ただの人間以外の何ものでもない

(Auschwitz koncentrationslejr)

 もはやドイツ人、ロシア人、アルメニア人、あるいはギリシャ人としては認めてもらえなくなった彼らは、ただの人間以外の何者でもない。(アーレント)

  学校の運動場で、他の子どもたちに「おまえと遊ばないよ」といわれた子どもは、この言葉では表現できない苦しみを体験するのです。(リオタール)

 はたして人生(生きること)に意味があるのかないのか。どんな言い方にしろ、だれでも人生に意味があると思っているでしょう。「こんな人生、生きていたってしかたないよ」「どんなにがんばって生きたところで、結局は死んでしまうじゃないか」といってみたり、実際にそんな「無意味な人生」におさらばする人もたくさんいます。

 私たちは〈生と死〉を対立させてとらえてしまいがちですが、さてどうですかね。いじめを苦にして自殺する、あるいは不治の病苦に耐えられずに死を選ぶ。いかにも生きるに値しない人生からの逃走、と見えなくもないけれど、それは人生からではなくて「苦痛」「苦悩」からの逃走じゃないですか。なぜなら、「苦痛」や「苦悩」がない人生からは人は逃げ出したりはしないのだから。

 人生に意味がある、と断言することは私にはできない。もちろん、意味がないともいえないのです。あるかないか、このことに悩みつづけるのが人生なのかもしれないと、かろうじていうばかりです。人生はチェスのようなものだ、とヴィクトール・フランクルはいったことがあります。それはあるルールに基づいたゲームだと。でもこのゲームには勝ち負けはない、試合を投げ出さないことだけが唯一の規則なんだというわけです。

 「どんな人間もユニ-ク(唯一性)であり、どんな人生も独自性を持っている」ともフランクルは述べています。何においてユニ-クで独自なのか。「いかなる人も置き換えることができないし、その人生を繰り返すこともできない」 比較することも掛け替えることもできない人生、それこそがその人の存在の証明だということでしょうか。

 生きるというのは肉体をもって生きることです。他のいかなる肉体からも分離された生を生きるわけで、この分離されているところにこそ孤独の意味があるのでしょう。自由意志の支配権を所持しているがゆえに、「私は私を重視する」のだとデカルトはいったのですが、〈自由〉であるとは、孤独であり不安であり寄る辺ない存在だということにもなります。

 無頼、ということの真意はここにあるのかもしれません。(この項、続きます)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)