
ガレリア・西友 1992 2時間12分 製作:ガレリア・西友 監督:東陽一 原作:住井すゑ 製作総指揮:川口正志/高丘季昭 製作:山上徹二郎/山口一信 脚本:東陽一/金秀吉 主演は大谷直子、中村玉緒、高橋悦史、杉本哲太など (なお、今井正監督で、1969年にも映画化されています)

人は、他者の苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さ、怒り、嘆き、訴えに時として心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活を過ごせるのである。それは差別・被差別の資格・立場を超えた人間というものの現実、限界である。被差別の立場にある者だけが、この現実、限界からまぬがれているはずがない。そしてこの人間の現実、人間の限界を見据えつつ、いかにしておのが生を他者との共感と連帯の世界に生きる〝生〟たらしめるかという課題もまた、差別・被差別の資格・立場にかかわりなく提起されているのである。この課題を引き受けるかどうかは、それぞれの生き方にかかわるのであって、被差別の側にあるということだけでは、この課題を引き受けていることにはならない。ここに、差別・被差別の両側から超えた共同の営みが成立する根拠がある。

おたがいに差異を認めあいつつ、一人の「丸ごと命いっぱいの人間」として向きあい、部落差別に立ち向かう共同の営みを続けるとき。気がつけば両側を隔てていた壁が消え、溝が埋まり、差別・被差別の二項対立でない、新たな人と人との関係が生まれているに違いない。部落問題とは、結局のところ人と人との関係に帰着する以上、個人と個人との関係を人間らしいものに変えることから始めるしかないのではないか。(藤田敬一「人間と差別について考える」藤田編『被差別の陰の貌』阿吽社刊、1994年)
上に掲げた著書に登場されている金時鐘(キム・シジョン)さんの発言を紹介しておきます。これまでにも、何度か引用してきました。金さんは詩人・評論家であり、作品には『「在日」のはざまで』、詩集『原野の詩』など多数があります。

「差別という問題は、その差別を強いる、屈辱を強いるしくみと構造を維持しようとし、作り上げてきた、思想との対峙だと思うのですね。その思想が糺(ただ)されることによって日本の原罪が洗われてくる。日本の民主主義というのは原罪を祓(はら)うという営為を国家的には毫末もやらなかった。スイッと素通りしていることの中で差別を生ましめたものもやり過ごされている。そのやり過ごされているものに光を当てるということは、あるべき人間の尊厳が、あるべきものとして保持されることの確認行為だと思うのね」(「座談会」『被差別の陰の貌』より。同上所収)
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以下は親子の対話です。
増田 天皇制と被差別部落は政治、支配という人為の最たるものよね。

住井 そうそう、だから人為的になにかをつくったら、それの反動、シワ寄せはどこかにかならず生まれるわけね。天皇制をつくったら、被差別部落ができるのは当然だ。だから天皇制も人為だし、被差別部落ももちろん人為的につくられたものだから、人為だから、これは偽り。偽りからは解放されなければならない。
だから何度も言うけど、「偽り」という字は人為と書いて「偽り」。そのウソごと、いつわりごとにいつまでひっかかっているのかね。法則からいえば、人間にひとつも変わりないんですから。
重さとか面積とか長さとか量とか、そういうものは全部測り分けて、数字でだせるのに、貴賤だけは数字では出せないからウソだということになる。

増田 これはつくりごとだからね、架空のもの。
住井 だから宇宙の法則にかなったものはみな宇宙の法則どおりに数字で出せる。
増田 実際に賤の方に分けられた人たちというのは、もう徹底的に人間性を否定され、生きて暮らすことを否定されたのね。
住井 賤なんてとんでもない迷信。ウソ、科学でも何でもないのよ。
増田 その迷信によって痛められて、一方のほうは、迷信によってのうのうと生活できると。しかし、そういう構造がいったんでき上がってしまうと、人間社会というのは、それを困ったもんだ、おかしいおかしいと思いつつ、いっこうにこわそうとしない。差別する側は痛くもかゆくもないからね。

住井 しかし、こんなことがいつまで続くかね。そんなことが、偽りのからくりというか、ウソごとがね。
増田 それはね、もうすでに崩壊しつつある。戦後の憲法でもって、半分は崩壊したと思う。(住井すゑ『わが生涯 生きて 愛して 闘って』聞き手 増田れい子。岩波書店刊)
◇住井すゑ:1902(明治35)年、奈良県磯城郡田原本町生まれ。1997(平成9年)6月16日牛久沼畔にて永眠。95歳でした。著書には『橋のない川』『住井すゑ対話集』『向い風』『野づらは星あかり』『夜あけ朝あけ』『牛久沼のほとり』『九十歳の人間宣言』『人間みな平等』などがある。


代表作の『橋のない川』が刊行(1959年)以来何十年にもわたって読みつがれてきた理由を問われて。「人間の愚かさを遠慮なしに書いているからです。ばかな人間の話はおもしろいものです。人間社会の中で、日本の部落差別ほど、ばかげたことはない 深刻でこっけいで、考えようによっては、これは笑い話ですよね。」 「私の肩書は作家ではなくて、人間です」「人類の母親は人以上のものも、人以下のものも産まない」
◇増田れい子:1929年東京生まれ。住井さんの二女。毎日新聞社員を経て、現在はフリージャーナリスト。2012年12月12日に死去。著書に『沼の上の家』『インク壺』『人を愛するということ』等。
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人間集団(社会)にはきっと「偏見と差別」があります。しばしば「いわれなき差別」として非難や批判が加えられてきましたが、なぜそういう事態がいつでもどこにでも生じる(引き起こされる)のでしょうか。住井すゑさんが言われています。「天皇制も人為だし、被差別部落ももちろん人為的につくられたもの」「『偽り』という字は人為と書いて『偽り』」、と。その「偽り」を集団(社会)全体が受け入れてしまうという、およそありえない状況が「偏見や差別」を生み、永続させてきたし、現に、そのために傷つけられれ苦しんでいる人が後を絶たないのです。「いわれなき=根拠のない」ものであれば、それを無条件に受け入れる姿勢や態度は断固として拒絶されれなければならない。
それはけっして単純でもなければ容易でもない。これを越えることは苦難でもあるのです。「橋のない川」を越える(渡る)という苦行、といってもいいかもしれません。いま、世界(自分)は「乗り越える」ために苦悩にあえいでいる。ぼくたちが気づかないままで「偏見と差別」は制度化されてしまっているかもしれないのです。

ぼくは大学に入ったばかりの頃、住井さんの本を手当たり次第に読んでいきました。浩瀚な『橋のない川』(新潮文庫第一部~第七部)を一夏をかけて読んだことを記憶しています。不条理でもある「偏見と差別」、気づかなければ、自らもその虜になってしまう。「差別という問題は、その差別を強いる、屈辱を強いるしくみと構造を維持しようとし、作り上げてきた、思想との対峙だと思うのですね」(金時鐘氏)というように、「偏見と差別」が「思想」の貌を以て堂々と闊歩するという事態にまで突き進んでしまうのも事実です。いつでもこの問題を考えつづける、具体事例に即して考察しつづける意志(意欲)を失いたくないものです。「君(ぼく・わたし)はどんな社会にすみたいのか」と。
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