マスク姿のしぐれていくか

左のコラム氏、マスクのことを言っています。昨年12月7日付です。「先見の明」か?

 天声人語 私鉄駅のエスカレーターに親子連れがいた。母の尻ポケットからのぞく異物を男児は見逃さなかった。「なんでチャンネル持ってきたの?」。お母さんは「もうやだ。なんでなの」と、リモコンを同伴した己を責めた。誰にでもある「うっかり」の多くは笑い話で済む▼だがそれは、不注意ではなく長い闘いの兆しかもしれない。冷蔵庫に何度も空の食器が入っている――。群馬県議会議員の大沢幸一さん(66)は6年前、妻正子さん(60)の異変を確信した。若年性アルツハイマー病だった▼過日、横浜市であった認知症ケアのシンポジウムで、大沢さんにお会いした。生命倫理学会の公開行事だ。「共倒れにならないよう、妻には笑い薬を与えています」という壇上の発言が心に残った▼寝る前、おどける夫に笑ってくれれば、妻も自分も安眠できる。反応で症状の進行もわかる。そして、怒らない、ダメと言わない、押しつけないの三原則を自らに課す。最愛の人の尊厳、誰が傷つけられようか▼認知症は人格が崩れ、やがては抜け殻になると思われがちだ。しかし、シンポを企画した内科医の箕岡真子さんは語る。「抜け殻論を乗り越え、患者ではなく一人の生活者として接したい。以前とは違うけれど、その人は感じ、欲し、つながっていたいのです」▼人格は失われず、隠されていくと考えたい。情緒はむしろ研ぎ澄まされるとも聞いた。介護の技術に倫理や共感の視点を採り入れることで、本人と家族の「人生の質」を少しでも保てないか。高齢化が問う、重い宿題である。(朝日新聞・09/11/18)

 何度も言いますけれども、ぼくは新聞を読まない。テレビも見ない。じゃあ、日々の出来事を知らないで生きているのか、と問われそうですが、「はいそうです」といっておきます。そんなものを知らないでも困らないのだから。だがしかし、ネットを見る習慣がついているので、なんとなくニュース(新聞というか、伝聞というか)が見えて(聞こえて)くる。それは仕方がないのですが、最近はやたらにテレビと同じもの(内容)がネットに出だしているので、嫌な気分に襲われます。ネットと同時配信(背信)などといわれて、余計なことはしてほしくないと、気分がすこぶる斜めになっています。

 十数年前までは新聞の「コラム」をよく集め・読みました。全国数十の新聞の「コラム」をあつめていたこともあります。「おれの方がいい文章を書くね」とかなんとかいって。  

 ここに出したのも、その一つ。「天声人語」についてもどこかで触れておきました。六百三字の脚本であったり、短編であったり。出来不出来がはなはだしいが、とりあえず、二題。一本目は「笑い話」かと思いきや、「深刻話」に暗転。身につまされてしまいました。十年以上前のものですが、ぼくはそのころもすでに「老人性痴ほう症」に関心を、いや自分のこととして気にしていたのです。歳を取れば、記憶力は衰える。だから「セサミン」だか何だかを飲めと、おのれの金儲け(商売)のために忠告する輩が暗躍明躍(迷惑)する。

 「人生の質」(Quality of Life)とかいうのですが、人それぞれでいいのではないですか。これぞ「人生の質」などというものがあるものか。質にも「是非善悪」があるのは当然で、それを無理に「落とさない」「保つ」というから話は面倒になり、ひたすら医者や薬屋を儲けさせることになる、儲けのあるところには「蛆虫」がたかる、そっちの方が重病だ。若い時に早く走れたのに、歳とってすっかり遅くなったと、そんなのは当たり前です。歳を重ねるというのはスローになることですから。無駄な抵抗はしないこと。

 記憶はなくならない、たっぷりと残っているのです。記憶を呼び起こす部分が故障しただけ。「想起」という思い出し方はいろいろな説があります。ひと言でいう(ことはできないが)なら、「連想」(association)です。結びつけ。( ぼくは若い頃は心理学なんども齧りました。今は刃こぼれが半端時じゃない )この機能が故障しているのですね。名前を思い出せないなどというのは、その典型です。連想の手がかりが失われているから、手がかりの手がかりの、…と際限なく求めるのが面倒だから、記憶にないということになります。どこかで述べるつもりですが、「忘れる」かもしれません。どんなにばかばかしい行動でも、きっと「連想」があります。多くの人にはわからないだけ。赤ちゃんのサインや犬猫の行動が意味するものも、よくつきあっている人には「連想」が働く。プロですね。この人は「何を考えているか」「Youは何しに島にやって来たか」、ゆっくりと連想を働かせること。早わかり(したがる)は禁物です。

 天声人語 ちゃぶ台返し、と聞いて昭和の人気野球漫画「巨人の星」を思い出す方もおられよう。わが世代には懐かしい主人公・星(ほし)飛雄馬(ひゅうま)の父親の「得意技」とされた。ところが原作にはその場面はないという▼一度だけ、主人公を張り倒したはずみでちゃぶ台が転ぶ。テレビアニメで毎週絵が流れ、「常習犯伝説」になったらしいと、前に同僚が書いていた。さて、漫画はともかく、本物の巨人である。「ちゃぶ台返し」がお家騒動の引き金になったようだ▼球団会長の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏(85)が「鶴の一声」でコーチ人事を覆した、のだという。「一声」には慣れていると思われた身内からの反旗である。渡辺氏は反論の談話を出し、外からは理非は見えにくいが、ごたごたに辟易(へきえき)のファンは多かろう▼しょせんは内輪もめともいえ、世間に訴えた清武英利球団代表には、喝采とともに疑問視する声も飛ぶ。他球団ならここまで話題になるまい。名門に加え、君臨する渡辺氏の個性ゆえである▼大リーグの名門ヤンキースの大スターだったディマジオは言ったそうだ。「(球場で)自分を見るのが最初で最後の人がいる。その人のためにプレーしている」と。テレビのない時代、日々最高のものを見せようと張りつめるプロ魂は気高くさえある▼日本の選手にも同じ魂があろう。そんな選手の一途さにくらべ、澱(よど)んだような内紛劇は見るにつらい。いまや巨人は昭和の栄光から遠い。平成の巨人に「ナベツネ伝説」だけが残るようでは、ファンは寂しい。(朝日・11/11/13)(いまは「ちゃぶ台」にも希少価値があります)

 ぼくは「告発」にも、それに対する「反論」にも興味はありません。野球もテレビも見ないし、新聞も読まない。しかし、野球を食い物にしたり、新聞を自分の日記帳かなにかと錯覚しているのはいかにも許せないし、その醜態は見苦しい。夫婦喧嘩を新聞やテレビで見せられた日にはどうしようといたたまれなくなる。野球に生涯を賭け、新聞人としての矜持を失うまいと日々取材に努め、社会の木鐸(死語になりました)たらんと呻吟しつつ仕事に励んでいる多くの人を知っているからこそ、こんな茶番(ちゃぶ台返しではない)を見せつけられるのははなはだ不愉快になるのです。不愉快はぼく一個の問題ですが、公器のはきちがえだけはゴメン被りたいと思うばかりです。 要は、ちっとは公私の別を弁えてくれませんか、というばかり。ぼくは「寂しくない」、応援団じゃないからね。

 野球も商売ですから、営業妨害はしない。中高校生時代はいっぱしの野球少年でしたが、今ではその記憶すらいまいましいものになりました。(集団競技が性に合わなかったはずなのに)不幸にして、今は「人集まって」が目の敵にされているのですが。

下の写真 座席の間隔が空けられ、マスクを着用して入学式に臨む新入生=2日、四街道市立旭小。「コロナ」にもですが、「学校」にも、うんと気をつけてね。(千葉日報・20/06/03)

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dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。