国は人権を踏みにじるだけの機関だ

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 《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか 》(以下略)(加藤周一「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)(この文章はすでに別のコラムで既出)

 加藤さんの文章は十数年も前に近隣諸国との間に生じだ「歴史教科書」問題のおりに書かれたものです。加藤さんも数年前に亡くなられました。いったい、この「愛国心」を誰かの専売であると考えている愚か者がいるのは、ぼくには解せないのです。いまでも「お前に愛国心を語る資格はない」といわれかねない雰囲気があります。アホらしいことですね。「~を愛する」かたち(方法)はひとそれぞれ、誰にも指さされる理由はないのではないですか。徒党を組んで「愛国心」は好まないし、同じく「衆を頼んで」反国運動もぼくの趣味に合わない。「愛する」のは、たった一人でだ。

 「愛国心を教える」ことはできても、愛国心とはなにかと「考えることを教える」なんてできない相談だと思っている、無精で無粋な教師や政治家たちがほとんどではないか、と減らず口を叩きたくなります。学校における「日の丸・君が代」はいったいどうなっているんですか。仕方なしに、あるいは無理やりに歌わせられて育つ「愛国心」とはどんなものか。裁判所を含めて、情けないくらいに「趣味が悪い」し、不細工です。歌っているかいないか、口に耳を当てて確認するような教育委員会には「学校教育」をゆだねられないですね。白昼堂々と「愚行」を恐れないという愚連隊が劣島に多すぎます。

 「愛国心教育」とは、学校の「儀式」で「日の丸・君が代」を強制されても文句をいわない、それを何十年もつづければ涵養される、そんなアホな教育だと見なされています。野鳥を捕ってきて鳥カゴにいれて飼いならすのとまるで同じ。飼いならすというのはカゴの中でしか生きられないと思いこませることでもあるのです。これを「飼育する」(breed)という。「教育」は「飼育」であり「強制」なんかでは、断じてありません。 

 「学校に対する不信感を強め」ないままで、ながい学校教育をうけいれてしまうと、どんな感覚の人間になるのでしょうか。皮肉でも何でもありません。正直に、思っていることを言いたいだけです。学校は、どんな人間をつくるつもりですか、一人一人の教師が問われているのです。それに対してどうこたえるか、それが日々、自らの実践が示しているところです。おわかりになりますか。

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 「おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ」これは飛行場建設にたった一人で反対し、国家権力に踏みにじられても闘った小泉よねさんの「戦闘宣言」です。早くに夫と死別し、土間と六畳間の「小屋」に住み、2アールの土地を一人で耕していたよねさん。そこへ突然、「ここを飛行場にするから、立ち退け」と大学卒の役人は一片の紙切れで命令を下したのです。66年のことでした。(大学はどんな人間を受け入れ、請出しているのか。今でも大学の教育は問われ続けています。「クイズ王」に沽券をかけている屑大学もある)

 「公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います」なんとしても理不尽な暴力を許せなかった。よねさんに四坪ばかりの土地(住まい)を貸していた島村良助さんは「よねに財産があったり、教育があったりしたら、よねにたいしての代執行なんかできなかったんじゃないか」と語る。立ち退きの代償に支払われた「補償金」は八十万円也。居宅である「小屋」を踏みつぶした空港公団が用意した「住居」にはいることを、彼女は峻拒したのでした。

 国家そのものが「人間の値うち」を財産や学歴でみている。その国家が掌握する学校教育で生産されるのも同じ価値観・人間観をもつ人間もどきであるのはいうまでもないことです。器用な児童、要領のいい生徒、つまりずるがしこい人間の再生産装置です、学校は。

 国家のいいなりになるのも、国家にたった一人で対峙するのも、自らが経験してきた教育(生き方)によります。「もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから」どうしても国家権力の理不尽なふるまいをみとめるわけにはいかない、たった一人の闘いであると同時に、個人の権利を踏みにじられたくない人間たちの闘いでもあったのです。この生き様です、一人ではないし、人間としても闘い、ぼくはここに尊厳をいだきながら生きてきました。

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 成田空港(土地収用)問題、ぼくはこれ一つだけでも国家というものが許しがたい代物だと断じてきました。国際化の時代に羽田(米軍の横田基地に配慮するために)に代わって「空の玄関」を求めていた国は、いろいろ千葉県内を物色した挙句、成田の三里塚に白羽に矢を立てた。ぼくが大学に入ったころでした。なぜここを選んだか、胸糞が悪くなるような理由からでした。(今は省略)「ここに空港をつくるから、お前らはどけ。代わりの土地はやるからさ」といった態度で農民を蹴散らそうとした。乱暴のかぎりをつくした。これも詳細は省きますが、ぼくは戸村一作さん(反対同盟委員長)の話を聞いたり、それなりに問題を知ろうとしたのを今も忘れていません。

 これは今から考えれば、あきらかに「若気の至り」といえそうですが、後悔はしていない。十分に反対の意思を表さなかったという忸怩たる思いも手伝って、「ぼくは絶対に、成田空港からは乗らない」と誓いました。以来半世紀以上が経過しました。友人を送り迎えするために仕方なしに空港に出かけますが、一度たりとも飛び立つことはなかった。かみさんが外国に出かけるときも、空港に近づきさえもしなかった。そのために何かと不便や不利益がありましたが、「許し難い」という気持ちと、身命を賭して「権力の理不尽さ」と闘った人々の衷心を考えれば、当然であると今も固く思っているのです。

 権力は、厚顔にも「国民の生命財産」をいとも簡単に足蹴にします。他国の専制権力を云々できないのではないですか。人権を足蹴にしたり踏みにじったり、それは悪辣国家のやることです。土足で踏みつけるだけではない。白足袋を履いた足で踏みつぶすこともある。あの手この手で、言うことを聞かぬ(従わない)ものを苛め抜くのです。

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●小泉よね=生年明治40(1907)年11月25日 没年昭和48(1973)年12月14日 出生地千葉県印旛郡八街村 別名=小泉 よね(コイズミ ヨネ) 経歴7歳の時から子守、女中奉公、露店商、行商などで流浪。昭和17年ブローカーの大木実と結婚、三里塚(千葉県成田市)に定住。戦後、配分を受け、開墾した土地で農業を営む。23年に夫と死別。41年に結成された成田空港反対同盟に参加、闘争激化とともに行動・集会の先頭に立った。46年9月第2次強制代執行で反対派農家として唯一自宅が破壊され、東峰に移転。その後も運動を続けたが、48年12月心臓病で死亡。遺体は第2期工事の滑走路予定地に土葬された。その後、養子で市民運動家の小泉英政が国を相手に“土地の明け渡しを認めた緊急採決”の取り消しを求める裁判を起こし、平成11年国の謝罪により和解が成立。14年には新東京国際空港公団が小泉に対し空港地内の土地の使用権を認めた。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

●生年明治42(1909)年5月29日 没年昭和54(1979)年11月2日 出生地千葉県成田市三里塚 学歴〔年〕成田中(旧制)卒 経歴実家は三里塚に定着してから3代目の農機具商。また3代つづいたキリスト者。鉄の彫刻で二科展会員として活躍。昭和38年成田空港建設反対のキリスト者空港設置反対同盟を結成。41年より三里塚芝山連合空港反対同盟の委員長として、激しい実力闘争を続けた。42年より成田市議を2期務める。著書に「闘いに生きる」「野に起つ」「我が十字架・三里塚」「小説・三里塚」がある。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです