
「人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである。この足場によってのみ人間はそもそも諸権利を持ち得るのであり、この足場こそ人間の意見が重みを持ち、その行為が意味を持つための条件をなしている」(ハナ・アーレント『全体主義の起源』より)
政治学者であったアーレント(1906~1975)は、その前半生において、ユダヤ人であるというたった一つの理由でドイツを追われ、フランスからも追われ、アメリカに亡命しても無国籍状態が続きました。(十八年間も)国籍をもたないという状態はどのような状況に人々をおとしめるのか。その地点からアーレントは世に称揚される<人権問題>を告発するのです。<人間世界における足場>とはなにを指しているのでしょうか。

その<足場>によってこそ、わたしたちは「諸権利」をもつことができるのだというのです。なにものにも先だって<人権>があるのではなさそうだということをかんがえていただきたいのです。さまざまな考察が加えられなければならないとおもいますが、まずなによりも<人権>の前提(条件)としてなにを想定することができるのか、という問題です。人間が「人間であるほか、他のなにものでもない」という状態とはなんでしょうか。
第一義的には、<語られたこと>の重要性の喪失とそれによるリアリティの喪失、つまりは<言葉>(発語)の喪失です。暴力や強制に頼らずに、共同生活を営むのに必要な諸問題、公的諸問題を言葉によって解決しようとする「能力」の喪失、そこから、あらゆる人間は<人間世界における足場>を剥奪されるのです。アーレントの肺腑の言です。

<人権>を失うとは、「口の死せる者」(mundos)とされてしまうことを意味するとアーレントは述べます。それによって、共同体からは仲間として認めてもらえない状態がつくりだされるのです。それに次いで、共同体内における人間関係の喪失が生じます。(I can’t speak.どころか、I can’t breathe. と一人の男性が声を上げたにもかかわらず、それを無視され、息の根を止められたのです)

それは、政治的な動物としての存在であることを拒否されることでもあります。また、そのことによって明らかにされたのは、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言で高らかに称えられた「奪うべからざる」「譲渡することのできない」「生まれながらの」<権利>がまったくの抽象概念でしかなかったということでした。
人間の尊厳は、それまでの歴史の延長上に生まれたのではなく、歴史とは一切遮断された<自然>(自然権として)に帰されたのです。人間が勝手きままに始末することができる自然、「開発という名の自然破壊」「恣意的な自然保護」のありようをみれば、この人権の根拠である<自然>がいかに恣意的で脆弱なものであるかがわかるでしょう。「自然」あるいは「権利」を支配するものは、いったい誰なんですか。
《生まれながらの自由は今やすべての人間に、奴隷にまで認められたが、自由も非・自由もともに人間の行為の産物であって「自然」とは全く無関係であることは看過されてしまった》(アーレント・同上)

いまいちど、「人権問題とはなにか」「人間の条件とはなにか」をかんがえなければならないようです。
「子どもの権利」というものも、それを認めるべき側(親や保護者)が尊重しなければ、まったく無意味になるのは明らかでしょう。「自然権」といって、それで何かが達成されることはあり得ないのです。まだまだ、ぼくたちは遠くまで歩かなければならないというほかありません。
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● 自然権=人間が国法その他に先立ち,自然法によりあるいは生まれながら人間として有している権利をいう。日本では天賦人権ともいわれた。自然権は人間をあらゆる政治的・社会的制度に先立って権利をもつ存在と考える点で,それまでの特権中心の権利観を根本的に転換させた。自然権の概念をそれ自体として積極的に展開し,社会の構成原理の基礎に据えたのはホッブズである。ホッブズは個人の生存の欲求とそのための力の行使を自然権として肯定し,これに基づく戦争状態こそを自然状態とした。(世界大百科事典 第2版の解説)
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