
(この「対談」は何度目かの登場です。たいへんに興味深い話が出てきますので、ぜひご一読を)

鶴見 ひとつ考えていることがあるんです。日本の歴史というと、私は近ごろのことしか知らないのですが、知識人と大衆との関係ということがずっと気になっているんです。さっきの血管が狭くなっているという問題ですね。これが学問としての日本の歴史を大変に貧しくしていると思うんです。それは明治以後の日本の知識人の養成ルートとの関係があると思うんです。幕末の教育を受けた人たちは、その養成ルートに乗っていない。養成ルートは明治半ばからできているわけで、これができたあとが「概念のブロック積み」になってくるわけですね。抽象名詞から発していたと思うんです。このまま行くと能率的であるが転換期にたえられない。
抽象名詞も、暮らしの中に挿し木みたいに伸びていく可能性はあるんですけど、時間がかかるでしょう。「人権」という抽象名詞にしても、根づいてほしいんだけど、「人権」というと負け犬の遠ぼえみたいな感じがして、まともに金儲けしている人間はそんなこと言わんぞ、という反応が現に今の日本にあるでしょう。これでは困る。部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない。それは暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語を新しく使うことだと思うんです。昔の日本語から力を得ていく。抽象名詞は日本語の中で非常に少ないのですから、動詞や形容詞からもとらえていく。これは柳田国男が早くから言っていて、卓見だと思うんです。(中略)

これから改革しなきゃいけないことは、とても多いんですね。外国人差別、在日朝鮮人、アイヌへの差別など、たくさんの問題があるでしょう。それらの改革は次の「一八五三年*」類似の事件が起こるまで待たなきゃならないのか。大まかにいえば、私の問題はそれなんです。(*嘉永六年六月にペリーが大統領の国書を携えて浦賀に来航。翌安政元年一月再来し、開国を迫る)
網野 いまの高校の教科書を読んでいると、まったく「神話」といってもいいようなおかしなことが書かれており、いまだにそれが教壇で教えられているんですね。たとえば、「江戸時代の農村は自給自足であった。日本の人口の八〇パーセントは農民であった」ということなどそのよい例ですね。これは戦後のマルクス主義も含む歴史学のつくってきた歴史像ですけれども、この歴史像にとどまる限り、「日本国」や天皇の呪縛からは絶対に逃れられない。それをどうやって客観化できる立場に立てるかというのが現代のいちばんの問題だと思います。歴史学を勉強することは本当にコワイと思いますね。(中略)


鶴見 「君が代」もそうですね。詠み人知らずの歌で千年残ってきたというのは面白いことです。敗戦後、すぐ歌う気力があったら、占領に対するはっきりした抵抗で、それは立派なものだと思うんですけど、七年間歌わないできて、突然復活してくる。そして今度は「君が代」を演奏しているときは校長が生徒に立て、と強制する。(中略)

網野 いまのお話を伺っていて思いついたのは、津田左右吉さんのことなんです。…津田さんの本を私は全部読んでいるわけではないけれども、明治以後の歴史家の中では非常に特異な方だったという感じを持っているんです。津田さんは「生きた生活」という言葉が大好きで、彼が言おうとしたのは、極端にいえばいままでの日本の文学にせよ、思想にせよ、すべて本当の日本人の生きた生活に根ざしたものではない、ということだと思うんです。有名な「文学に現はれたる我が国民思想の研究」(一九一六~二一年)をはじめ、一貫して言おうとしているのはそれだと思うんです。 津田さんの書いたものには「生きた生活」という言葉がいたるところに出てくるんです。江戸時代の儒者に対する批判、国学者も同じで、みんな生きた生活から離れている、という言い方で批判を加えていくわけです。(鶴見・網野編『歴史の話』朝日新聞社刊、2004)(右上写真は津田左右吉)

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卯の花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき(芭蕉)
門弟其角の母親の法要の際に、詠んだもの。「貞亨4年5月12日、44歳。この年、4月8日門人其角の母が逝去。その五七日忌の追善俳諧での句」とものの本に記されています。句意は「卯の花のあまりにも白いその花が、法要が営まれている宿(家)には、不似合いなほどに輝いている」とでもいっておきましょうか。
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学校で習う(学ぶ)「歴史」がどんなものだったか、ひとそれぞれにある種の感慨や批判を持っていると思う。ぼくにもある。よく「歴史は暗記もの」などと粗末にされ、けっして真に迫って、それを学んだことはなかった。息苦しい学校時代を離れて初めて、ぼくは「歴史」をつかまえようとした。それは絶対に暗記ものではなかったし、暗記物にしてはいけないと痛感したのです。歴史に登場する人間は血も涙もある「にんげんそのもの」であり、だからこそ、その人間の所業を、ぼくたちは学ぶことができるのでしょう。ぼくのつたない経験から言えば、学校の歴史担当の教師は(全部ではありえないが)、いかにもつまらなさそうにしか「歴史」を「教えよう」とはしなかった。それが不思議でならなかった記憶が鮮明に残っています。さらに、歴史に登場する人物は映画や小説の主人公などには、まず収まりきらないのだとぼくは早くから断定していました。

《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。

私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を政治的傾向を異にする新聞がいかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒みずから考えることを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない》(加藤周一(1919-2008)「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)