君はどんな社会に生きたい?

 時代は旧習を薙ぎ倒すように変転しています。ぼくたちの生活意識は、一面では新しい状況に応接することにいとまなしで、この社会の歴史(人為)の所産でもある「差別」がまったく様相を変えてきていることも事実です。これまでの差別がなくなったのか。あるいは新たな差別の出現なのでしょうか。なによりも、差別する側に立っているかも知れない「みずから」に問いつづけることが不可欠です。(個人においても集団においても、古い意識は時代とともに一新されると錯覚しますが、じつは古いものはそのまま深く意識の底に沈んでいて、いったん事あらば、それが首をもたげてくるのです。これはまるで地層のようで、深層・古層・新層という具合に、蓄積されていくのですね。これもまた、歴史の一面です)

 「偏見と差別」。それは意識の有無にかかわらず、ぼくたちに襲いかかるものです。あるいはその網の目に取りこまれてしまう危険性があります。そのような状況に対して、ぼくたちはどうすればいいのか。

 ここで、一冊の本を紹介します。角岡伸彦さんは元神戸新聞記者。現在はフリーライターとして活動されています。

 オサム君との対話

オサム 角岡さんは、部落差別を受けたことはあるの?

角岡  直接の差別はないけど、目の前で部落の悪口を言われたことはある。でも、ボクは部落出身であることを隠 していないんだよ。‼

オサム どうして?

角岡  隠すとあばいてやろうというヤツも出てくるだろう?それなら自分から言っちゃおうと思って。

オサム そっと隠しておけば部落差別はなくなるという人もいるけど…。

角岡  部落も差別も「ある」ものを「ない」というのは、おかしいよね。歴史の一部を消すことはできないよ。それに部落出身であることは恥ずかしいことじゃない。ボクにとっては、わが家の歴史だもんね。

オサム そうだよね。どうして差別はなくならないんだろう?

角岡  実はボク、子どものころ、在日韓国・朝鮮人や障害者を差別していたんだよ。

オサム エエーッ‼

角岡  ものすごく反省しているよ。差別した自分が恥ずかしくなって、「差別について考えな、あかん」と思うようになったんだ。世の中には、いろいろな差別があるよね。部落差別は、そのひとつ。別々の問題に見えるかもしれないけれど、根っこは全部つながっていると思うんだ。

オサム そうなの?

角岡  「自分は多数派」と思いたい人が、違いを見つけだして差別する…。

オサム なんか学校のいじめに似ているね。

角岡  そうだね。部落差別を考えることは大事だけれど、土台から考えないとね。人に危害を加えないかぎり、自分をありのままに出しても、だれからもいやな思いをさせられない社会が、ボクの理想なんだ。そのための最低限のルールをつくることが大事だと思う。

オサム 部落差別は自分とは関係ないと思っていたけど、「どんな社会で生きたいか」という大事な問題と関係があったんだね。ボクにできることはあるかなあ?

角岡  君はどんな社会に生きたい?その答えを考え続けてほしいな。(角岡伸彦著『とことん部落問題』所収。講談社刊。2009年)

 「どんな社会に生きたいか」という問題に答えることで、部落差別がけっして他人事ではない、まさに自分の問題となるのだという角岡さんの指摘を前にして、そこから逃げないで、ぼくたちは真摯に向きあう姿勢が求められるのです。(さまざまな差別問題がありますが)「別々の問題に見えるかもしれないけれど、根っこは全部つながっていると思うんだ」、という視座を失わないようにしたいですね。

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《 部落で生まれたことを私は自然に受け入れた。母親は家に来た銀行員にさえ躊躇なく「ここは同和地区ですねん」と言っていた。(阪神淡路大震災で)被災した未組織部落、未指定地区とは違い、わが家では部落問題はたタブーではなかった。

 中学生になり、地域や学校で部落の歴史を学び、自分の立場がわかりかけたころ、私は母親に質問したことがあった。

「お母ちゃんは差別されたことあるん?」

「私ら差別受けたことないなあ。なあ、お父ちゃん」

「なかったなあ」

 そう言ってはばからない両親は、お互い部落出身者同士である。その上、生まれも育ちもまったく同じ地域ときている。したがって私は地縁、血縁とも部落民でない要素がまったくない。いわば混じりっけなしの純粋部落民である。

 差別を受けたことがないという親のもとで育った私も、部落差別を直接的に経験したことはない。実に幸せな部落民である。それにしてもなぜ、今に至るまで部落や部落差別が残っているのか。喉に突き刺さった小骨のように、長い間、私はそのことが気になっていた。好奇心と行動力が今の十倍はあった大学時代には、部落問題を考えるクラブにも所属した。好むと好まざるとにかかわらず、青臭い言い方をすれば青春時代は部落問題とともにあった。すべての部落出身者が私と同じように部落問題を気にするわけではない。だが、就職や恋愛、結婚などで部落問題にぶち当たる人もいる。それぞれの〝被差別部落の青春〟がある》(角岡伸彦『被差別部落の青春』講談社文庫版)

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 「なぜ部落問題を学ぶ必要があるのか。語れば長い話を、小学生の読者を対象にした『オサム君との対話』で簡潔に述べた」と角岡さんはいわれます。

 当たり障りのない調子で、「どんな社会に生きたいか」に答えるのではない。問われた者として、どこまでも考えなければ、その答らしいものは見えてこないからです。「だれからもいやな思いをさせられない社会」こそが「理想」なんだというのは、どんな意味でしょうか。そんなのは理想なんだから実現しないと見るか、どこまでも求め続けることを促すところに理想の力があると見るか。理想というものは、現実に対して、人の意識を鋭敏にさせる不可思議な魔力をもつし、そうでなければ、それは空想に過ぎないのだ。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。