競い合って頑張る精神でないと…

 さて、ゆとり、あるいはゆとり教育のことです。今頃何でと、訝しがられますね。「ゆとり論争」が喧しかったのが懐かしくなります。「ゆとり教育」を導入したから、子どもたちの「学力低下」をまねいたという人がいれば、いやいや、ゆとり教育導入後にかえって「学力は上昇」したという人もいて、いやはや。理屈はなんとでもいえるという見本です。

 そもそも「ゆとり」と「学力」は結びつかないし、結びつけようとする方がおかしい。世間でもいうでしょ、忙中閑あり、って。「閑中の閑」とはいかにもしまらないし、「忙中の忙」はなおせせこましい。しかし、学校というところは「小人閑居して、不善を為す」とばかりに教師も生徒も時間と規則でしばり放題にしばってきたのはだれだったか。まことにゆとりに無縁な仕業でした。

 遊ばせておけばろくなことをしないから、「月月火水木金金」と管理と監視を怠らなかったのが、この百何十年の学校の歴史だった。ゆとりがきいてあきれますね。「ゆとり」とは「余裕のあること。窮屈でないこと」(広辞苑)をさすらしいから、まずこの国の学校には無縁な価値でした。教師は子ども(生徒)たちを、校長は教師たちを、教育委員会は校長たちを監視し管理する構造ができあがっている状況で、さて「ゆとり」はどこに顔を出すゆとりがあったか。

 一将功成って、万骨枯るともいいます。たった一人の目立ちたがりがしゃしゃり出たおかげで、後ろには死屍累々。これが現下の学校改革の実態です。鉦(かね)をたたき笛をふいて、やれ学区制の撤廃(学校選択の自由)だ、小中一貫だ、民間校長だ、指導力不足教員の追放だ、授業の鉄人だ、といかにも横暴な指導力を発揮したようでいて、気がついてみれば、国やぶれて山河あり、城春にして草木深し。その後始末はだれがするのでしょうか。(「九月入学」も瞬間暴風のようでしたが、いつでも「子ども不在」「教師置き去り」の暴論バッカ)

 ここまできてもなお、競争させなければ学力が落ちる、知識を植えつけるんじゃなくて、「たたき込むんだ」という暴言だか妄言を吐いている御仁(大殿)がおられます。なんともゆとりのないことおびただしい。学校も子どもも、まるで「私物」のようにあつかおうとしているのに気づかないのですかね。このような時代錯誤状況にむかってなにかをいうことはしない。これはもはや教育の問題ではないからです。

  どこをどう勘違いして、学校教育は自分たち(政治屋や過去官僚)の権限内のことだと思いこんでいるのか。

 行く春を近江の人と惜しみける     六月や峯に雲おく嵐山

 ぼくはこの平凡な句に魅かれる。近江は曽遊の地(琵琶湖)。嵐山は、ウサギは追わなかったけれども、ぼくのふるさとといいたい土地。このように、場面や景観を「切り取らんとする」心境の人にこそ、余裕、つまりゆとりが宿ってるんじゃないですか。

 ゆとりというのは「心もち」なんですね。心ない強制(教育)を広言してはばからぬおとど(大殿)たちには絶えて実感できない心情です。いまどき「国家・公(おおやけ)のための教育」などと猛々(たけだけ)しい大音声はこの世のものとはおもわれない。

 ある新聞でのインタビューに答えて(だれが「答えた」のかは不明です。こう言いたい人は、数多いるだろう)

 ― 何度も「今までの教育に競い合う心や切磋琢磨する精神が欠けている」と。

 日本の子どもはぬるま湯の中に入っちゃってる。途上国が後ろから、どーっと追いかけてくる時、のうのうとしていると、あっという間に抜き去られて将来は非常に危ういと思います。平等、平等、結果平等という学校の風潮から直していくべきだ。スポーツにたけた子とか歌のうまい子など、どんどん認めて引き出していく教育が必要だ、と。

 ― 結果的に詰め込みを勧めているのではないか

 全然詰め込みではない。たたき込め、っていってんだから。繰り返し繰り返し、ちゃんと覚えろよ、ということ。刷り込めといってもいい。基本を覚えないとなにも考えられない。国語は大事だ。語彙が豊富なら多くの思考経路ができる。詩歌や漢文を小さい頃覚えておくと、人生の折々に慰めや指針になる。漢文の素読は小さい頃からやるべきだ。鉄は熱いうちに打てというでしょ。(朝日新聞・05/04/24)

 「なるほど」といいたいけど、教育に対する「思考経路」がまったくことなるのだから、そういうことですかというだけ、呆れるばかりです。途上国に抜かれるのがどうしていけないのか。まさか中国と競争して、夢よもう一度とばかりに、子どもを駆り立てようとするのですか。(上り専用のエスカレーター。踊り場が必要だね)

 率直なところをいえば、中世の亡霊が霞ヶ関に住みついているという感がします。 

 「競い合って頑張る精神でないと、孫の時代が大変だなと思う」その意味は不明ですね。国盗り物語を地で行くような発想なのか。「ゆとり教育」というけれど、この島では「ゆとり」と「教育」は別物。まるで「水と油」でしょ。だからそれを二つ並べただけでは混乱するばかりだとおもっていましたが、案の定でした。学校教育に救いがあるはずがない。(頑張るは「我を張る」で、「お前がそんなとこで頑張るから、みんな迷惑してるんだ」という具合、ぼくは使いたくない語の筆頭だ)

 ゆとりは遊び。遊びと勉強(学習)を対立させない。遊びの中に学習が、学習の中に遊びがなければ、話にならん。(左はベートーベンのピアノソナタ8番「悲愴」の部分)

 ぼくはいつでも「がんばる」を自粛してきました。

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●がん‐ば・る〔グワン‐〕【頑張る】 の解説[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。「―・って自説を譲らない」3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」(デジタル大辞泉)

●ゆとり の解説 物事に余裕があり窮屈でないこと。余裕。「経済的にゆとりがない」「心にゆとりを持つ」類語 余裕(よゆう) 余地(よち) 関連語 ゆったり(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。