世界はアメリカを民主化できるか?

 《 民主主義の基本原則は、普通の人々の生に影響を及ぼす政治決定に普通の人々が発言権を持つ点だ。

しかし冷戦終結後の世界では、世界中のあらゆる地域に住む人々の生に重大な影響を及ぼす政治決定をおこなう権利を、冷戦期以上にアメリカの大統領が一人で握ってしまった。(中略)

 アメリカの民主主義は衰退している、と著書「ダウンサイジング・デモクラシー」(02年)で、M・クレンソンと・B・ギンズバーグは示唆した。現代アメリカの「シティズンシップ(市民権)」を分析したこの本で著者は次のように指摘している。

 20世紀初頭から進行しているものとして、公共領域にあるはずの政治が「権力者たちにより私益化」される現象の進行があるが、レーガンとブッシュ(ジュニア)という2大統領によってそれが急激に加速された。結果として起きたのが、無力感による市民脱政治化現象だった。そこでは主要な社会的・政治的課題への草の根的運動は困難となる代わりに、テロとの闘いやイラク侵略といった出来事で見られる無定形な愛国心の発揚に市民たちは集合的に鼓舞される、と。

 現在、鍵となる問いは、「アメリカは世界を民主化できるか?」では決してなくて、「世界はアメリカを民主化できるか?」なのではないだろうか。(中略)

 アメリカを民主化することは、外部世界に住む者たちの希望であるとともに、義務でもある。我々の生に重大な影響を及ぼす政治決定をおこなう権利を、アメリカ合州国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)が握っているのだから。冷戦は(ほとんど)終結したのかもしれない。しかし、冷戦後の世界の民主主義への長い長い道程は、今やっと始まったばかりである》(テッサ・モーリス=スズキ「アメリカを問い直す」朝日新聞・03/12/25)

(朝日新聞・2015年12月25日)モーリスさんはイギリス生まれの日本思想研究者です。現在はオーストラリア国立大学の名誉教授。『辺境から眺める』『批判的想像力のために』など多数の著書があります。

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 アメリカは移民から成り立ったクニ、多民族社会だといわれています。一面ではそうですが、他面では多民族を超えて政治権力が一極に集中され、その少数派がアメリカを代表しているという奇異な事態を招いているのです。そのアメリカは、「自らが世界(の代表)だ」と誇示していることをみれば、うなずける話です。

 アメリカは、建前は共和国ですが、それは未熟な共和国だというのはフランスの社会学者アラン・ジョックス氏です。(それを「カオスの帝国」と呼ぶ)奴隷制に根ざす黒人差別は60年代にまで維持されたし、憲法では民兵の武装を認めてもいます。近代国家という観点からすれば、じつに歪んだ共和国だというほかないでしょう。そして、帝国の道を大股で闊歩するアメリカに引きずられるように、せわしなく小走りで横っちょに必死につきしたがう日本(の総理大臣)。(十年たっても二十年たっても、その姿勢は変わらない、変われない。変わろうとするのをアメリカは許さない。小間使いであり、打ち出の小槌の役割だけを演じるのを求められる)

 テッサさんは、アメリカにも認められる「多様な声」をすくい上げ、「草の根レベルでの社会運動を再構築し、アメリカを開かせて外部世界と再び対話させること。これは外部世界に住む我々が、常に注目し奨励し、そして熱烈に支持すべきこと」ではないかと述べられます。

 そして、アラン氏はNGOに強い期待を寄せて、つぎのように語ります。「非政府組織(NGO)は中世の騎士団にたとえていい。病者を助け、貧者に食料を配る英雄的な集団だった。新しい世界秩序の将来を見通すのが絶望的な中でNGOは、希望を見いだせる数少ない存在だ。主権国家との連携がうまく運べば、時代の大きな転換期に正しい道を切り開く可能性を秘めている」(朝日新聞・04/05/30)

「市民の時代」を想像しよう。「かたまらない」という一点で、つながりあえる人と人の関係です。「かたまり」で分断されるのではなく。「多様な声」はだれが出すのか。

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 ふた昔ほども前の「記録」を持ち出して何をする気ですか、と訝しく思われるかもしれない。「冷戦」は終結したのかどうか、形を変えて、相手を変えて、すでにあらたな「Cold War」は進行しているともいえます。かわったのは選手だけ。(いやそうではないかもしれません。対峙する旧陣営はそのままですから)

 「世界はアメリカを民主化できるか?」といったとき、その「世界」に「日本」は参加できているのか。おそらくこの島社会は「入っていない」でしょう。「世界」の除け者になっているのです。ではアメリカは「日本」を自国に入れるでしょうか。残念ですが、これも「No」です。だから、ぼくたちが居住している社会は、じつに不可思議なところなんです。その島国は前世紀の四十年代初頭には「世界」を相手に戦争を仕掛けました。その「戦後処理」というか「戦後補償」もあいまいなままで、いまもなお「戦前並み」の「劣国(あるいは大国)意識」だけは達者にあるのです。(もちろん「国民のすべてが」というのではありません)国連に再参加したというのですが、はたしてその実態はどうか。

 「ぼくたちは日本を’民主化’できるか」が今、真剣に問われているのです。「アメリカ」の尻馬に再び乗らないために。そのためには、まず「隗より始めよ」ですよ。「自らを民主化せよ」と。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)