悲しみと怒りが、ぼくが詩を…

<1> 二つの顔 療養中 朝鮮戦争に衝撃

詩人 御庄博実さん(1925年~)2010/7/27

現役の医師として診療現場に立つ(広島市安佐南区の広島共立病院・右写真)

 詩人と医師。御庄博実さん(85)=本名丸屋博、広島市安佐南区=は二つの顔を持つ。岩国市に生まれ、原爆投下2日後に知人を捜し広島市内に入った。戦後、峠三吉らと活動する一方、医師として国内外の被爆者に心を砕き、今も診療現場に立つ。(御庄さんは2015年1月18日に亡くなられました)(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39979

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 僕の中で、詩人と医師は併存している。「命と向かい合う」のが医師。それは、詩人も変わらないし、そんな詩人でありたい。「人間の命」への思いが底流にあります。

 最近の現代詩は思想が飛躍し過ぎて、「言葉遊び」になっている面がある。僕は医師、つまり科学者という面も持ってますから、あまり理屈を飛び越えてしまうとついていけない。古いタイプの詩人なんです。

 「文明社会」の根幹は批評精神と想像力の二つだと考えています。それは常に人間の命にかかわる問題。ピカソは、ヒトラーがゲルニカを爆撃して大量虐殺を行った際、すぐにあの大作を描き上げた。その想像力、批評精神。僕の詩の基本も同じです。政治や権威に対する批評精神は常に磨いておかなければならないと思います。

 ヒロシマを体験した僕は、医師として韓国人被爆者や、イラクの劣化ウラン弾被害者と真剣に向き合ってきた。すると、酒が発酵、熟成するように、言葉が出始め、詩が生まれるんです。

 岡山医科大(現岡山大)3年のときに結核を発症し、療養のために岩国に戻る。1950年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)。故郷は米軍の街に変貌(へんぼう)しようとしていた

 療養していた国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)からほんの数キロ先、敗戦により連合国に占領された岩国飛行場から、米軍の攻撃機が朝鮮半島に向けて飛び立っていくことに衝撃を受けました。

 岩国飛行場は戦前、旧海軍の飛行場として造られ、中学生だった僕たちも工事にかり出された。もっこを担いで土砂を運び、育ち盛りの稲が茂った青田を赤土で埋め立てた光景を鮮明に覚えています。子どものころ、友達と食用ガエルを捕って遊んだ思い出の場所でもありました。

 その飛行場が、米軍の攻撃拠点になり、また多くの命を奪っている。原罪感というのでしょうか。悲しみと怒りが、僕が詩を書くきっかけになりました。(この連載は文化部・伊藤一亘が担当します)(中國新聞・2010/7/27)

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 《 八月六日は家(舟入本町)におりました。腹が痛うて工場へ行かずに寝とったんです。そいでピカ落ちるのも知らなんだ。目つぶっとったので何も分からん。そいで目を開けてみたらふっと家が倒れるようなんです。さっと出たら下敷きにならなかったのに、起きたらふっと倒れるから倒れる方へ逃げたんです。それでぽかあんと下敷きになって。

 はじめは黒うて何も見えない。そのうちすうっと夜が明けるようになって、ありゃ家だけバラックじゃからつぶれたと思うて、家だけ爆弾落ちたあいうて隣の人呼んで、屋根がトタンだったきにね、それでも大きな板押さえとるからなかなか出られないです。どうして抜けられたか分かりません。上がろうにも穴がない。頭つっこんでみたり、腕をぐうっと上げてみたり、夢中であがいて、その時は簡単服着てたんですが、出られた時にはぼろぼろ真っ裸になっていました。そして上がってみりゃ家どこじゃない、みんなじゃ。》(李貞秀「裸で三日位歩いておったんです」) 

 李さんは1920年生まれ、四歳の時に渡日し、広島の吉島に住まわれた。被爆したのは二十六歳のときでした。韓国慶尚南道の陜川 出身でした。敗戦の年の十一月に帰国。その後の生活は辛酸をなめるがごとくといったものでした。九十年に死去。

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  《 昭和五年十二月二十八日、私は江波と境になっている広島市舟入町で生まれました。…

 私の父は、大正時代に故郷の慶尚南道の陜川を離れて広島にやってきて、鉄くずや 古本を集める仕事をしていました。母も韓国の人ですが、広島で知りあい、結婚したと  のことです。…/八月六日、運命の日の朝、八月の太陽が熱い光で広島を隅から隅まで  赤く彩りながら昇っていました。土手の上で赤いお日様に何かを祈っていた隣のお婆さ んの姿が、五十余年過ぎたいまでも私の脳裏に残っています。…

 その日は勤労奉仕で道路拡張のために家屋を倒す作業に従事していたそうです。仕事中に大原という少年が離れたところから手を振って自分を呼んだので、「何か変わったことがあるのかなと思い、列を外れて行ってみました」そこは元病院だったという建物で、疎開のために何ひとつ家財道具が残っていなかった室内に入っていったそうです。

 二人は風の通る涼しい奇麗な床に寝転んでみました。その時、何か黄色い光がぴかっ とした瞬間、私は気を失ったようです。気がついたときは薄暗い壊れた建物の下敷きに なっていました。崩れ落ちた壁土や、いっぱいの埃を打ち払い、側にいたはずの大原君 を捜したがどこに行ったのか見当たりません。私が気を失っていた時間がどのくらいで あったのか分かりませんが、死んだと思って先に逃げて行ったようです。…

 一九八二年三月頃から下腹が変に少し痛みを感ずるようになりました。たいしたこと ではないと思っていましたが、数日過ぎても治りません。病院に行き診察を受けました。 医師は神経性の大腸炎だと言い、注射と何日分かの飲み薬をくれましたが、痛みはます ますひどくなるので、大邱 の東仁外科病院に入院しました。そこで大腸の切除術を受 けました。妻の話によると、大腸がもつれて、約二十センチ切り、取り除いたと言うの です。八日間の入院が自分の気持ちではじりじりして何ヶ月もたったと思うほどでした。》(李順基「陜川で芽生えた広島のどんぐり」)

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 どれほど前のことでしたか(出版直後であったのを記憶しています)。ぼくの敬愛してやまない医師であり詩人でもある丸屋博先生から一冊の本が送られてきました。それは『引き裂かれながら私たちは書いた』(西田書店刊、2006年)。その副題は「在韓被爆者の手記」とありました。ある事情から先生との出会いがかない、何度か親しくお話を伺う機会がありました。また、何冊もご著書をいただくという幸運にも恵まれました。この『引き裂かれながら…』は読むのがつらい本でした。

 上に紹介した、ふたつの文章(引用)はそこからの引用です。

 「まえがき」で丸屋先生は「数年来交友をつづけていた原爆被爆者の李順基氏の進行癌が判明したのは二〇〇一年一月であった。五十六年遅れの原爆症というべきであろう。

 『ガン告知』をうけ、自らの『死』と直面しながらの彼に韓国人としての「被爆者の自分史」を書き残すことを強く勧めた。彼が苦悩しながら決意して書き終わるまで、年余にわたる痛恨の日々と深くかかわる事となった」

 この本には十一人の韓国人被爆者の悲痛な声が刻まれています。

 被爆した朝鮮人は広島で約五万人(約三万人死亡)、長崎で約二万人(約一万人死亡)だといわれています。日本は世界で「唯一の被爆国」だということがことあるごとに叫ばれます。はたしてそうなのか。表面的にはそうかもしれないけれども、日本人以外の被爆者が世界の多くの地域で「日本国」のいかなる庇護も援護も受けないままですくなからず存在されていた・いるという事実を忘れてならないでしょう。(五年も前に先生の訃報を聞いた後も、何もできない・していない自分の不甲斐なさをいまなお嘆いているのです。さまざな思いを込めて先生のお仕事をていねいに学んでいきたいと念じています。温厚そのものだった表情の下に、どれほどの怒りと悲しみを湛えておられたのか)

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