歴史から学ばない「改憲」論の不義

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 民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。/ 近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。

 今から120年も前、大日本帝国憲法の制定にかかわる政府の会議で、伊藤博文がこう語っています。/「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」

 憲法をつくるとはこういうことです。伊藤は、いわば模範解答を残した。憲法によって国家権力を縛るという「立憲主義」の考え方を理解していたことがわかります。/ 明治から昭和のはじめにかけて、立憲改進党とか立憲政友会のように「立憲」の名を冠した政党がいくつもありました。それほどなじみのある言葉だったのです。では、現代の政治家たちはどうでしょうか。

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 私が生まれ育った東北は、戦前、貧しさに耐えられずに娘を売るなどということがずいぶんありました。一方、当時の東京の銀座や浅草ではモダンな消費文化が大きな花を咲かせていた。戦争も震災も、大きな格差を抱えた中での惨禍という意味で、私には重なって映ります。 3.11の天災・人災と生活格差が覆ういま、11条の「基本的人権」や13条の「幸福追求の権利」、そして25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」といった日本国憲法が持っている理念を、私たち戦時世代は次世代に引き継がなければいけません。冒頭で「戦後の出発点に立ち返って考える時期」とお話ししたのは、そういうことです。/ 停滞する政治や社会を、憲法を改正することで変えよう、という声が聞こえてきます。/ しかし、例えば衆参両院の議論がまとまらないのは、憲法が定める二院制が悪いからでしようか。決められない首相は、公選制になったら正しく決断できるようになるでしょうか。憲法に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるのだから、脱原発で電力が十分に供給されないのはけしからん、とでも言うのでしょうか。あの小泉純一郎首相でさえ、イラクヘの自衛隊派遣の際「参戦」とは言えなかった。本当に9条は空洞化したのでしょうか。

 自分たちで新しい憲法を書きたい、作りたいという若い人たちがいるそうですね。そのこと自体は健全な考え方だと思います。議論することには反対しません。

 ただ、お願いしたいのは、その際、日本の近現代史、さらには世界史まで視野を広げてほしいということです。少なぐとも幕末まではさかのぼって、自分たちの社会を作ってきた先人たちが何を考え、どういう犠牲を払って何を達成し、何を達成できなかったのか。どれを継承していくか、捨てるものがあるとしたら何か。過去の蓄積の上に現在があることを、忘れないでください。

 世界には、日本国憲法よりはるかに古い憲法を今も使っている国があります。アメリカでは「建国の父」たちの権威は絶対で、1788年に成立した合衆国憲法、あるいは1776年の独立宣言が現役です。フランスでは1789年の人権宣言が現行法なのです。彼らには、こうしたものを度外視して憲法草案をつくるという発想はありません。 憲法という基本法を作り直すということは、自分たちの歴史に向き合うことでもあります。論議をするのなら、そのことは十分に意識してほしいと思いますね。

 「決められない政治」にいらだつあまり、大きな物差しでこの社会の将来を考えることを、忘れないでください。(聞き手:編集委員・刀祢館正明、秋山惣一郎)(朝日新聞・12/05/02)

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 前回の最後の部分で、「あたらしい憲法のはなし」の憲法観でぼくには十分であるといいました。

 「あたらしい憲法のはなし」

 《 みなさん、新しい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへんな苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかかわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。》(文部省著作物『あたらしい憲法のはなし』1947年)

 これは新制中学校1年生の社会科教科書として作成され、52年まで使用されたのでした。教科としての社会科は戦後に新設されたものです。45年12月に「国史」「地理」がGHQの命令によって廃止され、その代わりとして教育課程に導入されたのです。そして社会科最初の教科書が『あたらしい憲法のはなし』だったのです。

 民主主義とは 

 《今度の憲法のコンポンとなっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とはいったいどういうことでしょう。(中略)民主主義とは、国民全ぜんたいで、国を治めてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で国を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また国も栄えてゆくでしょう》

 戦争の放棄

 《…戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。(中略)

 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争するためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。(中略)これを戦争の放棄というのです 》(以下略)

(青空文庫・http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html ) 

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 くりかえし、この教科書をぼくは吟味してきましたし、いまもまた読み返しています。歴を学ぶ、歴史に学ぶ、ということを体験していかなければと痛感しています。歴史を改ざん(修正)するというのは、歴史を否定する、無視することです。そうすれば、何のこだわりも悩みもなく、好き放題できそうに思われてくるのでしょう。この憲法がつくられた経緯、その憲法のもとに歩いてきた七十年。ある政治学者が「日本は『憲法』を負け取った」と言われたのを鮮明に覚えています。三十年近く前、戦後五十年に当たる頃でした。押し付けられたのではなく、負け取ったとは「相撲に負けて、勝ちを拾った」というのならば、なんだかせこい話ですけれども、あくまでも「負け取った」という一貫した姿勢を貫くことは間違いではないと、ぼくは考えてきました。

 いったい、どこと「戦争」するための「改正」亡者なんでしょうか。まさか、米国とでは。「積極的平和主義」とかなんとか、意味不明の強弁をいつまで続けるつもりでしょうか。「自分の手で、改正を」はどこから見ても無知の印です。蒙昧といってもいいですね。無残です。

 「あたらしい憲法のはなし」(官製憲法観)をチャラにして、「私自身の手で(改正を)成し遂げていく」(というのは、あからさまな憲法違反だ)という「天に唾する仕業」を果たすために邁進するのかな。仮にそうなったら、またまた「墨塗り」を行わねばならないね。「五輪開催」のために、現下のコロナ禍も「アンダーコントロール」と言い募るのだろうか。嘘は嘘を呼ぶとでもいうのですか。(ホントはこんな問題に触れるのは「虫唾」が走るんですが。以後は触れないように我慢します。できるかどうか)

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 難しいことを易しく、易しいこと…

 インタビュー 戦時世代が語る憲法といま オピニオン

『朝日新聞』2016-05-30(この連載は全10回続きました)

 国民が権力を縛る 明治からつながる 日本の「持ち物」 憲法学者 樋口陽一さん

(大震災、原発事故、そして決められない政治。社会に行き詰まりを感じるなかで、憲法が障害だという意見も出ている。憲法に対する私たちの見方が変わってきているのだろうか。護憲の論客で「私は戦時世代」と語る樋口陽一さん(77)に聞きに行った。)

 東京の自宅の窓から、六本木や赤.坂の街が見えます。夜には明るく輝いている。豊かさを楽しむ人たちがいるのでしょう。一方、3.11後の苦難を強いられている多くの人たちがいます。新聞の社会面には餓死や孤独死といった悲惨なニュースが絶えません。

 公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。/ 大震災、そして原発事故という大きな試練と合わせ、一度、戦後の出発点に立ち返って考える時期だと思います。私自身は、まだ答えは見つかっていません。(以下は「憲法前文」です)

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 敗戦の年の1945年、私は仙台市内の国民学校の5年生でした。7月に空襲があり、危なくなったので家族で農家の馬小屋を借りて住み、そこから通学しました。当時の学校は兵営みたいで暗く、貧しかった。級長をしていましたが、ある日先生から「副小隊長を命ず」という辞令を渡された。クラスが軍の単位でいう小隊で、先生が小隊長、私が副小隊長というわけです。

 夏休みが終わって2学期になったら、役の名前が学級委員に変わりました。学校も急に民主化されたのですね。福沢諭吉流に言えば、一身にして二生ならぬ三生を経る、です。

 私たちの世代は戦争には行きませんでしたが、戦時を体験したという意味では「戦時世代」です。この体験を次の世代に引き継げただろうか、という思いがあります。/ 戦前の日本がすべて真っ暗な時代だったというわけではありません。誰でも知っている明治時代の自由民権運動があり、これも誰でも知っている大正デモクラシーがあり、マルクス・エンゲルス全集が世界で一番売れたという時代もありました。/ 45年7月に米・英・中の3カ国が日本に降伏を求めたポツダム宣言に、こんな文言があります。「日本国政府は日本国国民の間に於(お)ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし」。戦前の日本には民主主義があったことを、ほかならぬポツダム宣言の起草者が認識していたわけです。(右は朝日新聞・2015/05/21)

 日本国憲法を「この国に合わない」「押しつけだ」と非難する人たちがいますが、それは違う。この憲法の価値観は、幕末以来の日本の近代と無縁ではありません。先ほどあげた自由民権運動や大正デモクラシーといった、幕末・明治以来の日本社会の「持ち物」とつながっています。むしろ35~45年の国粋主義、全体主義の時期こそ、幕末からの流れと異なるものだった。ポツダム宣言は軍国主義に染まる前の日本の民主主義を「復活強化」せよといい、日本政府はそれに調印したわけです。

 大東亜戦争に負けた翌々年の5月3日、日本国憲法が施行されました。私は新制中学の1年生でした。初めて日本国憲法を知ったときの印象ですか。学校であの有名な冊子「あたらしい憲法のはなし」が配られました。当時の私は「そういうものか」ぐらいの感じでしたが、少し年上の先輩は「基本的人権」という文字を見て、そんな言葉があるのかと身震いしたといいます。

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 日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことを決める。作家の井上ひさしさんは、人間にも砥石が必要だ、と言いました。砥石で自分を磨いて、立ち位置や居住まいを正す。それが憲法の言う人間像であり、人権の基本です。/ よく、人権というと、甘いとか、きれいごとだと受け止める人たちがいますが、実際は逆です。誰かが決めてくれた方が、ずっと楽ですから。その誘惑は常にあります。/ 自分で決めると言いましたが、「自分でも決めてはいけないこと」もあります。しかもそれが何かは、自分で決めないといけません。/ 国民主権についてもそうです。たとえば、ドイツ憲法は第1条で、国民主権よりも前に「人間の尊厳」をうたっています。ドイツは過去に国民全体でヒトラーとナチスを受け入れてしまった。それが大量のユダヤ人虐殺を生み、第2次大戦につながった。だから今度こそ、人間の尊厳を冒すようなことは決めてはいけない、たとえ主権者たる国民の多数を占めても、決めてはいけないことがある。憲法でそう定めたわけです。ドイツは、抽象的な憲法原理でそんなことを言っているわけではありません。(この項、続く)

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 現行憲法の改正云々について、ぼくが言うべきことはほとんどない。戦後の社会科教科書「あたらしい憲法のはなし」に出ているその憲法観は、いまでもなおそのままで時代に合致していると考えます。細かいことをいえば、改正すべき箇所が全くないわけではありません。でもそれは、巷間言われ、声高に叫ばれている「九条」の変更や修正を指すとは思わないのです。この問題が出されると、ぼくはいつも思う。「九条改正を叫んでいるPMは、まともに現行憲法を読んだことがない」ということです。これは明らかだといいたいですね。勇ましいことを言っているだけで、根は卑屈です。飼い主に頭をなでられたいためにだけ、主人に従順なんです。もちろん、彼にとって「主人は国民」なんかではない。戦争の道具である「武器」を言いなりに、言い値で買わされている、まさしく国益を棄損している輩です。この期に及んで「憲法改正は、自分の手で」と、何とかの一つ覚えのように言いふらしています。この言い草こそ、憲法をまともに読んでいないという、ぼくの指摘が間違いでないことを示しています。

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 「学ぶ」は「教えられる」の先へ

 脱学校化とは?

 《しかし、わたしが脱学校deschoolingということばで意味したのは学校の非公立化disestablishmentでした。学校は廃止すべきだと考えたことはありません。わたしはたんに次のように訴えたのです。われわれはアメリカの憲法のもとで生活している―わたしはアメリカ人に向かって訴えたのです―。そしてアメリカの憲法において、あなたがたは教会の非国教化disestablishmentという概念を生みだしました。あなたがたは公的なお金をつぎ込まないことによって、非国教化(非公立化)をおこなう。そうした意味で学校を非公立化することをわたしは要求したのです。宗教についておこなったことをいま少し前進させて、学校に資金を投じるかわりに学校に税金を払わせ、それによって学校教育が奢侈の対象となり、(人びとから)そのようなものとみなされるようにすべきであると提案したのです。それによって、学校教育(学歴)の不足を理由とする差別は、人種や性別を理由とする差別が違法とされたのと同じように、すくなくとも法律上は存続しえなくなるでしょう》(イヴァン・イリイチ『生きる意味』高島和哉訳)

←ReimerのSchool Is Dead.の裏表紙の記載

 イリイチの、いわば回想録のようなものです。彼は2002年の12月4日に亡くなっています。最初のキャリアを牧師としてはじめた彼が学校で神学を学んでいたころ、もっとも好んでいたのが教会学というものだったそうです。それは教会という、国家でも法でもない理想的な共同体である教会の科学的な研究というものでした。彼がエベレット・ライマー(『学校は死んでいる』の著者)と出会い、学校教育に大きな関心を寄せるようになったとき、学校というものを分析するのに大いに役立ったのが教会学研究の方法だったというのです。

 雨乞いダンスという儀礼(儀式)

 干ばつがつづき、どうしても雨が必要だとなると、人びとは雨乞いダンスを踊ります。でもダンスを踊ったからといって雨が降るとかぎらないのですが、不運にして雨が降らなかったなら、そのとき人びとは自分たちの踊り方がよくなかったのだと考えてしまう。学校教育の結果がいいものでなければ、その責任は教育を「受ける側」にあるというのとまるで同じことです。 

 学校教育というのは「進歩と開発に専心する社会の儀礼である」と彼はいいます。それは消費社会を永続させるある種の神話をもたらしているのだ、とも。この指摘はもっともで、ぼくたちの社会が抱えている学校の困難もここに発するのです。「この道一本やり」という、おどろくべき無理筋に子どもも親も教師も巻き込んで、一心不乱にひた走ってきた。その結果がどんなに惨たらしい事態を社会や個人にもたらしたか。まだ続けるんですか。

 「学習とは、断片化され、量化されうるものであるということ、またそれを獲得するためにはあるプロセスを経る必要があるということを信じ込ませます。そしてそのプロセスにおいて、あなたがたは消費者であり、別の誰かは生産者です。こうしてあなたがたは、みずからが消費し内部に蓄えるものをつくりだすことに協力するのです」(同上) 

 『脱学校の社会』を書いた25年後(1996年)に彼がアメリカに戻って、状況がまったく変わっていないことに驚嘆します。おそらく執筆当時、イリイチはかなりの速度で状況が変化することを望んでいたし、そうなるだろうと予測していました。ところがあにはからんや、「非常に多くの人びとがそうした(神話を生みだしつづけている学校教育を受容するという)ナンセンスに対してこれほど寛容でありうるとは信じられなかった」というのです。

 その後、アメリカの大学生と関わるなかで驚きの中身が明らかにされます。

 《すくなくとも大学のシステムはテレビ(のシステム)のようになってしまいました。すべて(の知識)は断片化され、それを企画した人間によってのみ理解できるしかたで各種部品が組み合わされた強制的なプログラムが存在します。それは、自分たちが学ぶことは誰かに教えてもらわなければならないという事実にすっかり慣れきってしまった学生を生みだします。そしてかれらは、教えてもらわないことについてはけっして真剣に考慮しようとはしないのです。わたしは、人びとがそうした学校システムのさらなる発展について、これほど道徳的に寛容であり続けるとは思ってもみませんでした》(同上)

 一段と学校システムは既成の機能を強化することはあっても、イリイチが願ったような方向には向かわなかったということです。教師も生徒も、親も社会もひっくるめて、国家全体が既存の教育システムの変更を望まなかったからです。学校教育は個人にとっても社会にとっても投資であるということにもなりますが、これを別の観点からみれば、(教師にとっては)教えるばかりが、(生徒にとっては)教えられることだけが教育の代名詞になってしまった社会とはどんな社会だったのか。

 学校は一人の人間(の尊厳)を問題にしない仕組みで動かされているシステムです。その具体的な事例が、日常的に学校内で発生しているし、これでもかといわぬばかりに連日のように報道されています。

 学校の危機は教師や生徒という個人の危機に直結しているのです。だれかに学ばされるんじゃなく、自分で学ぶという、当たり前の生活をとりもどすことにつきます。だれかに奉仕するコマに甘んじる必要は毛頭ないのですから。 

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 「脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチ造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。つまり、教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びすなわち独学を取り戻すことである。」(wikipedia) 

(イリイチに関してはこれまでいろいろと触れてきましたが、今回でいったん終わりにします、多分)

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 個人の成長危機を看過するな

 「教育」から「育てる」、そして「教える」へ

 《 学校は危機に陥っている。そして、学校に通っている人々もまた危機に陥っている。前者は制度の危機であり、後者は政治的態度の危機である。この後者の危機は個人の成長の危機であり、学校の危機と関連しているとはいえ、それとは別個なものとして理解する時にのみ、何とかうまく取り扱うことができる 》(イリイチ:After Deschooling, What ? )

 あまりにも学校に気をとられすぎて、つまり自分を預けすぎてしまって、ぼくたちは「個人の成長の危機」を見逃しているのではないか。学校があろうがなかろうが、なによりも一人ひとりがよく成長するという願いを無にすることはできないのです。そのためには「教える―育てる」ということを現実のものにすることであり、「学ぶ」「育てる」という側面を教師も生徒も自らのうちに体現することでもあると、ぼくはいいたいんですね。

 (左上に示した「表紙」はライマー(1910-1998)という人の『学校は死んだ』という刺激的な書物です。なぜここに出したかというと、イリイチはこの本に出合って、学校や学校教育の抱えている問題が途方もなく大きいということに気付いたというのです。現実社会の学校教育問題に開眼したのが、ライマーの本だった。ぼくも若いころ、必死で学校教育問題を考えていた時に、まず出会ったのがライマーでした。そこからフレイレを知り、イリイチを知り、それからという具合に多くの人に出会いました。もちろんホルトにも。ホルトはライマーといっしょに仕事をした同志士でもありました。ライマーについても、どこかで述べてみたい)(右写真ライマー)
 

 《 人々は、学習を商品として~新しい制度的なやり方が確立されたなら、より効率的に生産され、より多くの人々に消費されうる商品として~これからも扱い続けるのだろうか。それとも、われわれは、学習者の自律性~何を学習するかを決める個人の創意と、他の誰かのために役立つことではなく、自分のやりたいことを学習する、他人に譲りわたすことのできない権利~を守るそれらの制度的なやり方のみをととのえるのであろうか 》

 これは深刻な問題です。私たちはますます効率的になってゆく産業社会に適した人びと~リストラにあっても異議申し立てをしない従順な人間をつくる、より効率的な「教育」をさらに追い求めるのか、それとも~ここがいかにも「脱学校」論者のイリイチらしいところですね~「教育がある特別な機関の仕事ではなくなる、新しい社会」を希求するのか、そのどちらかを選択しなければならないというのです。換言すれば、教育をその筋の「専門家(学校)」に委ねるのか、それとも…。民にできることは民に、ではなく、自分でできることは自分で、ということです。自分の生き方を銀行に預けるなんて気が知れないことです。
 このことはぼくたちの社会の現実でもありますが、あまりにも産業化されすぎたところでは富や財の蓄積をもってしてもなお満たされない「無力感」や「貧しさ」から逃れることは容易ではありません。誤解を恐れずにいえば、すべてをその道の専門家にあずけてしまった結果、自らが体験できる領分が侵されてしまったのです。したがってそのような閉塞(へいそく)状況、隘路(あいろ)から抜けでるためには、反語的にいうのですが、一人ひとりが「専門家」になるほかないのです。

 政治や経済や教育や健康などといった分野で急速に進行したのは、素人としての市民がものをいえなく(いわなく)なった事態でした。「わたしはこう考える」「あなたの意見には賛成しない」と一人称で語る権利を、みずからが放棄し、他者によっても略奪されたのです。この沈黙した大衆のことを「無党派層」と蔑んできたのはだれだったのか。
 ビット(bit)とワット(watt)に生活を譲り渡すことから「現代の貧困」は生みだされたとイリイチは言います。学校教育の領域でも事情は変わりません。「情報(IT)と「能率(IQ)」を追求することばかりに身も心も奪われてしまった結果、そこにやってきたのは「教育」のありがたみの喪失でした。学校教育の完全な空洞化だったのです。

 さて、このような「個人の成長」が危機にさらされている時代、まさしく教育によってその危機が増幅されるような時代にあって、ぼくたちには、まだなにが可能なのか。

 《 教育と開発について語ろうとするとき、つぎの二つの仮定を抜きにして語ることはできません。第一の仮定は、内面世界と外的な世界は互いに別個のものであり、どちらも管理されるべきものであるという考え方。第二の仮定は、内面世界も外的な世界もともに、稀少であるような製品で満たされなければならないという考え方です。たとえば、「教育」とは、生徒たちの内面世界に、技能、能力、態度といったものを供給する制度化された事業を指していう名であって、こうした技能や能力や態度は、稀少なもの、かつ~教育者の判断によれば~社会的に望ましいもの、と考えられています。また、「開発」という名は、同じような制度的プロセスを、外的な世界にあてはめた場合の名であって、そこでは外的な世界は、まず、稀少な資源に満ちた環境として考えられ、それが、経済価値をもったさまざまな財に満たされた社会空間へと変形されていくのです。

 このように、「教育」は、わたしがここで使うような限定された意味に受け取るかぎりでは、社会的価値を有する知識は稀少なものである、という仮定にもとづく学習と固くむすびついています。また「開発」も、稀少性という仮定のもとでの価値創造を指すために用いられないかぎり、無用の「言葉のアメーバ」となってしまいます。教育・開発という仕方でこの二つが一緒にされて以来、人間的な成長と物質的な成長とは、二つの異なった領域における二つの建設事業のようなものと考えられるようになったのです 》(イリイチ「エコ教育学とコモンズ」)

 教育の経済的意味について

 なにか小難しいことをいっているように思われるかもしれませんが、そうではないんですね。イリイチは次のようなことをいっているのです。つまり、人的資本への投資は物的資本への投資と同じ意味をもっており、それは通分可能だということです。このことはべつにイリイチがいいはじめたことではなく、実に古くからある考え方を彼は事新しく(?)いったにすぎません。人は「人的資源(human resources)」(労働力)として評価されるのであって、人格・識見が評価されるのではないというわけです。

 《 人的資源につぎこまれる教育投資は、工場の生産能力、原料、債権などに次いで、経済成長の主要な要因の一つとして認められるにいたったのです 》(同上)

 物より人だ、ということがいわれますが、その「人」は「物」なんですね。人材といってみたり人的資源といってみたり。今日では事態は改善されたのでしょうか。たしかに、従前ほどには「人的資源」などとうるさくいわなくなった気もしますが、それは耳になじんでしまって、あらためて目くじらを立てなくなっただけなのかもしれない。正規と非正規社員、派遣社員、パートタイマー等々、従来の雇用慣行はズタズタにされ、労働は苦役のようになっています。なぜか、何よりも利益を得るのは(無駄な)資産・資金を残さないためでした。

 それでもなお、教育、それも学校教育の役割はかわりばえがしません。労働力の(再)生産は続けられているし、くわえて、「かしこい消費」~無駄なものを無駄とは思わないで消費させられる存在~となるための教育が深く静かに進行してきました。「いずれにしても、教育は、人びとを経済成長の付属物にする一手段」であったということです。 

 学校が学校であるかぎり、このような「経済的な」役割は変わらぬとは思うけれども…。無駄な空間(場所)を作りだし、それを無用なもので埋めるために教育は機能する。学校は道を外れていくし、企業はもともとの軌道を失ってしまいました。それをとりもどす余地はあるのか。或いは、まったく別の生き方が模索される時代なのでしょうか。

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