへ逃げ帰ってきた白い馬は身体中に矢を受け、傷ついていた。そして、とうとうスーホのもとで死んでしまったのです。

 悲しさにうちひしがれたスーホの夢のなかに現れた白い馬は、彼に語るのだった。

 「そんなに悲しまないで。わたしの骨や皮、筋や毛を使って、楽器をこしらえてほしい。

 そうすれば、いつでもあなたのそばにいて、あなたをなぐさめてあげられるから」

 夢で告げられたとおりに、スーホは楽器を作りました。それが馬頭琴です。スーホが奏でる馬頭琴は広いモンゴルの草原に鳴りわたり、たくさんの人びとのこころをなぐさめたのでした。

 「なんのために生きているのだろう、なぜ生き残ったのだろうと自問していた。そんな私に、にいな(妹の長女)が遺してくれたもの。それが悲しくも美しい再生の物語だったことに、不思議な符号を感じざるを得ない。

 この再生の物語は道しるべなのだろうか?私のグリーフケア(悲嘆の克服)の途上に与えられた道しるべ」(同上)

   亡くなる少し前ににいなちゃんが遺したのが「スーホの白い馬」の詩画だったという。

 この『スーホの白い馬』の引用のあとに『ツェねずみ』の話がでてきます。

 「私も何度も『まどってください!』と叫びたくなることがあった」

 「夢や情熱、挑戦する勇気、自分を信じて進んでいこうとする誇り。まどってほしいものは、形のあるものではなく、形のないものだった」

 やがて、意を決して、入江さんはもう一歩と前に進み出られたのです。

 「誰にまどってもらわなくてもいい。それ以上に、自分の中にまどってほしいと願うツェねずみがいることがたまらなく嫌だった」

 「私はツェねずみにはならない、そう誓った。心にあいた穴を埋めるのは自分自身だ、自分で自分の人生の意味をもう一度見出さなければ。私の人生の創り手は私以外の誰でもないのだから」

  一瞬にして妹一家四人を奪われた姉の悲しみと嘆き。「この悲しみの意味を知ることができるなら」事件から二十年が過ぎました。この言い知れない凄惨で悲惨な事件によってでしたが、ぼくは入江さんと遭遇することになりました。一夕、さまざまな話を伺いながら、人生における「理不尽」というものを考えさせられてきました。報道で「世田谷」と耳にし、目にするたびに、入江さんの様子を思うのが習性のようになってしまいました。

 いくつもの未解決の事件。「悲嘆の克服」ということがだれにも起こりうるのでしょうか。

 『スーホの白い馬』にはいくつかのエピソードのような話が、ぼくにもあります。それはともかく、子どもがまだ小学校の低学年の頃、教科書に出ていた「物語」をノートに「書き写す」というばかばかしい宿題に夜を徹していたことがありました。ぼくはその教師の「愚行」に憤りを覚えたのでした。いまでも、その「憤り」の心持を覚えています。またはこれがどこかで触れたように思いますが、この「物語」の挿絵はぼくの友人の父が書かれたものでした。赤羽末吉さん。独特の太い線と鮮やかな色彩で、物語に欠かせない要素となっています。また、「馬頭琴」には、先入観からか、静かな音色であるにもかかわらず、ぼくの心はいつとはなしに波立ってしまうのです。

 二十年を経過した事件の解決はいつになるのでしょうか。この事件などもきっかけになり、「時効廃止」という新たな展開があったのでしたが(それからも十年が過ぎました)。

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●殺人などの時効廃止が27日成立、即日施行 殺人など凶悪犯罪の公訴時効の廃止や延長を盛り込んだ改正刑事訴訟法が27日、衆院本会議で賛成多数で成立し、政府の持ち回り閣議を経て、異例の即日施行となった。時効が未完成の過去の事件にも適用される。時効廃止を待ち望んでいた被害者遺族らは、一様にスピード審理による即日施行を歓迎した。(日経新聞・2010/4/27付)

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 自分の心を粉飾するな、祈れ

 渡部良三著『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波現代文庫、11年11月刊)

 一九四四年春、大学一年生で招集され、ただちに中国大陸に移された渡部良三さん。「新兵として、戦闘時における度胸をつけるため」と称して、中国共産党第八路軍(八路・ハチロまたはパロといった)を捕虜として捕縛されていた五名の中国人を、新兵四八人に虐殺(刺突・しとつ)させた。だが、たった一人の新兵が命令を拒否した。まさしく「敵前抗命」(銃殺刑に相当する)であった。以後、彼は要注意人物として、徹底した差別とリンチ(私刑)を受けつづけることになる。

 この「歌集」は内容といい、思想、姿勢に至るまで、異様というほかないものだといいたい。横暴傍若、抗すべくもない権力に「身を賭して」まつろわなかった一学徒兵の魂が残さなければならなかった記録だとぼくには思われました。「小さな抵抗」と渡部さんはいわれますが、帝国軍隊には看過しえない存在だった。

 《 一九四四年春私は学徒兵として、大中華民国河北省深県東巍家橋鎮(現在の中国)という小さな屯に派遣された。駐屯部隊の一兵として教育訓練の日々を送っていた。鉛色の空が時に雲を薄くして日が射すかと思わせるような、すっきりしない日和の朝食の刻であった。内務班と呼ばれる兵等の居室で、折畳み式の細長い座卓を並べ、一五名の兵に担当分隊長一人、分隊付上等兵(分隊長の補佐、班付ともいう。自衛隊における士長)一人計一七名が朝食を摂っていた。いただきますという兵等の声が響いて幾許かの時間が経った時である。ばん! と食卓を叩き付けるような音と共に班付が立上がった。兵等は驚き一斉に班付の顔に視線を当てた。兵営内は朝食時間の静寂を刻んでいた。班付が口を開いた 》(渡部良三『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』初出は94年シャローム図書より刊行)

 《「飯を食い乍らでよいから聞け。分隊長殿に代って伝達する。今日は教官殿の御配慮によりパロの捕虜を殺させてやる。演習で刺突(しとつ)してきた藁人形とは訳が違うから、教官殿の訓示をよく聞き、おたおたしないで刺し殺せ!おどおどして分隊長に恥をかかせたりしない様にな。いいか…」

  驚愕と戸惑いと共に、どうにかならないかという漠然たる観念の堂々めぐりの中で、最も重要な位置を占めていたのは、この殺人演習を拒否すべきかであった。小さい頃から、自分の命も他人のそれと同等に置けない人間は、神の教えに背く者だと躾られてきたことに思いを致せば、当然、聖書の〝汝殺す勿れ〟をあげる迄もなく、答えは拒否の一事しかないのに、自分がどうしたたらよいのかなどと考える事自体異状であった。故郷を後にする時、山形の小さな旅館で、何時間かを過したあの日、父から与えられた言葉「…お前はこれから戦争に征くが、私の知っている限り日本の軍隊はお前のその冷めた眼を容れる事はないだろう。…今別れて戦地に行ってしまえば、父親として何もしてやれない。一言の助言もできない。それが切ない。しかし良三、どうか神に向って眼を開いていて呉れ」

 「最近内村鑑三先生の聖書の研究を読んでいたら、こう言う事が書かれていました。〝事に当たり自分が判断に苦しむ事になったら、自分の心を粉飾するな、一切の虚飾を排して唯只管に祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる〟と。だから心を粉飾することなく祈りに依って神様のみ声を聞くべく努めなさい。お前の言葉でよいのだ。言葉など拙くてもよい」》(同上)

 「殺す勿れ」そのみおしえをしかと踏み御旨に寄らむ惑うことなく  

 天皇はいかな理(わり)もてたれたもう人殺すことかくもたやすく 

 「捕虜殺し拒める奴はいずれなる」週番士官は興のあり気に 

 「渡部二等兵一歩前へ!」の号令に週番士官確かめ終えつ

《 私は戦場から生還し五〇年近い年月を経た時に故あって、有名な歴史学者でかつて大学教授だった方と…戦場における色々な行動について議論したことがありました。その方は「戦場において英雄的行動は期待効果が薄い(中略)虐殺拒否をする前に何故徴兵拒否をしなかったのか」と多分に批難をこめたと思われる調子の質問を受けました。

 この一言をきいた時、世の人々は虐殺拒否を英雄的行動と認(み)るのかと、むしろ愕然としました。当時反体制の立場に立つことによってうける迫害はこの平和の時代に在ってはとうてい想像出来ない恐怖であったが、その立場に立つ事が、英雄的などと誰が念頭におき、行動するでしょうか。    

 兵役拒否をしようと…、海外逃亡をしようとも、日本人である限りその歴史(的)責任から逃れることは出来ません。謂うなれば「天皇の赤子」(せきし)と持ち上げられ、天皇の名において侵略し戦争し略奪し強姦し火付けし無差別殺人をした将兵とどれだけのちがいがあろうか。外の目には五十歩百歩と映るでしょう 》

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●〈鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ 「虐殺こばめ生命を賭よ」〉―― アジア太平洋戦争末期,中国戦線で中国人捕虜虐殺の軍命を拒否した陸軍二等兵の著者は,戦場の日常と軍隊の実像を約700首の歌に詠み,密かに日本に持ち帰った.この歌集こそ戦争とは何かを描く現代史の証言であり,キリスト者による希有な抗いの記録である.(同書解説=今野日出晴)

■編集部からのメッセージ 本書は,日本陸軍の兵士として中国戦線を二年間従軍しながら,人を殺すことを拒み続けた一人のキリスト者が,兵士として戦場の日々を詠んだ約700首,戦場に行く以前と復員後に詠んだ歌も含めると924首が収録された歌集です.戦地の厳しい監視のなかで密かに詠まれ,記された短歌を巧みに祖国に持ち帰った著者は,国家公務員を定年退職後に本格的に歌集の編集に従事して敗戦後約50年も経ってから歌集として刊行しました(シャローム出版,1994年).

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 渡部(わたべ)さんの書を、ぼくは戦慄を覚えながら読んだ。その当時の心境をいまでも鮮烈に記憶にとどめています。この歌集本が出版されるについても、つらい体験が裏打ちされていました。「人を殺さない」という一念が、一兵士をどんなに残酷は国家の仕打ち(虐待)に耐えさせたか。民が困っているから、急場しのぎに「給付金」などとお為ごかしをするのも国家の姿ですが、死なないように「殺す一歩手前のいたぶり」「寸止めの殺害」を犯し、いのちを「蹂躙する」のも国家です。それを「人民の同士討ち」でやらせるという無体・卑怯千万の振舞い。「美しい国」などというのはありえないし、それを「国家の本性」などと糊塗するのは虚人の本性でしょう。人民のいのちを歯牙にもかけていない、それこそが「国体の本義」なんだぞ。

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 A man is arrested after driving …

A tanker truck drives toward thousands of protesters on a Minnesota highway on Sunday.Credit...Eric Miller/Reuters 
 
A tanker truck barreled through thousands of protesters  in Minneapolis on Sunday afternoon, coming to a stop as the crowd parted to avoid getting hit.The Minnesota Department of Public Safety said that no one had been struck by the truck, although some protesters told local media that they had seen people with injuries. The police said the driver was “inciting” the peaceful protesters, and that he had been arrested and treated at a hospital for non-life threatening injuries(N.Y.T. Published May 31, 2020 Updated June 1, 2020)
A crowd protests in Times Square on Sunday, in New York.Credit...Chang W. Lee/The New York Times

Could protesting spread coronavirus? Officials are worried.
Mass protests that have brought thousands of people out of their homes and onto the streets in cities across America are raising the specter of new coronavirus outbreaks, prompting political leaders, physicians and public health experts to warn that the crowds could cause a surge in cases.
 More than 100,000 Americans have already died of Covid-19, the disease caused by the new coronavirus. People of color have been particularly hard hit, with rates of hospitalizations and deaths among black Americans far exceeding those of whites(Same as above)

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 全米の数十か所で黒人暴行死への「抗議活動」が発生しています。多くの都市では「夜間外出禁止令」も出されています。警察とデモ隊の衝突も生じています。さらには、軍隊の派遣も進められています。暴力の連鎖というべきなのか、あるいは…。デモ隊に突進するタンクローリー。運転手はデモ隊に引きずり出されたが、けが人はいなかったという。抗議する側の多くはマスクをしておらず、コロナ感染の危険性が憂慮されている。

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 米中西部ミネソタ州ミネアポリス近郊で黒人男性が白人警官から首を圧迫され死亡した事件への抗議活動は5月31日、全米数十の都市に広がり、各地で暴徒化したデモ隊と警察が衝突した。ホワイトハウス前で撮影(2020年06月01日 ロイター/Jim Bourg)

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 地下深くに貯蔵されている火山のマグマ(magma)のように、何かのきっかけがあれば、いつでもそれは大噴火する。噴火すれば、沈静化させることはできない。この場合のマグマはつねに生み出されている「差別と偏見」だろう。あからさまな人種差別に多くの人は耐え忍んでいるのだ。いちいち抗議していても「拉致は開かない」と考えているのか。あるいは「今に見ていろ」と腹を決めているのか。直接自分は差別されていなくても「差別の理不尽さ」に怒りを覚える人はいくらでもいます。ぼくは現下の「権力が行使した一連の暴力沙汰」を対岸の火事とは見ない。この島においても、いつでも「権力の暴走」は起こりうるし、それが暴力を伴うのは必然でもあると思う。なぜかかる事態が起こるのか。まずは、政治の問題だ。「香港も燃えて」います。

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 半日本人の抗いの記

「シンセタリョン(身世打鈴)」

 大山も(カン)もわが名よ賀状くる

 名を問はれ生姜の姜の字と書く()け地

 ビール()むにつぽん人の(かほ)をして

 ビール酌むわが本名を告ぐべきか

  〝パンチョッパリ〟と嘲笑(わら)ふ者あり、それもよし。吾は半日本人なり

 河豚の座の毒も食らはむパンチョッパリ

  失業 

 蝶去りてパンチョッパリはまた昼寝

 望郷や夕焼けの(いろ)にごりゆく

 故郷(ふるさと)が無いから黙つて花菜食ふ

 指紋()す拳に汗を握りしめ

 選挙権なし銀杏(ぎんなん)を踏み砕く

 永住権貰ひにゆくや河豚(ふぐ)食ひて

 永住を許されし夜や底冷えす

 祭り太鼓われ他国(よそ)者と思ふ日ぞ

 本名と通名 一九三九年、日本が植民地支配のため皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の氏名に変えさせる「創氏改名」が発令された。四五年八月の解放後は本名にもどったが、在日朝鮮人・韓国人の場合、民族差別等のため今日も通名として創氏改名時の名を使っている者が多い。

 在日 一九一〇年から一九四〇年代にかけて日本帝国主義の植民地支配の結果、日本への移住を余儀なくされたり、太平洋戦争中に労働力として強制連行された朝鮮人の数は百十九万人を超す。日本の敗戦による解放後も米ソによる南北朝鮮の分割占領、朝鮮戦争勃発などによって日本に在留せざるをえなくなった者およびその子孫を「在日」とよぶ。

 パンチョッパリ 半日本人という意味。チョッパリとは豚の足のことである。下駄を履くとき足の指が(ひづめ)のように開くことから日本人を罵る語として使われる。韓国人でありながらチョッパリ(日本人)化していった〝在日〟の蔑称でもある。

 外国人登録 在日韓国人・朝鮮人は三年ごとに外国人登録の切り替えをしなければならない。顔写真を提出し指紋を()す。自分が日本人でないことを再確認する時でもある。

 一九八三年、外国人登録法が改正され、永住権を持つ在日韓国人・朝鮮人の指紋押捺(おうなつ)義務が廃止された。だが外国人登録証明書の常時携帯義務と罰則はそのままで、登録証を携帯していないと外出もできない。

 永住権 一九六五年六月二十二日「韓日条約」と同時に調印された「在日韓国人法的地位協定」は「韓国籍」を取得した者にのみ永住権を認可することにした。さらにこの年の十月「韓国だけが国籍、朝鮮は用語」という統一見解を出し、在日韓国人・朝鮮人の二分政策に拍車をかけた。(姜琪東(Kang Kidong)『身世打鈴 シンセタリョン』石風社、1997年)

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  姜さんは一九三七年に高知県に生まれた韓国人です。身世打鈴とは「身の上話」にあたるものですが、姜さんの「身の上話」はじつに読むのがつらくなるようなドラマといえるでしょう。

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 「本書はいわゆる〈句集〉ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ〈半日本人〉と呼ばれる男の精いっぱいの抗(あらが)いの記である」

 「考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句なのである」(「あとがき」)

 ここにも一人の「在日韓国人」がいます。

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〇姜琪東(カン・キドン、1937年 – )は俳人。高知県出身、福岡県在住。横山白虹、加藤楸邨に師事。元アートネイチャー代表取締役会長。現・出版社「文學の森」代表取締役社長、月刊『俳句界』発行人兼編集総務。通名は大山基利。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 「在日のおかれている現実は、在日という言葉が存在する限り、在日コリアンがこころから笑い合える日は永遠に来ないのだ。」(『ウルジマラ(泣くな)』「あとがき」)

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 悲しみと怒りが、ぼくが詩を…

<1> 二つの顔 療養中 朝鮮戦争に衝撃

詩人 御庄博実さん(1925年~)2010/7/27

現役の医師として診療現場に立つ(広島市安佐南区の広島共立病院・右写真)

 詩人と医師。御庄博実さん(85)=本名丸屋博、広島市安佐南区=は二つの顔を持つ。岩国市に生まれ、原爆投下2日後に知人を捜し広島市内に入った。戦後、峠三吉らと活動する一方、医師として国内外の被爆者に心を砕き、今も診療現場に立つ。(御庄さんは2015年1月18日に亡くなられました)(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39979

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 僕の中で、詩人と医師は併存している。「命と向かい合う」のが医師。それは、詩人も変わらないし、そんな詩人でありたい。「人間の命」への思いが底流にあります。

 最近の現代詩は思想が飛躍し過ぎて、「言葉遊び」になっている面がある。僕は医師、つまり科学者という面も持ってますから、あまり理屈を飛び越えてしまうとついていけない。古いタイプの詩人なんです。

 「文明社会」の根幹は批評精神と想像力の二つだと考えています。それは常に人間の命にかかわる問題。ピカソは、ヒトラーがゲルニカを爆撃して大量虐殺を行った際、すぐにあの大作を描き上げた。その想像力、批評精神。僕の詩の基本も同じです。政治や権威に対する批評精神は常に磨いておかなければならないと思います。

 ヒロシマを体験した僕は、医師として韓国人被爆者や、イラクの劣化ウラン弾被害者と真剣に向き合ってきた。すると、酒が発酵、熟成するように、言葉が出始め、詩が生まれるんです。

 岡山医科大(現岡山大)3年のときに結核を発症し、療養のために岩国に戻る。1950年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)。故郷は米軍の街に変貌(へんぼう)しようとしていた

 療養していた国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)からほんの数キロ先、敗戦により連合国に占領された岩国飛行場から、米軍の攻撃機が朝鮮半島に向けて飛び立っていくことに衝撃を受けました。

 岩国飛行場は戦前、旧海軍の飛行場として造られ、中学生だった僕たちも工事にかり出された。もっこを担いで土砂を運び、育ち盛りの稲が茂った青田を赤土で埋め立てた光景を鮮明に覚えています。子どものころ、友達と食用ガエルを捕って遊んだ思い出の場所でもありました。

 その飛行場が、米軍の攻撃拠点になり、また多くの命を奪っている。原罪感というのでしょうか。悲しみと怒りが、僕が詩を書くきっかけになりました。(この連載は文化部・伊藤一亘が担当します)(中國新聞・2010/7/27)

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 《 八月六日は家(舟入本町)におりました。腹が痛うて工場へ行かずに寝とったんです。そいでピカ落ちるのも知らなんだ。目つぶっとったので何も分からん。そいで目を開けてみたらふっと家が倒れるようなんです。さっと出たら下敷きにならなかったのに、起きたらふっと倒れるから倒れる方へ逃げたんです。それでぽかあんと下敷きになって。

 はじめは黒うて何も見えない。そのうちすうっと夜が明けるようになって、ありゃ家だけバラックじゃからつぶれたと思うて、家だけ爆弾落ちたあいうて隣の人呼んで、屋根がトタンだったきにね、それでも大きな板押さえとるからなかなか出られないです。どうして抜けられたか分かりません。上がろうにも穴がない。頭つっこんでみたり、腕をぐうっと上げてみたり、夢中であがいて、その時は簡単服着てたんですが、出られた時にはぼろぼろ真っ裸になっていました。そして上がってみりゃ家どこじゃない、みんなじゃ。》(李貞秀「裸で三日位歩いておったんです」) 

 李さんは1920年生まれ、四歳の時に渡日し、広島の吉島に住まわれた。被爆したのは二十六歳のときでした。韓国慶尚南道の陜川 出身でした。敗戦の年の十一月に帰国。その後の生活は辛酸をなめるがごとくといったものでした。九十年に死去。

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  《 昭和五年十二月二十八日、私は江波と境になっている広島市舟入町で生まれました。…

 私の父は、大正時代に故郷の慶尚南道の陜川を離れて広島にやってきて、鉄くずや 古本を集める仕事をしていました。母も韓国の人ですが、広島で知りあい、結婚したと  のことです。…/八月六日、運命の日の朝、八月の太陽が熱い光で広島を隅から隅まで  赤く彩りながら昇っていました。土手の上で赤いお日様に何かを祈っていた隣のお婆さ んの姿が、五十余年過ぎたいまでも私の脳裏に残っています。…

 その日は勤労奉仕で道路拡張のために家屋を倒す作業に従事していたそうです。仕事中に大原という少年が離れたところから手を振って自分を呼んだので、「何か変わったことがあるのかなと思い、列を外れて行ってみました」そこは元病院だったという建物で、疎開のために何ひとつ家財道具が残っていなかった室内に入っていったそうです。

 二人は風の通る涼しい奇麗な床に寝転んでみました。その時、何か黄色い光がぴかっ とした瞬間、私は気を失ったようです。気がついたときは薄暗い壊れた建物の下敷きに なっていました。崩れ落ちた壁土や、いっぱいの埃を打ち払い、側にいたはずの大原君 を捜したがどこに行ったのか見当たりません。私が気を失っていた時間がどのくらいで あったのか分かりませんが、死んだと思って先に逃げて行ったようです。…

 一九八二年三月頃から下腹が変に少し痛みを感ずるようになりました。たいしたこと ではないと思っていましたが、数日過ぎても治りません。病院に行き診察を受けました。 医師は神経性の大腸炎だと言い、注射と何日分かの飲み薬をくれましたが、痛みはます ますひどくなるので、大邱 の東仁外科病院に入院しました。そこで大腸の切除術を受 けました。妻の話によると、大腸がもつれて、約二十センチ切り、取り除いたと言うの です。八日間の入院が自分の気持ちではじりじりして何ヶ月もたったと思うほどでした。》(李順基「陜川で芽生えた広島のどんぐり」)

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 どれほど前のことでしたか(出版直後であったのを記憶しています)。ぼくの敬愛してやまない医師であり詩人でもある丸屋博先生から一冊の本が送られてきました。それは『引き裂かれながら私たちは書いた』(西田書店刊、2006年)。その副題は「在韓被爆者の手記」とありました。ある事情から先生との出会いがかない、何度か親しくお話を伺う機会がありました。また、何冊もご著書をいただくという幸運にも恵まれました。この『引き裂かれながら…』は読むのがつらい本でした。

 上に紹介した、ふたつの文章(引用)はそこからの引用です。

 「まえがき」で丸屋先生は「数年来交友をつづけていた原爆被爆者の李順基氏の進行癌が判明したのは二〇〇一年一月であった。五十六年遅れの原爆症というべきであろう。

 『ガン告知』をうけ、自らの『死』と直面しながらの彼に韓国人としての「被爆者の自分史」を書き残すことを強く勧めた。彼が苦悩しながら決意して書き終わるまで、年余にわたる痛恨の日々と深くかかわる事となった」

 この本には十一人の韓国人被爆者の悲痛な声が刻まれています。

 被爆した朝鮮人は広島で約五万人(約三万人死亡)、長崎で約二万人(約一万人死亡)だといわれています。日本は世界で「唯一の被爆国」だということがことあるごとに叫ばれます。はたしてそうなのか。表面的にはそうかもしれないけれども、日本人以外の被爆者が世界の多くの地域で「日本国」のいかなる庇護も援護も受けないままですくなからず存在されていた・いるという事実を忘れてならないでしょう。(五年も前に先生の訃報を聞いた後も、何もできない・していない自分の不甲斐なさをいまなお嘆いているのです。さまざな思いを込めて先生のお仕事をていねいに学んでいきたいと念じています。温厚そのものだった表情の下に、どれほどの怒りと悲しみを湛えておられたのか)

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