「学ぶ」は「教えられる」の先へ

 脱学校化とは?

 《しかし、わたしが脱学校deschoolingということばで意味したのは学校の非公立化disestablishmentでした。学校は廃止すべきだと考えたことはありません。わたしはたんに次のように訴えたのです。われわれはアメリカの憲法のもとで生活している―わたしはアメリカ人に向かって訴えたのです―。そしてアメリカの憲法において、あなたがたは教会の非国教化disestablishmentという概念を生みだしました。あなたがたは公的なお金をつぎ込まないことによって、非国教化(非公立化)をおこなう。そうした意味で学校を非公立化することをわたしは要求したのです。宗教についておこなったことをいま少し前進させて、学校に資金を投じるかわりに学校に税金を払わせ、それによって学校教育が奢侈の対象となり、(人びとから)そのようなものとみなされるようにすべきであると提案したのです。それによって、学校教育(学歴)の不足を理由とする差別は、人種や性別を理由とする差別が違法とされたのと同じように、すくなくとも法律上は存続しえなくなるでしょう》(イヴァン・イリイチ『生きる意味』高島和哉訳)

←ReimerのSchool Is Dead.の裏表紙の記載

 イリイチの、いわば回想録のようなものです。彼は2002年の12月4日に亡くなっています。最初のキャリアを牧師としてはじめた彼が学校で神学を学んでいたころ、もっとも好んでいたのが教会学というものだったそうです。それは教会という、国家でも法でもない理想的な共同体である教会の科学的な研究というものでした。彼がエベレット・ライマー(『学校は死んでいる』の著者)と出会い、学校教育に大きな関心を寄せるようになったとき、学校というものを分析するのに大いに役立ったのが教会学研究の方法だったというのです。

 雨乞いダンスという儀礼(儀式)

 干ばつがつづき、どうしても雨が必要だとなると、人びとは雨乞いダンスを踊ります。でもダンスを踊ったからといって雨が降るとかぎらないのですが、不運にして雨が降らなかったなら、そのとき人びとは自分たちの踊り方がよくなかったのだと考えてしまう。学校教育の結果がいいものでなければ、その責任は教育を「受ける側」にあるというのとまるで同じことです。 

 学校教育というのは「進歩と開発に専心する社会の儀礼である」と彼はいいます。それは消費社会を永続させるある種の神話をもたらしているのだ、とも。この指摘はもっともで、ぼくたちの社会が抱えている学校の困難もここに発するのです。「この道一本やり」という、おどろくべき無理筋に子どもも親も教師も巻き込んで、一心不乱にひた走ってきた。その結果がどんなに惨たらしい事態を社会や個人にもたらしたか。まだ続けるんですか。

 「学習とは、断片化され、量化されうるものであるということ、またそれを獲得するためにはあるプロセスを経る必要があるということを信じ込ませます。そしてそのプロセスにおいて、あなたがたは消費者であり、別の誰かは生産者です。こうしてあなたがたは、みずからが消費し内部に蓄えるものをつくりだすことに協力するのです」(同上) 

 『脱学校の社会』を書いた25年後(1996年)に彼がアメリカに戻って、状況がまったく変わっていないことに驚嘆します。おそらく執筆当時、イリイチはかなりの速度で状況が変化することを望んでいたし、そうなるだろうと予測していました。ところがあにはからんや、「非常に多くの人びとがそうした(神話を生みだしつづけている学校教育を受容するという)ナンセンスに対してこれほど寛容でありうるとは信じられなかった」というのです。

 その後、アメリカの大学生と関わるなかで驚きの中身が明らかにされます。

 《すくなくとも大学のシステムはテレビ(のシステム)のようになってしまいました。すべて(の知識)は断片化され、それを企画した人間によってのみ理解できるしかたで各種部品が組み合わされた強制的なプログラムが存在します。それは、自分たちが学ぶことは誰かに教えてもらわなければならないという事実にすっかり慣れきってしまった学生を生みだします。そしてかれらは、教えてもらわないことについてはけっして真剣に考慮しようとはしないのです。わたしは、人びとがそうした学校システムのさらなる発展について、これほど道徳的に寛容であり続けるとは思ってもみませんでした》(同上)

 一段と学校システムは既成の機能を強化することはあっても、イリイチが願ったような方向には向かわなかったということです。教師も生徒も、親も社会もひっくるめて、国家全体が既存の教育システムの変更を望まなかったからです。学校教育は個人にとっても社会にとっても投資であるということにもなりますが、これを別の観点からみれば、(教師にとっては)教えるばかりが、(生徒にとっては)教えられることだけが教育の代名詞になってしまった社会とはどんな社会だったのか。

 学校は一人の人間(の尊厳)を問題にしない仕組みで動かされているシステムです。その具体的な事例が、日常的に学校内で発生しているし、これでもかといわぬばかりに連日のように報道されています。

 学校の危機は教師や生徒という個人の危機に直結しているのです。だれかに学ばされるんじゃなく、自分で学ぶという、当たり前の生活をとりもどすことにつきます。だれかに奉仕するコマに甘んじる必要は毛頭ないのですから。 

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 「脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチ造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。つまり、教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びすなわち独学を取り戻すことである。」(wikipedia) 

(イリイチに関してはこれまでいろいろと触れてきましたが、今回でいったん終わりにします、多分)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。