a man who is nothing but a man

 朝日大野球部が活動停止 ホームレス襲撃で部員逮捕(時事ドットコム・2020年04月25日10時56分)
 
 朝日大(岐阜県瑞穂市)は、岐阜市内の路上で3月にホームレスの男性が襲撃され死亡した事件で、硬式野球部員2人が岐阜県警に逮捕されたことを認め、同部を無期限の活動停止とした。同大学が25日までに発表した。藤田明宏監督は大友克之学長に辞任届を提出し、受理された。/ 朝日大によると、県警からの照会はないが、藤田監督や保護者などから情報を集めて部員2人の逮捕を確認。24日付で調査委員会を設置し、懲戒処分を検討する。「亡くなられた男性のご冥福をお祈り申し上げます」と書面で談話を出した。

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 1776年、アメリカ独立宣言(Declaration of Independence)(ジェファーソンの起草)。

《われわれは、つぎの事柄を自明の真理と考える。すべての人々は、平等に創られたものである。すべての人々には、彼らの創造主によって、一定の譲渡すべからざる権利があたえられている。これらの中には、生命、自由および幸福追求の権利がある》

 その後の約百年間、アメリカでは奴隷制がつづきました。それが廃止されたのは南北戦争終了時のこと(1866年、リンカーン大統領時代)。しかし、なおも黒人差別は残り、公民権(civil rights)法が成立したのは、さらに百年後の1964年でした(M.L.キング牧師)。 

 また、男中心社会を根拠とした〈人権〉論に対してフェミニズム(feminism)運動がもっともはげしくおこったのもアメリカでした。このフェミニズム(女権拡張運動)に対して異議を唱え、ウーマニズム(womanism)という言葉を使ったのは黒人作家のAlice Walker(1944-)。今もなお、人種差別が全米の抗議運動の根底をなしています。アメリカはもとより、世界の各地において。差別の重層構造、あるいは差別の万世一系という、抜きがたい偏見と、そこから生み出される排除という暴力が渦まいているのです。アメリカの大統領候補者だった人が「黒人差別はアメリカの文化」といったことがあるほどです。「現大統領」も同じような racist remarks を多発しています。この島にも「ヘイトスピーチ」は「花盛り」です。

 1789年8月、フランス人権宣言。(Déclaration des droits de l‘homme et du citoyen) (第1条:人は出生および生存において自由および平等の権利を有する。第4条:自由とは他の者を害しないすべてのことをなしうることをいう。各人の自然的権利の行使は…)

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 “It seems that a man who is nothing but a man has lost the very qualities which make it possible for others to treat him as a fellow man.”A human being has rights only if he is other than a human being. And if he is to be other than a human being, he must in addition become an other human being. Then “the others”can treat him as their fellow human being. What makes human beings alike is the fact that every human being carries within him the figure of the other. The likeness that they have in common follows from the difference of each from each. (J.-F. Lyotard:The other’s rights)

 フランスの思想家、リオタール(1924-1998)の「人権」に関する講演の最初の部分です。ハナ・アーレントの『全体主義の起源』から引用して、「人間の権利」というものを述べようとしています。(この部分はすでに二度ばかり、別のところで掲載しています)初めの部分をを読んでください。「他者がその人を自分の仲間と認めるようになる、そのような特質を持っていない人間はただの人間でしかない」「人間は、人間以上(other than a human being)になるときだけ、人間なんです」(以下は、別稿で)アーレントがいっていた「人間である」だけでは、仲間として認められないのです。

 「ただの猫」「ただの犬」は「ぼくの猫」「わたしの犬」なんかではない。名前を持ち、素性も知れている「猫以上」「犬以上」の存在なんだというのでしょう。だれからも可愛がられる犬や猫は、種としての犬・猫ではだめなのだということではないか。それとまったくおなじことが「ただの人間」にも当てはめられるのです。「君は何人だ」「あなたは何人種なんですか」と。「ホームレス(homeless」という呼び方は、「人間以上の人間」ではない、「ただの人間」であるという証明ではありませんか。

 われわれは「人権」を天与(天賦)のものとみなすように教えられてきました。どんな人にも生まれながらに「与えられている」し、「だれも奪うことができない」権利、という具合に。「人間が人間として当然に持っている権利。基本的人権。」(大辞林)「人が生まれながらにしてもち,国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利。基本権または単に人権とも」(マイペディア)「自然権」「基本権」さらには、「当然の権利」と口をそろえて、無前提の(無条件の)所与された権利としています。

 いずれの辞書も当然のことですが、同じような説明をしています。なぜでしょうか。だが、われわれの現実生活においてはけっしてそのように「人権」は考えられていない。

 次の言葉を聞かれたことがありますか。Amnesty。ギリシャ語のAmnestos(アムネストス)から由来した言葉。もともとの意味は?(*アムネスティ(amnesty)はギリシア語で「忘れ去る」ことを意味するamnēstiaに由来する欧州諸言語で用いられる語で、 罪人とされた人を許して釈放する、すなわち大赦を意味する)(Wikipedia)

 「話す能力」があるということと「話す権利」をもつということは同じではない。なぜならその権利が奪われることがいつでも起こりえるからです。権利というものは与えられるものじゃなく、勝ち取るもの。「人権は自然権」だといったところで、だれにでも保証されていません。なぜなら、それは自然権なんかではないからです。

 上の引用でリオタールは「the figure of the other」といっています。ぼくたちはいつでも「他者の姿」を持ちながら生きているのです。自らのうちなる「他者の姿」こそ、「人権」を認められうる存在なのです。その姿を消す(消える)というのは、そのひとの「人権」そのものが喪失されることを意味する。

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