惚れて通えば千里も一里

 大学に入ってから、十年ほどは文京区本郷に住んでいました。目の前に「赤門」がありましたが、生憎、ぼくは「(帝)国立大学」は趣味に合わなかったし、たぶん「学力」も合わなかったと思う。その構内を無断で通って、上野池之端に出、なんども「鈴本」に通いました。ぼくが上京した段階では志ん生(五代目)は他界していました。(その代わりというと失礼ですが、圓生さん(六代目)を堪能しました。後年、ぼくが住むようになった習志野市大久保の病院で彼はなくなりました。ぼくの居住地の隣町。口演に来ていての急逝でした。1900-1979)

 したがって、志ん生はラジオ、テープその他で聴いたのですが、なんともいえない味わいを経験したことは、人生の幸福の一部となって今にいたりました。今でも彼の愛用の「都都逸」を記憶している。

  惚れて通えば千里も一里 長い田んぼも一跨ぎ

  人の女房と枯れ木の枝は 登りつめたら命がけ   

 (やがて、師匠の「五十回忌」がやってきます)

 どこがいいとか、何が面白いというのはあまり意味のない話で、彼の立ち居振る舞いから口演の一瞬一瞬までが、ぼくには忘れられない「芸」であったと、いまも言うことができます。ほとんど記録されたものはすべて聴いたと思う。まず、学校では絶対に教えてくれない「廓話」、ついで「人情噺」、さらに「滑稽話」と、志ん生のものはどれもこれも、比較を絶してぼくには聴きごたえがありました。「学校で教えてくんない」という口調、吉原、千住、品川などの往時の賑わい、「日本銀行発行の絵葉書」がなければどうしようもない岡場所など、地口を含めて、ぼくは入る学校を間違えたとマジで考えたことが何度もあったくらいです。(話芸というだけでは足りないものがあった「落語」の世界も、すでに崩落し崩壊して久しいのではないでしょうか。「落語」(寄席)を滅ぼしたのは「テレビ」だという指摘は当たっていると思う)you tube で「落語」(寄席)は復活するか。

 夫婦は一世 親子は二世 主従は三世 間男は四世(よせ)、だってさ。 

●古今亭志ん生=(1890―1973)本名美濃部(みのべ)孝蔵。2代目三遊亭小円朝に入門して朝太。円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14)志ん生を襲名。『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風により、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄であった。残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しい。長男が10代目金原亭馬生(1928―82)、次男が古今亭志ん朝(しんちょう)(1938―2001)。[関山和夫]『『五代目古今亭志ん生全集』全8巻(1977~84・弘文出版)▽『これが志ん生だ!』全11巻(1994~95・三一書房)』(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)