新しい貧困を克服するために(承前)

 (直前の駄文(「新しい「貧困病」の処方箋は?」)で、一定の時間の経過とそこに生み出される経験を伴った行動を表す「動詞(学ぶ・遊ぶなど)」というものにとって代わって、単純な「名詞(学習・教育・卒業)」が重用される時代になってかなり久しい時間がたったという意味のことを言いました)

 これはどういうことか。おそらくは自らの思考や行為の一つ一つを具体的な問題にしなく(できなく)なっているのです。学生に関して言えば、たいていは「履修(単位取得)」や「卒業(修了)」だけが関心事なのだから。一年間の授業のなかで自分はどんなことを考え、どんな点に興味をもった(もたなかった)か、その結果、その授業で自分はなにを学んだ(学ばなかった)か、これをはっきりと表現できる学生はおどろくほど少数であろうと思われます。とにかく自分は教室に入っていた(「受講」していた)から「単位取得」は当然、その程度のものです。すべての学生がそうではないにしても、なにを「学んだか」という自己評価がないのはなぜかと、(ぼく自身の学生生活に比して)いつもふしぎに思っててきました。内容よりも結果、この価値観が社会全体に蔓延していると思うのです。

 それは学校教育の最大の欠陥であり、悪弊であるといえます。なにをどこまで学ぶか、学んだか、それをきめるのは子どもではなく教師です。自分ではよくわからないけど、試験の点数がいいから「頭がいい」のだと思い、数学の点数が高いから数学が「できる」とみなされる。教師が下す評価、それが「自己評価」となってしまうのです。

 自分が何者であるかを判断するのは他者。社会的に高い評価を得ているとみられる他者の評価であればいっそう好ましい。高い学歴や学校歴が求められる所以です。じつに奇怪な話であり、「新しい貧困」の病因がこんなところにもありそうです。苦労(苦学)しないで欲求(卒業)を満たしても、そこにはこころからの充足感はない。表面的には満たされているが、いつもどこかに不満が残る。

 このような状況を生みだしたのは一人の教師や一つの学校、さらには単一の社会や国家の意図によるものではない。それをはるかにこえた「近代産業経済」の規模の驚異的な拡大によってもたらされた事態だからこそ、状況は社会にとっても個人にとっても深刻だと思われるのです。社会・国家における「経済・物質」面での豊かさの追求が個人の成長にとって深甚な脅威となってしまっているのだと、ぼくはいつでも嘆きながら呻吟しながら、島の行く先には心を痛めていました。

 すべての物品が市場に集められます。極端なことをいえば、自分の住んでいる地域でとれた野菜や果物までもがいったんは大きな市場に運ばれ、そこから地域のスーパーや商店に配送されるのです。地産地消などということがいわれだしたのは近年の話ですが、それ以前は(それも想像できないくらい長い期間にわたって)、当たり前のこととして地域で生産されたものは地域で消費されていたのです。ぼくたちが摂食する食品類から季節感が失われましたが、その見返りにいつでもどこでも欲しいものが手に入る便利さを獲得したというわけです。いつでも「旬」というのは、どこにも「旬」がないことを意味します。

 市場にあまりにも依存するとどのような事態が生じるかという問題があります。代価さへ払えばなんでも手に入るというのは、自分で欲しいものを手に入れるために時間と工夫をまったく必要としないということです。自分の手足をつかわなくとも、つまり汗水たらすことなくある種の豊かさ(満足)を実感できます。しかし豊かであるにもかかわらず、どこかで満たされない感情もいだかされてしまいます。自力で行動しないで、想像力も創造力も用いないで、身の回りにたくさんの物品を取りそろえられるのがわたしたちの経験している「豊かさ」です。

 それはまた、市場にたよらなければ日常生活がなりたたないということをも示しています。品物に囲まれながら満たされない気分をぬぐえず、つねに無力感に襲われているということでもあるのです。「ゆたかさ」は「貧しさ」の別名ではないか、とぼくは思い続けてきました。その「貧しさ」から、ぼくの自由ではないのです。

 現代社会人をとらえているのは「新しい貧困」病だとイリイチはいいました。ぼくたちは市場に閉じこめられて生きるしかありません。満たされない気持ち、自分ではなにもできないという無力感、それは「あまりにも根が深く、まさにそのゆえに、それは容易に表現されえないのです」

 今春からの「コロナ禍」で、ぼくたちは「マスク」や「消毒液」、さらには「トイレットぺーパー」などまで「品不足」だと報道され、それを手に入れるために狂奔させられたのは、記憶に新しいところです。(付和雷同というのかね)市場(マーケット)の言いなりに、右に左にと振り子運動を余儀なくされていました。いまでも「真偽定かならぬ」情報に右往左往させられているのです。ぼくだけの感想ですが、今までに流されたコロナ感染問題に関する「広報・公報(中央・地方ともに)」には、いかにも嘘だ、眉唾だと思われるものがかなりありました。今もあります。そのためにかけがえのない「いのち」を失った人もいたといわなければなりません。一方からしか「情報」が流れてこないし、その真偽を自らが判断できないというのは、まことに不便であるし、危険でさえもあるのです。この問題は「コロナ問題」だけに限りません。

 イリイチ(1926~2002)がこのように指摘してから半世紀が過ぎました。経済の豊かさと精神の貧しさということならだれだって口にしますが、それがどんなにひとりひとりの存在の根っ子を腐らせているか、それを語る人はあまり多くはない。徐々にむしばまれているのです。それを止めるのは、なにかと「身を寄せすぎる」姿勢を正すことでしょう。自分のことは自分で、それを当たり前に実行するほかなさそうです。

 教育、それも学校教育が子どもの成長や発達にとって紛れもない危機となっている時代にぼくたちは生きているのです。その危機の度合いは年々強くなってくるのはなぜですか。自らが判断し、決断し実行する度合いが少なくなるのと反比例しています。この時代にあって、何かを指摘すれば、いつも同じ問題(課題)に逢着しています。それは仕方がないというのではなく、それは当然なのだというべきでしょう。手足を縛られていて「君は自由だ」をいわれても、それを実感できないというのは不幸そのものではないでしょうか。自分は何に縛られているのか。犬の首輪とリードは明らかに目に見え手で触れます。でも、ぼくたちの首輪やリードは姿を現さない。まずは、首輪を外すことでしょう。それを科しているのは「学校」かもしれないし「会社」かもしれませんね。現下の状況から、何かが生まれると期待するのです。

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