単純さを支える思想を

 一家4人を殺害し、強盗殺人罪などで死刑が確定した元専門学校生魏巍死刑囚の刑執行について、記者会見する森法相=19年12月26日午前、法務省 写真提供:共同通信社(本文とは直接の関係はありません)(虚言癖大臣が「死刑執行」に署名するのですね。「機械的に」署名し、さっさっとやっちゃえばいい、といった大臣もいました。

 死刑反対も初め信念以外なんもないから、「そんなことしたら犯罪が増える。やられてからでは遅いんや」とか、「あんた自分の恋人が殺されても死刑反対か」とか、「子どもを誘拐して殺すような、そんなひどいやつに対しても許せとゆうんか」とか、「強姦殺人だけは人がなんと言おうと許せん。お上に頼むのかと言われようと死刑にでもなんにでもしてやっつけなかったら女はいつでもやられっぱなしや」というような圧倒的な声の前で、わたしの単純素朴な死刑反対ではぜんぜん歯が立たへん、まるで説得力がないわけや。信念というのは自分に対してはつよいけど、それだけやから、なんちゅうか、おもろないねんな。

 米子の街に一人で立ってからやっと二十年もたつんやけど、初めの十年というのは、運動いうんは、わたしにとってしんどいばっかりでいつも逃げ出したい感じやった。おまじないみたいに、それも白眼むいて非暴力非暴力って唱えてるみたいな。そやから、運動っていうかんじではないんやけど。

 いつか鶴見さんが恥はこってりかきなさいって、だれかに言うてはって、・・・。街で一人で立ってるといろんなこと言われるんですよ。「そんな、なんも知らんでようそんなことするなあ、もっと勉強せなアカンわ」とか、もろに「バカじゃないの」って言われたこともある。そんなときは、鶴見さんの「恥はこってりかきなさい」っていうことばを思い出すんや。でも、まあ、それでもなんとかやめないで、ちょっとずつでも動きつづけてたら、少しずつ世の中が見えるようになってきて、少しは理屈もわかるようになってきた。

 あの、わたしいま、『非暴力直接行動』という機関誌を毎月出しているんやけど、その一四二号に「なんで死刑廃止か」っていう文章を書いたんです。わたしなりにだいぶいろいろ言えるようになったというわけやけど・・・。しかし、でも、やっぱりこの文章が、死刑はいるんだと思ってる人に説得力があるとは思えない。

 鶴見さんの書かれた『家の神』(淡交社)っていうほんのなかに、ペーター・キュルテンていう人が出てきますね。その人は一二歳のときに二人の少年を川におぼれさして殺してから四十八歳でギロチンによって殺されるまでのあいだに、実に殺人を十二件、殺人未遂が十七件、放火二十三件やった人なんです。ギロチンになる前に彼を調べた心理学者がいるんやけど、その心理学者に記録係として女の人がいつもいっしょにきてたんですね。ペーター・キュルテンはその女の人の白いうなじを見ると、やっぱりいまでも殺したいっていう衝動がどうしても自分のなかにあるっていうことを隠さずに語ってるんです。付随筋として手が動いてしまうとゆうんです。もし万一保釈されて外に出られたとしたら、またやっぱりやってしまうだろうって。

 ペーター・キュルテンみたいな人はめったにいるわけはないんやけど、そういう事件に対したとき、きっと呼びおこされるのが死刑制度っていうことなんだと思うんです。こういう現実がある以上、死刑はやむをえないんじゃないか。死刑制度はそういう犯罪を未然に抑止する力があるっていうふうになかば信じられている。だから、いったん死刑制度に反対やと言いながら、この種の具体的なそのときどきの事件を目の当たりしたら、たとえば、「死刑制度には反対なんやけど、やっぱりこの人たちは爆弾で人を八人も殺しているし、ちょっと署名はでけへん」とか、「そりゃ死刑がないほうがええかもわかれへんけど、何の罪もない女子学生を誘拐して殺された家族の気持ちを思ったら、ちょっとね」という現象が出てくると思うんですね。

 それから、「死刑制度についてあんまり勉強してないから、まだちょっとよう言わん」という人にもちょくちょく出会うんやけども、わたしの場合、非暴力にしても戦争反対にしても死刑反対にしても、いろいろよく考えて、よく勉強して、その上で得た結論ではないんですね。戦争にしても死刑にしても、国家がわたしらにしかけてくるもんなわけでしょ。これに対して自分のとる態度っていうのは、まず基本的に反対っていう以外にないと思うねん。

 いまいろいろ世の中で問題になってるたいがいのことは…原発だって新空港だって何だって、国家や大企業がしかけてきてるわけやから、…。だから、まず反対といってから考えたって遅くはない。

 反対、反対ばっかり言わんと、代案を出さなあかんとよう言われるけど、代案がなくても、仮に、もし死刑をなくしたら犯罪が増えるとしても、反対は反対だというのがわたしの根本なんです。

 でも運動をつくってゆくときに、この「反対は反対や」ていう単純さを支える思想っていうか、そういうもんがわたしは欲しいと思うんですね。(水田ふう・鶴見俊輔対談「死刑反対をめぐって」鶴見俊輔座談『社会とは何だろう』所収。晶文社刊。1996年)

*水田ふう=個人通信「風」発行人。一九四七年、鳥取県米子市生まれ。たった一人でベトナム反戦ビラを米子市街でまく。その後「米子ベ平連」を組織。原発反対運動にもコミットしている。向井 孝と共著で『エェジャナイカ、花のゲリラ戦記』径書房刊、1989年)など。(写真右が水田さん)

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 十年ほど前だったか、鎌田慧さんの紹介で水田ふうさんに連絡を取ったことがありました。ゆっくりとお話を伺うことができたらと願ったからです。残念ながら、ご本人だったと思いますが、「ただいま、病臥中」とのことで、断念しました。その後、機会をみつけてと考えながら、とうとうそのままにしてしまいました。詳細は不明ですが、今年(20年)の2月に亡くなられたという報道がありました。特異な運動を、パートナーの向井孝さんと続けられていました。ぼくが興味を持ったのは、上に紹介した「死刑反対」運動の姿勢・態度(アナーキ―そのもののような)でした。今後も学び続けていく必要があると考えているのです。

 「もし死刑をなくしたら犯罪が増えるとしても、反対は反対だというのがわたしの根本なんです」

安倍首相と法相が オウム死刑執行前夜の“乾杯”に批判噴出:日刊ゲンダイデジタル・2018/07/07 15:00(死刑前夜に酒宴(片山さつき議員のツイッターから))「正気なのか――。オウム真理教の教祖・麻原彰晃死刑囚ら7人の死刑が執行される前日の5日夜、安倍首相が、執行を命令した上川陽子法相らと共に赤ら顔で乾杯していたことが発覚した。ネット上で批判が噴出している。安倍首相は同日夜、東京・赤坂の議員宿舎で開かれた自民党議員との懇親会に出席。上川法相や岸田文雄政調会長ら40人超と親睦を深めた」昨年の同会は、房総半島を風水害が襲った当夜でした。拙宅も停電、断水、さらには道路陥没と「いい目」に遭いました。心底から、人命を「舐め切っている」塵どもだ。オウムだから構わない、そうじゃないからダメというのも嘘ですね。

 「殺人はよくない」というのに、なにか理屈がいりますか。説明がうまいから(説得されたから)、「死刑はダメ」というのはまずいんじゃないですか。ダメなものはダメ、これで何か不足があるのかどうか。水田さんの「(死刑などは)国家がわたしらにしかけてくるもんなわけでしょ。これに対して自分のとる態度っていうのは、まず基本的に反対っていう以外にないと思うねん」という単純明快な思想。これは立派な思想だと、ぼくは考えています。今の法務大臣、いったいどれだけ嘘やごまかしで権力にまとわりついていることか、そいつが「君の死刑を執行する」とは、とても認められません。もちろん、誰が法務大臣であっても、だめですよ。

*ペーター・キュルテン(Peter Kürten, 1883年5月26日-1932年7月2日)はドイツの連続殺人犯。デュッセルドルフの吸血鬼 (ドイツ語: Der Vampir von Düsseldorf) という異名を持つ。強姦、暴行、殺人を行い、1929年1月から11月までのデュッセルドルフの凶行で有名。名前を英語読みし、ピーター・キュルテン(ピーター・カーテン)とも言われる。近代シリアルキラーの原点の一つとして語られる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。