個人の成長危機を看過するな

 「教育」から「育てる」、そして「教える」へ

 《 学校は危機に陥っている。そして、学校に通っている人々もまた危機に陥っている。前者は制度の危機であり、後者は政治的態度の危機である。この後者の危機は個人の成長の危機であり、学校の危機と関連しているとはいえ、それとは別個なものとして理解する時にのみ、何とかうまく取り扱うことができる 》(イリイチ:After Deschooling, What ? )

 あまりにも学校に気をとられすぎて、つまり自分を預けすぎてしまって、ぼくたちは「個人の成長の危機」を見逃しているのではないか。学校があろうがなかろうが、なによりも一人ひとりがよく成長するという願いを無にすることはできないのです。そのためには「教える―育てる」ということを現実のものにすることであり、「学ぶ」「育てる」という側面を教師も生徒も自らのうちに体現することでもあると、ぼくはいいたいんですね。

 (左上に示した「表紙」はライマー(1910-1998)という人の『学校は死んだ』という刺激的な書物です。なぜここに出したかというと、イリイチはこの本に出合って、学校や学校教育の抱えている問題が途方もなく大きいということに気付いたというのです。現実社会の学校教育問題に開眼したのが、ライマーの本だった。ぼくも若いころ、必死で学校教育問題を考えていた時に、まず出会ったのがライマーでした。そこからフレイレを知り、イリイチを知り、それからという具合に多くの人に出会いました。もちろんホルトにも。ホルトはライマーといっしょに仕事をした同志士でもありました。ライマーについても、どこかで述べてみたい)(右写真ライマー)
 

 《 人々は、学習を商品として~新しい制度的なやり方が確立されたなら、より効率的に生産され、より多くの人々に消費されうる商品として~これからも扱い続けるのだろうか。それとも、われわれは、学習者の自律性~何を学習するかを決める個人の創意と、他の誰かのために役立つことではなく、自分のやりたいことを学習する、他人に譲りわたすことのできない権利~を守るそれらの制度的なやり方のみをととのえるのであろうか 》

 これは深刻な問題です。私たちはますます効率的になってゆく産業社会に適した人びと~リストラにあっても異議申し立てをしない従順な人間をつくる、より効率的な「教育」をさらに追い求めるのか、それとも~ここがいかにも「脱学校」論者のイリイチらしいところですね~「教育がある特別な機関の仕事ではなくなる、新しい社会」を希求するのか、そのどちらかを選択しなければならないというのです。換言すれば、教育をその筋の「専門家(学校)」に委ねるのか、それとも…。民にできることは民に、ではなく、自分でできることは自分で、ということです。自分の生き方を銀行に預けるなんて気が知れないことです。
 このことはぼくたちの社会の現実でもありますが、あまりにも産業化されすぎたところでは富や財の蓄積をもってしてもなお満たされない「無力感」や「貧しさ」から逃れることは容易ではありません。誤解を恐れずにいえば、すべてをその道の専門家にあずけてしまった結果、自らが体験できる領分が侵されてしまったのです。したがってそのような閉塞(へいそく)状況、隘路(あいろ)から抜けでるためには、反語的にいうのですが、一人ひとりが「専門家」になるほかないのです。

 政治や経済や教育や健康などといった分野で急速に進行したのは、素人としての市民がものをいえなく(いわなく)なった事態でした。「わたしはこう考える」「あなたの意見には賛成しない」と一人称で語る権利を、みずからが放棄し、他者によっても略奪されたのです。この沈黙した大衆のことを「無党派層」と蔑んできたのはだれだったのか。
 ビット(bit)とワット(watt)に生活を譲り渡すことから「現代の貧困」は生みだされたとイリイチは言います。学校教育の領域でも事情は変わりません。「情報(IT)と「能率(IQ)」を追求することばかりに身も心も奪われてしまった結果、そこにやってきたのは「教育」のありがたみの喪失でした。学校教育の完全な空洞化だったのです。

 さて、このような「個人の成長」が危機にさらされている時代、まさしく教育によってその危機が増幅されるような時代にあって、ぼくたちには、まだなにが可能なのか。

 《 教育と開発について語ろうとするとき、つぎの二つの仮定を抜きにして語ることはできません。第一の仮定は、内面世界と外的な世界は互いに別個のものであり、どちらも管理されるべきものであるという考え方。第二の仮定は、内面世界も外的な世界もともに、稀少であるような製品で満たされなければならないという考え方です。たとえば、「教育」とは、生徒たちの内面世界に、技能、能力、態度といったものを供給する制度化された事業を指していう名であって、こうした技能や能力や態度は、稀少なもの、かつ~教育者の判断によれば~社会的に望ましいもの、と考えられています。また、「開発」という名は、同じような制度的プロセスを、外的な世界にあてはめた場合の名であって、そこでは外的な世界は、まず、稀少な資源に満ちた環境として考えられ、それが、経済価値をもったさまざまな財に満たされた社会空間へと変形されていくのです。

 このように、「教育」は、わたしがここで使うような限定された意味に受け取るかぎりでは、社会的価値を有する知識は稀少なものである、という仮定にもとづく学習と固くむすびついています。また「開発」も、稀少性という仮定のもとでの価値創造を指すために用いられないかぎり、無用の「言葉のアメーバ」となってしまいます。教育・開発という仕方でこの二つが一緒にされて以来、人間的な成長と物質的な成長とは、二つの異なった領域における二つの建設事業のようなものと考えられるようになったのです 》(イリイチ「エコ教育学とコモンズ」)

 教育の経済的意味について

 なにか小難しいことをいっているように思われるかもしれませんが、そうではないんですね。イリイチは次のようなことをいっているのです。つまり、人的資本への投資は物的資本への投資と同じ意味をもっており、それは通分可能だということです。このことはべつにイリイチがいいはじめたことではなく、実に古くからある考え方を彼は事新しく(?)いったにすぎません。人は「人的資源(human resources)」(労働力)として評価されるのであって、人格・識見が評価されるのではないというわけです。

 《 人的資源につぎこまれる教育投資は、工場の生産能力、原料、債権などに次いで、経済成長の主要な要因の一つとして認められるにいたったのです 》(同上)

 物より人だ、ということがいわれますが、その「人」は「物」なんですね。人材といってみたり人的資源といってみたり。今日では事態は改善されたのでしょうか。たしかに、従前ほどには「人的資源」などとうるさくいわなくなった気もしますが、それは耳になじんでしまって、あらためて目くじらを立てなくなっただけなのかもしれない。正規と非正規社員、派遣社員、パートタイマー等々、従来の雇用慣行はズタズタにされ、労働は苦役のようになっています。なぜか、何よりも利益を得るのは(無駄な)資産・資金を残さないためでした。

 それでもなお、教育、それも学校教育の役割はかわりばえがしません。労働力の(再)生産は続けられているし、くわえて、「かしこい消費」~無駄なものを無駄とは思わないで消費させられる存在~となるための教育が深く静かに進行してきました。「いずれにしても、教育は、人びとを経済成長の付属物にする一手段」であったということです。 

 学校が学校であるかぎり、このような「経済的な」役割は変わらぬとは思うけれども…。無駄な空間(場所)を作りだし、それを無用なもので埋めるために教育は機能する。学校は道を外れていくし、企業はもともとの軌道を失ってしまいました。それをとりもどす余地はあるのか。或いは、まったく別の生き方が模索される時代なのでしょうか。

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