インタビュー 戦時世代が語る憲法といま オピニオン

『朝日新聞』2016-05-30(この連載は全10回続きました)
国民が権力を縛る 明治からつながる 日本の「持ち物」 憲法学者 樋口陽一さん
(大震災、原発事故、そして決められない政治。社会に行き詰まりを感じるなかで、憲法が障害だという意見も出ている。憲法に対する私たちの見方が変わってきているのだろうか。護憲の論客で「私は戦時世代」と語る樋口陽一さん(77)に聞きに行った。)
東京の自宅の窓から、六本木や赤.坂の街が見えます。夜には明るく輝いている。豊かさを楽しむ人たちがいるのでしょう。一方、3.11後の苦難を強いられている多くの人たちがいます。新聞の社会面には餓死や孤独死といった悲惨なニュースが絶えません。
公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。/ 大震災、そして原発事故という大きな試練と合わせ、一度、戦後の出発点に立ち返って考える時期だと思います。私自身は、まだ答えは見つかっていません。(以下は「憲法前文」です)

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敗戦の年の1945年、私は仙台市内の国民学校の5年生でした。7月に空襲があり、危なくなったので家族で農家の馬小屋を借りて住み、そこから通学しました。当時の学校は兵営みたいで暗く、貧しかった。級長をしていましたが、ある日先生から「副小隊長を命ず」という辞令を渡された。クラスが軍の単位でいう小隊で、先生が小隊長、私が副小隊長というわけです。
夏休みが終わって2学期になったら、役の名前が学級委員に変わりました。学校も急に民主化されたのですね。福沢諭吉流に言えば、一身にして二生ならぬ三生を経る、です。

私たちの世代は戦争には行きませんでしたが、戦時を体験したという意味では「戦時世代」です。この体験を次の世代に引き継げただろうか、という思いがあります。/ 戦前の日本がすべて真っ暗な時代だったというわけではありません。誰でも知っている明治時代の自由民権運動があり、これも誰でも知っている大正デモクラシーがあり、マルクス・エンゲルス全集が世界で一番売れたという時代もありました。/ 45年7月に米・英・中の3カ国が日本に降伏を求めたポツダム宣言に、こんな文言があります。「日本国政府は日本国国民の間に於(お)ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし」。戦前の日本には民主主義があったことを、ほかならぬポツダム宣言の起草者が認識していたわけです。(右は朝日新聞・2015/05/21)
日本国憲法を「この国に合わない」「押しつけだ」と非難する人たちがいますが、それは違う。この憲法の価値観は、幕末以来の日本の近代と無縁ではありません。先ほどあげた自由民権運動や大正デモクラシーといった、幕末・明治以来の日本社会の「持ち物」とつながっています。むしろ35~45年の国粋主義、全体主義の時期こそ、幕末からの流れと異なるものだった。ポツダム宣言は軍国主義に染まる前の日本の民主主義を「復活強化」せよといい、日本政府はそれに調印したわけです。

大東亜戦争に負けた翌々年の5月3日、日本国憲法が施行されました。私は新制中学の1年生でした。初めて日本国憲法を知ったときの印象ですか。学校であの有名な冊子「あたらしい憲法のはなし」が配られました。当時の私は「そういうものか」ぐらいの感じでしたが、少し年上の先輩は「基本的人権」という文字を見て、そんな言葉があるのかと身震いしたといいます。
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日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことを決める。作家の井上ひさしさんは、人間にも砥石が必要だ、と言いました。砥石で自分を磨いて、立ち位置や居住まいを正す。それが憲法の言う人間像であり、人権の基本です。/ よく、人権というと、甘いとか、きれいごとだと受け止める人たちがいますが、実際は逆です。誰かが決めてくれた方が、ずっと楽ですから。その誘惑は常にあります。/ 自分で決めると言いましたが、「自分でも決めてはいけないこと」もあります。しかもそれが何かは、自分で決めないといけません。/ 国民主権についてもそうです。たとえば、ドイツ憲法は第1条で、国民主権よりも前に「人間の尊厳」をうたっています。ドイツは過去に国民全体でヒトラーとナチスを受け入れてしまった。それが大量のユダヤ人虐殺を生み、第2次大戦につながった。だから今度こそ、人間の尊厳を冒すようなことは決めてはいけない、たとえ主権者たる国民の多数を占めても、決めてはいけないことがある。憲法でそう定めたわけです。ドイツは、抽象的な憲法原理でそんなことを言っているわけではありません。(この項、続く)

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現行憲法の改正云々について、ぼくが言うべきことはほとんどない。戦後の社会科教科書「あたらしい憲法のはなし」に出ているその憲法観は、いまでもなおそのままで時代に合致していると考えます。細かいことをいえば、改正すべき箇所が全くないわけではありません。でもそれは、巷間言われ、声高に叫ばれている「九条」の変更や修正を指すとは思わないのです。この問題が出されると、ぼくはいつも思う。「九条改正を叫んでいるPMは、まともに現行憲法を読んだことがない」ということです。これは明らかだといいたいですね。勇ましいことを言っているだけで、根は卑屈です。飼い主に頭をなでられたいためにだけ、主人に従順なんです。もちろん、彼にとって「主人は国民」なんかではない。戦争の道具である「武器」を言いなりに、言い値で買わされている、まさしく国益を棄損している輩です。この期に及んで「憲法改正は、自分の手で」と、何とかの一つ覚えのように言いふらしています。この言い草こそ、憲法をまともに読んでいないという、ぼくの指摘が間違いでないことを示しています。
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