人間が差別を考える

 私が超える

 私はかつて「『差別』の中の起点と視点」というエッセー(平凡社『「在日」のはざまで』所収)に「朝鮮人の主たる命題は、決して差別の論難者的位地位を保持することではない」と書いたことがあります。自らの拠ってきたる歴史の正統性だけを振りかざすのではなく、少なくとも心ある日本人との対話を閉ざすようなことがあってはならない。それが私の素朴な提起でした。こういう私の論点、視座はその後ますます強硬にこそなれ、いまもって少しも揺らいでいません。

 日本人からの差別によって私たちは不幸だという言い分は、私たちの抱える内実との問題とはへだたっている。日本人から被る心ない仕打ちはもちろん向き合うべき問題であるが、よしんば日本人の総懺悔を取りつけたところで、朝鮮人自身の問題は問題として残るのです。私たちは、同族同士でいがみ合って、籠絡し合い、向き合えば歯を剥くようなことを延々やってきた。この実態、この状態こそ同族自らが作りだしている自らの不幸である。日本人の仕打ちなどこれを超える不幸では絶対ないですよ。それは自分で自分を省みるという創造的意識、しなやかな自己省察の核とでもいうべきものが、少なくともいままであったとは思えない。だれかが意見を言うと、「おまえら部外者が何をぬかしやがる」と言う。ことあるごとに朝鮮人の正統性を振りかざす。何かいわれると「日本が悪いんだ、おまえらのせいだ」と。「日帝三十六年」という言葉をぶつけると、相手はもう口をつぐまざるを得ないんです》

 ほっとけ、うるさい

 湊川高校のことでいうと、社会科の教師で認容されて、三年目に朝鮮語の科目を公立高校では全国で初めて正規の授業にしたんですよ。せっかく朝鮮人教員が来たんだから朝鮮語を始めようということになったんですけど、授業にならない学校でしたからね。それはすさまじい学校で。「なんで朝鮮語やらんならんねん」みたいなことで、毎日、体を張ったような授業だった。/ それで何年かやっているうちに、「あの朝鮮人教員、根性あるぜ」みたいなことになってきたんですが、もう名前を出してもいいけど、青木という一見おとなしい生徒、学校と隣り合っている地区の部落の青年でしたが、この生徒は四年間通して腰掛けに横向いて坐って朝鮮語の授業にそっぽを向いている。いくら声をかけても、振り向くこともない。まったくもって無気力の塊みたいな生徒で、ほんまかなわん子やった。何か言うと決まって「ほっとけ、うるさい」とつっぱねる。/ 四年生の卒業年度の三学期はロングホームルームがずうっと続くのよ。そのなかで「湊川に来てどうだったか」という話し合いを延々やるものだから、この生徒もおもいのほか心をうごかしたようにみえた。

 あまりほめられたことじゃないけど、私は期末が来ると、試験範囲をプリントしてあげるんですよ。期末考査の前の最後の授業を終えて廊下へ出ると、青木君が「先生、プリントくれや」とついてくる。前の授業でプリントを配っておったんですが、あの子は何かその日はいなかったんだな。/ そ知らぬ顔をして職員室へ行って引き戸をガラーッと開けた。またも「プリントくれや」と言う。私はぶっきらぼうに「ほっとけ!」と言い放ってそのまま職員室に入ってしまった。青木君はおこったねえ。もう引き戸を蹴破らんばかりに「この先公、殺したら!」「生徒がプリントくれって言うのに、『ほっとけ』とは何じゃーっ」といきり立った。私も向き直って言い放った。「待て、おまえは四年間、『ほっとけ』をわしに何百回言ってきたんじゃ」(笑)。「おれがたったいっぺん言ったら、そんなに気が立つのか」。青木君、へなへなとその場にへたり込んでわんわん泣きだした。「あのな、なんでも『ほっとけ、うるさい』と言っていたのではな、もう人と人の関係はないも同じだ。

 『ほっとけ、うるさい』も三回目、四回目には別の言葉で言うようになれや」「朝鮮語の授業はただ朝鮮語を押しつけているのではない。ひと言の朝鮮語にはどれほどの日本語を私は重ねて伝えてきたか、思いだして欲しいのだ。朝鮮語は役に立たないというけど、日本人がもっとも遠ざけているものに〝朝鮮〟があることを思えば、部落の問題だって同じような憂き目にあっていることが感じられてくるはずだ」と延々二時間余りも話し込んだ。そのあと青木君は、まるで煮抜きの殻がむけるように、ころっと変わった。このゴンタたちとの、今ではもうしっかりした社会人だけど、行き来はいまもつづいています。「超える」というのはそういうことだと思う。つまり青木君が「ほっとけ」という言葉を言わなくなることが部落を超えることだ。逆にいえば、私は私で彼と向き合うことで超える。超えるというのは、そういう思いをもった人の、不断につづく一種の持続力だ》

 人をいじめた心の傷

藤田 いま小学校で、「僕はひとをいじめたことがある」という話をすることがあるんです。「実は小学生のころ、在日韓国人の金成大(ソンデー)を『朝鮮人!』といじめたと言うと、子どもたち、しーんとなる。それでいまから二十年近く前に小学校の同窓会に出たら、彼が「きょうは藤田、言いたいことがある」(笑)。「うわーっ、ごめん」って謝った。謝ったからといって受け入れてくれたかどうかわからん。

 ところが、ある年の同窓会が終わって新幹線で帰ると言ったら、ソンデーがタクシーに乗って「藤田、送ったる」って言うんです。それで京都駅に行くまでの間、じーっと私の右手を握るんです。今年、亡くなったんですけど。私、子どもたちに言うんです。「人をいじめると心に傷が残る、いじめられた人に傷は残るけど、いじめた人間の心にも傷が残るんよ」と。

 子どもたちは絶対忘れない。

藤田 もう一人、いじめた人がいる。中学一年のときだったかな、教室で一切しゃべらない女の子がいたんです。友だちが「おい、藤田、あいつ泣きよるやろか」言うから、「そら泣きよるやろ」言うたら、「泣かしてみい」。それで私は高畑さんの腕をぎゅーっとひねったんです。彼女「うわっー」泣かはった。「泣きよった!」言うて笑うた。それがずうっと忘れられない。

 彼女は同窓会にいつも欠席なんです。ところがある年、「出席」って返事が来た。「これで謝れる」と思ったら、その朝、娘さんから「母は体調を崩しましたので、きょうは欠席します」と言ってきた。だけど、いったん「出席」と返事を下さったんだから、来年は会えると思ったら、翌年、娘さんから「母は亡くなりました」。

 「結局、僕、高畑さんには謝ることができないままにいるんや。キムソンデーには謝ることができた。けど、高畑さんには謝れんかった」と言うと、子どもたちがしっかり聞いてくれる。そのとき思う。ああ、子どもたちが心を開いて、人をいじめるとはどういうことなのか感じとってくれてるなあと。小学校二年生の女の子が「藤田さんは人をいじめると心に傷が残ると言いましたが、本当にそうだと思います」と言ってくれて…。

 藤田先生な、解放運動、人権運動に関わったおかげをこうむってますがな。

藤田 ほんまにそうです。

 そうでなかったら、ピッカピカのかっこういい大学教授で終わったかもしれんな(笑)》

(『論座』〇四年一月号、朝日新聞社)(金時鐘『わが生と詩』所収、岩波書店。〇四年)

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(金時鐘・キムシジョン=一九二九年朝鮮・元山市うまれ。詩人。一九四八年の済州島四・三事件を経て来日。一九五三年に詩誌『ヂンダレ』を創刊。日本語による詩作を中心に、批評などの執筆と講演活動を続ける。著書・共著書に『さらされるものとさらすもの』『「在日」のはざまで』『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』。詩集に『地平線』『新潟』『猪飼野詩集』『光州事件』『原野の詩』『化石の夏』など。

 藤田敬一・フジタケイイチ=一九三九年京都市生まれ。元岐阜大学教授。月刊誌『こぺる』編集人。学生時代、被差別部落に出掛けて部落問題を学ぶ。中国近代史の教育と研究に携わりつつ、部落問題解決のための取り組みに関わってきた。著書・共著書に『同和はこわい考』『被差別の陰の貌』『「部落民」とは何か』『部落史を読む』など)(前掲『論座』の「紹介」から)

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 「差別」の問題を何十年にわたって考えつづけてきました。ぼくのなかに「差別感情」や「偏見の根っこ」が巣くっていることを隠さないで生きてきたし、だからこそ、「偏見と差別」に齷齪しながら歩いてきたともいえるでしょう。この問題は、考えるだけでは足りない。「私は差別しない」「ぼくには偏見がない」というのは構わないが、残念ながら、ぼくたちの深部に、あるいは遺伝子として「差別する細胞」が存在しているに違いないのです。「いじめ」や「排除」がどんなものであるか、その歴史や意味を知らないいたいけな子どもも立派な差別主義者になることがあります。

 金時鐘さんについてはいうまでもなく、藤田さんからもぼくは大事なことをたくさん学んできました。

 「差別する側に立っている者に、被差別の体験や思いがわかるはずがない」としたら、人間の「個」的な体験、その体験にまつわる思いというのは、伝達不可能になりはしませんか。そうだとすると、いったい人間の「共感」というものはどういうことになるの でしょうか。(中略)

 大切なことは、おたがいに、差異のあることをふまえつつ、重なりあう部分をもとめ、 ギャップ、ズレを少しでも小さくしていく努力だと思うのです」(藤田敬一)

 この問題にかぎらず、人権問題、差別問題に直面して、「差別された者の痛みがおまえにわかるか」「おまえはどうなんだ」という問いかけに正対しながら(ぼくは何度この「ことば」を投げつけられてきたか)、共感するという姿勢を崩さずに、くりかえし対話の試みがなされる必要があることを痛感します。そう、何度でも。これはぼくのささやかな、失敗交じりの経験からの「思い」であり、「願い」でもあるのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。