
監督・撮影・編集: 土井敏邦 編集協力: らくだスタジオ・森内康弘 デザイン: 野田雅也 製作: 『«私»を生きる』制作実行委員会 配給・宣伝: 浦安ドキュメンタリーオフィス、スリーピン 日本/2010年/日本語/カラー/デジタル/138分 (この記録は一見の価値があります。ぼくがいう「非教育あるいは反教育」というものが、堂々と、しかし実に忌々しくも学校教育の現場で罷り通っているか、にもかかわらず「個を突き出してゆく」存在の気高さともいうべきものが胸にこたえるのです。抗うという生き方、不服従という姿勢、それが持っている意味を教えてくれる)
明治に教育制度が創設されて以来、この列島にみられる教師たちの苦闘・苦悶には同情を禁じえないのですが、その何割かはみずから招いた部分が少なからずあると思われる部分もありそうです。でもその多くは、教育を管理し、みずからの手に掌握しようとする「小悪役人」たちの陰謀にあるのではなかったか。不幸なことに、学校教育の歴史は明るいものではありませんでした。いまは、わずかでも明るさがもたらされているのでしょうか。

さらにいえば、まともに子どもに向き合い、彼や彼女のうちに「批判精神」を育てようとすると、きっと大きな壁に突き当たる、蹴飛ばされる。いわゆる「バカの壁」です。この「壁」は壊されることはあっても、無尽蔵です。まるで不死鳥のごとく、雨後の竹の子のごとく蘇り、一段と高みに立って、瀕死の教師たちを貶(さげす)み罵(ののし)る、そんな風景が連綿とつづいています。教育を管理の対象にしかしない過去官僚たちの生息。
でも、考えてみてほしい。現状のおかしさに「異議」を唱えれば、現状を采配している輩の抵抗を受ける、これは当然のことで、「異物」を容認するほど、現状肯定派・現状追認派の度量は広くないからです。
おかしいことはおかしいというちからを失えば、何者かの軍門に下るほかありません。ぼくは幼いころ(今も幼いが)、おのずから「服従」とは美しくないという、まあ一種の美学を学んだ。自分で決めて(判断して)、行動する。脚気はいい時も悪い時もありました。間違えは潔く認める(格好よく言えば)。反対に「不服従」の難しさというか、ちょっと「あかんかな」と思いながら、従わないことが多くありました。そこから、素直よりは正直を重く見たいという生活態度をつくろうとしてきたんですね。「私」を生きる、それもがんじがらめの組織の中では、自分がはじき出される道しか残されていないのに、その道を歩こうとされた三人の教師。ぼくは万感の思いで「敬意」を表するのはその部分です。貴重な存在です。

芦田恵之助さんじゃないけれど、易行道(いぎょうどう)ではなく、難行同(なんぎょうどう)をとる。(この記録映像ではっきりとわかりますが、その「道」はたった一人ではないのですね。そこに大きな救いがあるのでしょう)かかる抗う人生を生きる教師は、この三人に見られるように、いつどこにでも存在します。その存在を消そうとする勢力との戦い・闘いが、実は教師の、もう一つの仕事でもあるのです。手には武器はないし、法律も味方してくれない、ひたすら「アカンものは、アカンのや」という抗いの精神だけです。でも、悲壮感を持つ必要はない。援軍はすぐにはみえないけど、五万といるのだから。この「いいね!」はアイコンなんかじゃやないんだ。心身ぐるみでの援軍、それが救いです。
(今回は土肥さんに登場願いますが、残るお二人にもいつかは、と考えているのです)

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《 私は一九七二年に大学を卒業し、商社に勤めました。商社は利潤のためなら手段を選ばないというところもあり、私の考えとは違うと感じました。利潤追求を第一とせず、また将来の日本にとって大切なものを、と考えて、教員の道を選びました。
教員を経験してみると、自分と関わった子どもはすべて幸せになってほしいと感じます。子どもの中には、勉強の得意な子、あるいは勉強は苦手だけど運動が得意な子など、色々なタイプがいます。
色々な性質の子どもが幸せになるためには、平和な社会でなければなりません。同時に、一人一人の違いが権利として尊重される、基本的人権の尊重も必要です。

こうした社会は、民主主義があってこそ成立するものです。その民主主義を活性化させ、支えるためには、一人一人が自由に発言できる言論の自由が大前提であると考えています。言論の自由が社会の基本であり、それがない組織は必ず衰退していきます。
かつては、教員の間でも活発に意見のやりとりがありました。私の経験でも、生徒の進級問題などをめぐって、夜八時ぐらいまで職員会議で議論したこともあります。
ところが、二〇〇六年、都教委は、職員会議で教員の意向を確認するために挙手や採決をしてはいけないという通知を出したのです。それ以前に、二〇〇三年に、入学式や卒業式での「日の丸・君が代」の厳格化を求める、いわゆる「一〇・二三通達」を都教委が出したころから、教員の間で自由に意見を言い合う雰囲気がなくなっていきました。挙手採決の禁止は、その流れにさらに追い打ちをかけるようなものでした。私は、こうした流れは非常に危険だと思いました。
そして、実際に、都教委による様々な言論弾圧がなされるようになりました。都立高校の教員による研究会で、かつて都教委と違う考え方の論文を発表した教員が報告をしようとしたところ、都教委の意向によって交代させられたり、ある学校の文化祭で生徒がつくった掲示物に対して、「考え方が一方的だ」として、都教委が校長連絡会に注意を促したり、などです。

都教委は、学校に対する権限と責任は、教員ではなく、校長にあるとしています。ところが、私自身が校長として自ら責任をもって職務命令を出しても、それが都教委の意に反していると、都教委は厳しく指導してきます。こうしたことが認められてしまうと、教育現場に行政がどんどん入ってきてしまう。教育に言論の自由がなくなったら、とても危険ですし、子どもたちが幸せな社会は築けないと思ったのです。そのことについて問題提起をする意味でも、都教委に公開討論を求め、さらにその後は訴訟も起こしました》
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このように率直かつ静かに語るのは土肥信雄(どひのぶお)さん。

東京都立三鷹高校の元校長。現在、法政大学、立正大学非常勤講師。一九四八年生まれ。東京大学農学部を卒業後、商社勤務を経て、教員に。著書に『学校から言論の自由がなくなる』(岩波ブックレット、共著)、『それは、密告からはじまった』(七ツ森書房)など。(『世界』12年5月号所収の、対談「学校を死なせないために 子どもを中心に再出発しよう!」より。対談の相手は、誰あろう、尾木ママです)
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「荒廃の極」といっていい状況にまで教育現場を「毀損した」というほかない都知事が辞めて、国会議員になり、新党を旗揚げするそうです。大衆迎合主義者であると同時に、大衆を軽侮するという不誠実この上ない「知事」に圧倒的多数が支持するという奇天烈な状況は、島の大都会で今なお進行中です。

ぼくはつくづく考え込んでいるのです。どうしてかしこいい選挙民が育たないのか、と。
この土肥さんの発言がなされた当時、大衆(国民・都民)を愚弄しきった「I都知事」の言動に対して、愚かにも従順を装ってしっぽを振るような都教委や多くの管理職者たちを眺めていて胸糞が悪くなるのをどうすることもできませんでした。「一将巧なり、万骨枯る」という言い草がありますが、巧もまた枯れるのが運命です。なんでまた、誰も彼も「権勢」を誇ろうとするんですか。「お前にはわからんよ」という声(罵り)が聞こえてきます。「バカの壁」はどこにでも存在します。

土肥さんの発言と行動にいささかの衒いも偏りもないのに、「小悪役人」たちは押しつぶそうとする。今でいうところの「忖度」だろうか。でも、違うようです。彼らも「I知事」を尊敬などしていなかったのです。要は「わが身可愛さ」というわけでしょう。利己主義者が蔓延しているのです。職階を武器に無理強いする、これが暴力でなくて、なにが暴力かと、果敢に挑戦を止めない元校長の生き方に、自らを重ねてみます。
裁判の経過等の詳細については次のURLで。(https://readyfor.jp/projects/dohikouchou-saibankiroku)
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