
国連人権勧告を日本政府が受け入れるよう訴え行進する田中宏さん(中央)ら=2019年12月7日、東京・渋谷、筆者(市川速水)撮影 差別なき社会へ 「民族主義者」田中宏の闘い(2019年12月29日) ぼくは若いころに田中さんに出会い、「偏見と差別」問題の核心を教えられた気がしました。八十を過ぎて、なお健在な姿に大いに励まされています。(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019122800007.html)
在日学生差別、入部させず 日大弁論部が活動停止
日本大学法学部(東京都千代田区)の公認サークル「弁論部」で今春、入部希望者の女子学生(21)が在日韓国人であることを上級生らが問題にし、結果として入部を断っていたことが分かった。大学本部は調査の結果、国籍・民族差別があったと認定。同部は先月末から活動を停止している。
この女子学生は韓国籍の在日3世で、今春入学。民族差別で入部を断られたとして、先月上旬、同大本部に母親と申し立てをしていた。

大学が委嘱した弁護士らによる調査などによると、同部幹部の3、4年生3人が女子学生の受け入れを検討する際、「外国人だから付き合い方が分からない。不安だ」「過激な宗教にかかわっていたら怖い」などと議論していた。
報告を受けた人権侵害防止委員会(委員長=島方洸一副総長)は「重大な国籍・民族差別事件」と認め、先月末、法学部に再発防止などを要請。弁論部アドバイザー(顧問)の2教授と部員3人は女子学生に対し「心痛をおかけしました」と謝罪した。また、同部は当面の活動を自粛する、との届けを出した。
しかし一方で、3人は関係者の話し合いの場でも「在日であることを理由に断ったわけではない。差別のつもりはなかった」と主張しており、女子学生側は謝罪を受け入れていない。
女子学生は4月下旬、サークル勧誘期間中に同部の説明会に出席したが、翌日、4年生部員に呼ばれ入部を断られた。希望していた司法試験対策の研究室と「両立は難しい」。さらに「髪(の色)が明るい」という理由だった。ところが、先月上旬になって同部の友人から「先輩たちは『在日韓国人だと文化的に合わない』と言っていた」と聞き、申し立てをした。(石川智也)(朝日新聞・08/07/19 )

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「在日だから不安」と日大弁論部が入部拒否 大学側が学生に謝罪
日本大学の在日韓国人3世の女子学生が、「在日だから不安だ」などの理由から法学部公認の弁論部への入部を拒否されたとして、大学側が女子学生側に謝罪していたことが16日、分かった。弁論部は6月下旬に活動を自粛した。
学部によると、女子学生は今年4月、日大法学部に入学し、弁論部の新入生向けの説明会に参加。女子学生が「自分は在日韓国人だ」と説明すると、説明会後、同サークルの幹部3人が集まり、「在日だから不安だ」「外国人は文化の違いがあり、なじめるかどうか分からない」などと話し合った上で、入部を断ったという。
女子学生に対しては「司法試験の研究室に入っているため、学業が忙しくなるだろう。部活動がおろそかになる可能性がある」などと説明。その後、6月初旬に別の部員を介して、「在日」が理由の一つだった可能性があることが分かり、女子学生の母親が、同大の人権救済委員会に訴えた。

3人は「在日だから入会を断ったわけではない」などと弁明したが、大学側は「女子学生を傷つけた」として謝罪。3人も「迷惑をかけた」と女子学生を含む関係者に謝罪した。
日大の坂田桂三法学部長の話「(弁論部の幹部には)女子学生に対する差別意識はなかったと思うが、傷つけてしまったので学部長名で謝罪した」(産経新聞・08/07/16)
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(産経記事によると、大学当局者の)「女子学生に対する差別意識はなかったと思う」という説明(弁明)はどういうことでしょうか。「差別意識がなかった」けれども「傷つけたので」謝罪したというのです。差別するつもりはなかったが、傷つけてしまったとは、ようするに「差別行為」そのものだったということにしかならないでしょう。

「大学本部は調査の結果、国籍・民族差別があったと認定」とは別の記事(朝日)です。一体、大学はこの事件に対していかなる立場にみずからを位置づけようとするのか。部員には差別意識があったから、入部を断ったのであり、そのために当該学生は傷つけられたのだと、なぜはっきりと認めないのか。このような問題が生じる際、もっとも許しがたいのは「当局」の姿勢です。じつは「差別意識」に満たされているのに、「差別は許されない」という態度を表明しますが、また問題が生じるのです。同じことの繰り返し。「従軍慰安婦」問題や「徴用工」問題に関して、目下日韓で問題化されていますが、どこまで行くのでしょうか。終わりがないような気がします。個人や企業や国家は、同じ言い訳。弁解で問題を糊塗しますね。
偏見と差別について、もっとも質の悪い(自覚がないだけに)のは「自分では偏見などもっていない」と盲信(妄言)しているのに、結果として、あからさまに「差別的な行動」を取ってしまうことです。「偏見」と「差別」は、一面では「姿勢(態度)」と「行動(言動)」と考えてもいいようにぼくには思われます。仮にそれを認めるとすれば、おそらく以下の四種類の(行動)類型が認められそうです。(あくまでも仮説にすぎません」

①偏見を持っているから、当然のように差別的言動をとる
②偏見を持っているが、必ずしも差別的言動をとるとはかぎらない
③偏見を持っていない(と信じている)のに、ときとして差別的言動をとる
④偏見も差別も持っていないから、問題行動をとることはない
もっとも願わしいのは④でしょう。でもそのような立場の人はきわめてまれだと、ぼくなどには思われます。確信犯とでも言っていいのは①です。「差別結構、文句あるか」という明白な差別主義者です。ぼくは今でもそうですが、かのうなかぎり、②にまで自分を育てたいと念願してきました。今でもそうです。

上に紹介した今回の事例は、何番目だったのでしょうか。それぞれの当事者は、ていねいに自己の立場を明らかにしてみる必要があります。「自分は差別していない、みんなと同じようにふるまっただけ」という弁解が特によく聞かれます。自分は悪くない、世間が言うとおりにしたのだから、というわけです。「世間」という全体」が「差別的偏見」を持っていることは、残念ですが、往々にしてあることです。(これがもっとも厄介な段階ではないか)
歴史から学ぶというのは、どのようなことを指しているのでしょうか。「過ちの感覚」(自分がまちがったという記憶を腹中に収めておく)を研ぎ澄ます、それが同じ過ちを繰り返さない(予防する)方法とならないでしょうか。自分にはあずかり知らない「過去の間違い」を、自分自身が侵さないために歴史を学ぶのではありませんか。
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