祖国にはあらざる国のことばより

 靴ぬぎてひとりたたずむすすき野のむこうは祖国ふりむけば日本

 詩(うた)わずにいられぬもの

 韓国人の私が歌っていると、「なぜ短歌でなくてはならないのか」と質問を受ける。それを問われると、正直なところつらい。私は多くの表現形式の中から特に短歌を選び取ったというわけではない。学生時代から『万葉集』の大らかなロマン性が好きで、啄木のストレートな生活臭が好きだった。図書室に行ってそれらの歌を書き写してゆくうちに、いつのまにか私も歌っていた。日本に生まれ育った身体には空気を吸うように短歌が入ってくる。

 そうして歌っているうちに、私のなかに沈潜していた民族が引き出され始めた。海を渡ってきた一世の父母。少女期に出会った民族というもの。その彼方に続く祖国への思い。日本と私たちのあいだに横たわる橋のない川。それでも川は流れる。泳げない私はどのようにしてこの流れをわたってゆけるのか。

 こんな歌には日本名が似合わなかった。ごく自然に私は本名になっていた。

    母の掌にわが掌かさねるたまゆらを日本の土が匂う哀しみ

  息の緒のかぎりたゆたい自転する人も地球もさだめにあれば

  いのちもつかぎりは思う母生(あ)れし朝鮮は届かざる白きふるさと 

  祖国にはあらざる国のことばよりもたねば唄うさまよいながら

 母国語ではない日本語しかもたない負い目に何度も傷つき、もうやめようと思いながら、詩(うた)わずにはいられずに今日まできた。(李 正子『ふりむけば日本』所収。河出書房新社、1994)

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  正子さんがこの文章を書かれてから四半世紀がたちました。こんな物言いは誤解されそうですが、あえて言えば、島社会の人が表わす「詩」や「俳句」や「短歌」、さらに言えば文章までもが、在日の文学者を突き動かす動機とは根本において異なる。それは(いろいろな意味を含めていうのですが)当然といえばそのとおりだと、ぼくは考えてきました。普段の生活ではまず思いも及ばないこと、ぼくは「在日」の友人と話す機会が割と多くありましたが、いつでも「日本人とは」という問題(刃)を突き付けられていたと感じていました。どうしてだろうと、今は言いたくありませんが、「在日」文学者の表現や著書には、ぼくたちを落ち着かせようとはしない何事かがあるのです。いつでも「中腰」を強いるような、座り心地の悪さ、それがぼくの「日朝問題」でした。それは、あえていうのですが、ぼくにはつねに欠かせない時間であり、空間でもあったというばかりでした。

 《 …民族側から「こんなこといまさら言ってほしくない」という声があった。日本人からも「抵抗を覚える本」だとして電話があった。(略)

 これから、韓国人の私は何を詩ってゆけばいいのだろうか。私は私の命を韓国人として全うしたい。そのために唄い続けたいのだ。生きてあることと民族、民族であることと日本、おのどちらも私には切り離せない。切り離せないもののなかで、私の短歌は育てられてゆくのだと思う。 

 詩わずにはいられないものから、何を詩うのかということへ、それは私があることへの私自身の問いである 》(同上)

 民族と出会いそめしはチョーセン人とはやされし春六歳なりき

 「チョーセン人チョーセンへ還れ」のはやし唄そびらに聞きて少女期は過ぐ

 少しばかり前から、父に渡日史を聞き始めた。なかなか口を割ろうとしないのを口説いて、仕事の合間に記録をとっているのだが、興味がつきない。

 父は一九一〇年、つまり韓国が併合された年に生まれている。九歳の春に「三・一運動」が朝鮮半島を覆い、故郷の晋州でも、南江を渡す船橋の上を大人たちが行進した。それを日本の官憲が阻止しようとするのを、意味もあまりわからないままに見ていたという。

 十九歳も終わろうとするころに、一枚の労働者募集の貼紙を頼りに海を越えた。以来、日本の一隅で、解放前後からその後々を見守ってきた。私の父もそうであるが、一世は往々にして口が重く、自身の背景も民族のことも伝えようとしなかった。それは、概して貧しく、生活に奔走していたためと言われてきたが、ほんとうのところはどうだったのだろう。

 解放前の時期、日帝は、一九二二年に第二次朝鮮教育令、一九三八年に朝鮮語・民族服の禁止措置をとり、一九三九年には創氏改名(この年はまた朝鮮人の強制連行があった)、一九四二年、官斡旋朝鮮人徴用令、一九四四年に朝鮮人徴兵令をしいた。

 こうしてみると、まずひたすら、皇国臣民であるべく生かされてきたことがわかる。狡猾な支配政策の下では、主体的に動くなどということは、かなわなかった。次に考えられるのは、一世は当初から永住すべく、日本の土を踏んだわけではなく、何年かたてば、帰還するのだという意志を秘めていたことである。

 「あれが一生の別れになるのだとは、とても思えなかった」

 と、釜山港(右写真)での肉親との別離を、父は今もそう述懐する。一世は祖国から引き離されたのであり、帰還に望みを抱きながらも、状況はなるばかりであった。日本が、朝鮮人を抱き込んで、絶望的な戦局をさらにつき進んだからである。(李正子「かぎりなく゛暑い夏゛」『ふりむけば日本』所収)

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  李さんの第一歌集「鳳仙花(ポンソナ)のうた」(1984年刊)から。

 半島(パンド)はるか越えきしものの息づきとおもいぬ父の背に触るるたび

 生(お)いし国異なる父と吾にして言葉にまどうさみしき時あり

 若き日は飯場人夫の父も病めば胸に抱けるほどの小ささ

 泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ

 国籍の壁越え得ねば去る君の弱さが憎しじっと目を伏す

 口ごもる母よりききて姉住むは「癩園」と知りきわれは二十歳

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「どこにいても、いつも少し違う私。朝鮮と私の違い。朝鮮と日本との違い。微妙で、だが大きいその違いをわかろうとするとき、つねに日本人の群れのなかにいた私を思い浮かべる。朝鮮人が密集する地域にいたならば、私は短歌をつくることにならなかったかもしれない。

 一人で歌い、考える。それは日本の風土と私のシーソーゲームである。過疎の地、上野の風土に育てられた私と短歌とのシーソーゲームである」(「ふりむけば日本」)

  「ひとりたたずむすすき野」の向かいは祖国と歌い、ふりむいたらあった日本に、いったいどれほどの思いを込めて住みなしてこられたのか。彼女の積み重ねられた歌集の重さや高さのうちに、「在日」のはざまに生きてきた感情も理性もともどもに息づいていると、ぼくは読んでいるのです。歌に託した希望や絶望もまた、正子さんのシーソーゲームのくりかえされる反復運動だったと思う。

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 夫婦ゲンカ うどん 麦わら 

 臨時休業の理由はまさかの夫婦げんか…。

しかし、仲直りできる見込みで、営業再開日まで決まっているというのだ。

お知らせの画像がネットに投稿されると、ネットユーザーは「旦那さん地雷を踏んだってワケだ」「コシがなくなりそう」などと大喜利状態となったが、同時に夫婦仲を心配する声もあった。

このうどん店は、東京・江東区にある「麦わら」というお店だが、なぜ、このような理由で休むことになったのだろう。そして、無事に営業は再開したのだろうか?

編集部は今回、店を切り盛りする50代の夫婦にお話を伺うことができた。

実は夫婦げんかが「直接的な理由ではない」…真相は?

――どの程度の期間、臨時休業した?その後は?

旦那さん:3月29日(日)、30日(月)と休みました。当店は毎週月曜が定休日なので、臨時休業は29日のみですね。31日以降は通常通り、営業しています。

――夫婦げんかで休もうと思ったのはなぜ?

旦那さん:実は夫婦げんかが、臨時休業の直接的な理由じゃないんです。

新型コロナウイルスの影響が東京に広がりつつあり、この状況でお店を開いていいのかずっともやもやしていました。東京都が3月28、29日の週末、不要不急の外出を控えるように呼び掛けたこともあって、3月28日は営業中も憂鬱な気分が続いていました。

そこで、28日夜に翌日(29日)は営業を自粛しようと思い、来店していた常連さんに「いい理由はないかな」と話したところ、あの張り紙を書いてくれた。それを張り出したんです。

まさか、こんな騒ぎになるとは思いませんでした。

――それではなぜ、理由が夫婦げんかに?

奥さん:主人は小言などで静かに私を怒らせるので、お客さんから見ると私は“怒る人”に見えるらしいんです。常連さんが張り紙を書いたときも、私が厨房で「うるさい」と叫んでいたらしく、旦那が奥さんを怒らせたということで、あの文章になったそうです。

奥さん「主人とはいつも本気でけんかしています(笑)」

――聞きにくい質問ですが…けんかはよくする?夫婦仲は?

旦那さん:けんかばっかり。毎日けんかしてるよ(笑)。お店では、奥さんが天ぷら担当、自分がうどん担当なんだけど、出来上がりのタイミングが合わないと「早くしろ」なんて言ってしまう。バタバタしてると、互いに自分のことしか考えなくなっちゃうんですね。

奥さん:主人とはいつも本気でけんかしています(笑)。

――張り紙には「うどんが踏めません」とあるが、うどんはどう仕込んでいる?

旦那さん:自分一人踏んでます。うどん作りは粉や塩水などの素材を混ぜてそれを踏み、踏んだものを団子状にして一日寝かせ、伸ばして麺にしていくので手間がかかりますね。

――けんかするとうどん作りに影響は出る?

旦那さん:踏むときには美味しくなるように愛情・思いを込めて踏みます。適当に踏めば、適当なうどんしかできないんです。けんかすると、その愛情が半減してしまいますね(笑)。

――おすすめのメニューなどはある?

奥さん:武蔵野うどんですね。人気メニューは「肉つけ汁うどん」で、1日50食くらいは売れます。

「お店を営業していいのかなという思いはまだある」

――31日から営業を再開しているが、その理由は?

旦那さん:経営的なところもあり、営業を再開しました。とはいえ、お店を開店していいのかなという思いはまだあります。飲食業にかかわる人、みんなが感じてるんじゃないでしょうか。

――臨時休業について、お客さんから反応などはあった?

奥さん:お客さんからの反応で、特に変わったことはないですね。ただ、張り紙を見た知人からは「仲直りした?」「大丈夫?」などと連絡が来ました。

――ネットで話題となったことについて思うことはある?

奥さん:本当にびっくりです。お客さんが私たちを見て書いてくれたので、半分冗談で「近所の人に休むことを知ってもらえればいいな」と張り出したんです。それがうちの店を知らない人も見てくれているようなので、本当に不思議ですね。

――この場を通じて、何か伝えたいことなどはある?

旦那さん:新型コロナウイルスについては、対策のために誰もが協力する姿勢であってほしいですね。協力するしかないじゃないですか。そして首相や知事は、方針などをしっかり指示してほしい。みんなもやもやしてるんじゃないかな…飲食業に関わる人は特にだと思います。

夫婦げんかでの臨時休業というのは、今の社会的な状況で悩んでいる旦那さんを見かねた常連さんが、気を利かせて思いついたものだった。

心配された夫婦仲についても、「けんかしている」と言いながらも笑い声が絶えなかったことから、問題はなさそうだ。うどんも愛情も「ごちそうさま」といったところかもしれない。(https://www.fnn.jp/articles/-/2824320)(Prime on line 20年4月3日)  

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 このニュースに関してはノーコメントです。旦那さんの発言に尽きていますね。それに「常連の芸達者ぶり」だ。

 「新型コロナウイルスについては、対策のために誰もが協力する姿勢であってほしいですね。協力するしかないじゃないですか。そして首相や知事は、方針などをしっかり指示してほしい。みんなもやもやしてるんじゃないかな…飲食業に関わる人は特にだと思います」

 蛇足ながら こんなうどん屋さん夫婦もいるのですね。コシもキレも抜群かも。ということで、うっとうしい時間が続いている中での一杯のうどんでした。ぼくも「ごちそうさま」でした。

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 日本人の朝鮮問題は…

 「二つのことば・二つのこころ」(『ははのくにとの幻想婚』所収)

 日本の大衆が自分自身の日常的思惟様式の欠陥にめざめるためには、在日朝鮮人からの打撃が必要である。私が負ってきた母国との断絶よりも深い傷そのものから、かりものの朝鮮らしさを超えた思想を生みだしてくれることがその一つだ。そのための試行錯誤が、日本人大衆の日常的思惟の世界に対する直接性である時期はなおつづくことだろう。大衆は異種分離ののちの無関心を贖罪だと感じているのだから。また同化の原理以外の対応を知らないから、目の前に立ちあらわれたものとの対応性がわからないぶきみさに、日本はさらされる必要がある。自分のもっていた発想法そのものをゆさぶられるという体験を意識にとどめたものは、敗戦後にやっとかすかに生じたにすぎない。

 植民地体験に対する一般の日本人の罪は、戦前戦後を問わず、政治的には徹底した差別を行政化している国内で、なおくらしの次元では差別していないと感ずるはかない社会構造、精神構造をもちつづけている点である。それと格闘していない点である。どうもこの精神構造の特色は、二十世紀の核心部分が不明確というのか零だといえばいいのか、これがその核心だというものを指定できないところだとみえる。その内実となっているのは、わたしはあなたとおんなじ、あなたもわたしとおんなじだ、だからわたしもあなたもおなじで、つみはどこにもない、というふうに、いっさいの本質を無に帰結しうるところにある。つみのありようがない。それは一面からいえば権力に対する民衆の自衛法にはちがいない。支配権力はこの生活体にとどめをさすことはできないから、意見や行為の震源地がないのだから外からほろぼしようがないのである。そして誰でもくらしの次元ではここに加入することができる。

 けれども支配の能力のこの運動体の法則性をあらゆる段階で他に利用することは容易である。特定の人間のあいだに同化の媒体や結合目的をあたえてやれば、それに対する責任の所在は不明のままに支配の目的へ近づけることができる。おそらくそうした能力は、このくらしの自衛運動体の要員となる要素を少なくとももっているものほど、やりやすいと思われる。というのも、アメリカが行なった日本の敗戦処理の方法を思い起こすからである。

 こうした精神構造に対して、外来神をあたえるごとく安直に階級意識をもてということはいっそう罪ぶかい。階級意識を胸いっぱいかかえたあなたとわたしが、段々畠のようにならんで、自分たちの味方だと信ずるおなじ集団の支配能力の指令を待つからである。この精神構造は一代二代で超えることは不可能だ。他者との対立の視点を個人の発想の内側に定着させることは容易ではない。日本人の朝鮮問題は、やはり、日本自体を思想的葛藤の対象としたときにはじまるのだ。それ以外に朝鮮人を自分の発想の外に自立する存在だとして認識することができないからだ。われも問いかけ、かれも問いかける形を創りだすことがむずかしいからである。

 朝鮮断章・わたしのかお

 朝鮮について語ることは重たい。私は朝鮮慶尚北道大邱府三笠町で生まれた。生後十七年間、朝鮮でくらした。大邱。慶州。金泉。

 私の原型は朝鮮によってつくられた。朝鮮のこころ、朝鮮の風物風習、朝鮮の自然によって。私がものごごろついたとき、道に小石がころがっているように朝鮮人のくらしが一面にあった。それは小石がその存在を人に問われようと問われまいと、そこにあるようなぐあいにあった。そしてまた小石が人々の感覚に何らかの影響をおよぼしているようなぐあいに、私にかかわった。

 いや、そうではないのである。そのようなかかわり方にとどまっていたならば、加害者被害者の単純な対応図がえがけるだけである。

 私は朝鮮で日本人であった。内地人とよばれる部類であった。がしかし、私は内地知らずの内地人にすぎない。内地人が植民地で生んだ女の子なのである。その私が何に育ったのか、私は何になったのか。私は植民地で何であったか、また敗戦後の母国というところで私は何であったか。(いや何であろうと骨身をけずったか。私は、ここで、このくにで、生まれながらの何であるという自然さを習慣的に所有していなかったのである。私は何ものであろうと、自分の力で可能なかぎりの生き方をした。まるで失った何かをうばいかえそうとでもするかのように)(同上)

〇 森崎和江 1927- 昭和後期-平成時代の詩人,評論家。 昭和2年4月20日朝鮮大邱生まれ。昭和33年筑豊の炭住街にうつり,谷川雁らと「サークル村」を創刊。のち「無名通信」を刊行。三池炭坑闘争に際し,大正行動隊に参加する。反権力の立場から民衆や女性の内面をえがきつづける。福岡女子専門学校卒。詩集に「さわやかな欠如」,評論に「闘いとエロス」,ノンフィクションに「からゆきさん」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 歴史を無視した場所で、ぼくたちはなにをいうのか、なにをいおうとするのか。隣国に対して、歴史を語らないで、ぼくたちはどんな主張ができるのか。どんな主張をしようとするのか。ぼくはたった一人の狭い範囲において、隣り合う国に対して島社会は「何をこのしてきたのか」、それを愚直に考えつづけてきました。なにか、判然としたものが生まれたとは言いませんが、自分を偽らないためにも学びつづけなければと思いなしてきたのです。

 ぼくにはたくさんの「在日朝鮮人」(朝鮮は、全体(南も北も)としての、という意味です)の友人がいます。彼や彼女たちから、いろいろなことを教えられてきた。またこれまでにも雑文に書いたように「在日」の詩人や文学者にも多くを与えられてきた。森崎和江さんのように「朝鮮で生まれた日本人」からも学んできた。森崎さんは「贖罪」意識を今なお失っていない、それをバネにして生きてこられた稀有な人です。 「日本の大衆が自分自身の日常的思惟様式の欠陥にめざめるためには、在日朝鮮人からの打撃が必要である」

 それもこれも、ぼくひとりだけでも歴史のなかで、島の先人たちと「同じ過ち」を犯さないように、人間(隣人)に対する敬愛の念を失いたくないという、きわめて素朴は感情を偽りたくないからであった。「歴史」離れをした段階で、人間は独断に走り、傲慢になり、自己中心主義のきわみに立つのです。いまこの地上では「自己中心主義」に寄りかかり、「独善」の毒をまき散らすきわめて多くの政治家が「君臨」(ほんの一瞬ですが)しています。この島社会も例外ではない。なぜか、「歴史」を侮辱しているからです。歴史の中にしか生きられない存在が、その空気(歴史は、ぼくたちには不可欠な空気です)を侮辱(無視)して生きられるはずはないのですが。 

 カントが言っていました、「君は愚かだ、もし空気の抵抗がなければ、もっと自由に飛べるのに、と考える鳩のように」と。ぼくは愚かな鳩になりたくはありませんね。

 「私がやるべき仕事っていうのは、アジアの風土にごめんなさい、っていうことだったわけでしょう」(森崎『いのちの母国を探し続けて』)こういう人を「誠実味」に溢れているというのではないですか。

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 地球の上はみんな鮪なのだ

大弦小弦 先日、行きつけの飲み屋で隣り合った初対面の老紳士と基地問題で議論になった。老紳士は「沖縄は基地で大変だけど、場所的に仕方ない」と語り始め、「基地がないと生活できないでしょう」と繰り返した▼基地経済の縮小や新基地建設に反対する県民世論を説明すると、「君たちは日本人ではない」と吐き捨てた。ふさいだまま帰宅し、詩人山之口貘が自作を朗読するCDを聴きながら、寝床についた▼冒頭は「会話」。「お国は? と女が言つた」と始まる同作には「あれは日本人ではない/日本語は通じるかなどと話し合ひながら」とあり、「世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!」とつづられる▼「新編山之口貘全集」(思潮社)に収録された「沖縄よどこへ行く」はサンフランシスコ講和条約調印直前に書かれ、「琉球よ/沖縄よ/こんどはどこに行くというのだ」と問いかけている▼生誕110年、没後50年を記念し、38年ぶりに発刊された全集を編集した松下博文・筑紫女学園大学教授は、9月10日の本紙文化面でこの作品をディアスポラな存在(さまよえる民)としての沖縄の今を象徴していると指摘している▼貘が生きた時代と比べても、日本と沖縄の関係は大きくは変わっていない。アイデンティティーを問い、苦悩して生まれた詩に共鳴する。(与那原良彦)(沖縄タイムス・13/10/05)

  会 話

お国は?と女が言った。
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、
刺青と蛇皮線などの連想を染めて、
図案のような風俗をしているあの僕の国か!
ずっとむかふ
 
ずっとむかふとは?と女が言った。
それはずっとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、
頭上に豚をのせる女がいるとか素足で歩くとかいふような、
憂鬱な方角を習慣しているあの僕の国か!
南方
 
南方とは?と女が言った。
南方は南方、濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯、
竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物たちが、
白い季節を被って寄り添ふているんだが、
あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどと
談し合ひしながら、世間との既成概念達が気流するあの僕の国か!
亜熱帯
 
アネッツタイ!と女が言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、目の前に見える亜熱帯が見えないのか!
この僕のように、日本語の通じる日本人たちが、すなわち亜熱帯に生まれた僕らなんだと
僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように、
世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所
 

  鮪と鰯

鮪の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
亭主も女房も互いに鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅かされて
腹立まぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ。
 
( 第五福竜丸は 1954 年 3 月 1 日、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。爆心地より 160 キロ東方の海上で操業中、突如西に閃光を見、地鳴りのような爆発音が船をおそいました。やがて、実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に降りそそぎ、乗組員 23 人は全員被ばくしました。
 その後、第五福竜丸は放射能がへるのを待って東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となりました)(http://d5f.org/about.html

やまのぐちばく・1903‐1963=詩人。本名山口重三郎。沖縄生れ。沖縄県立一中中退。1924年上京し,佐藤春夫の知遇を得,《改造》にはじめて詩2編が掲載されるが,以後も職業を転々とし,放浪と貧窮の中で詩作を続けた。金子光晴と親交を結び,草野心平らの詩誌《歴程》に同人として参加。詩集《思弁の苑》《山之口貘詩集》《定本山之口貘詩集》の他数編の小説がある。遺稿詩集《鮪と鰯》)(マイペディア)

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 一時期、ぼくは「泡盛」を好んで呑みつづけていたことがあります。理由はいろいろでしたが、口に合うというのが一番でした。よく通った飲み屋の経営者が沖縄出身の人でした。沖縄には知人がたくさんいます。今ではほとんど没交渉になりましたが。山之口貘さんがやっていた、池袋だったかの彼の飲み屋にも顔を出したことがあります。(もちろん、彼はすでに亡くなっていました)

 貘さんが懐かしくなったので、紹介しようと思ったのです。それと、最近、エドワード・スノーデンという人のものを読んだり、聞いたりしていて、これまでのアメリカの悪行を少しばかりたどっていたという事情もありました。「沖縄はアメリカだ」「島全体もそうだけど、それ以上に沖縄はアメリカだ」というやりきれない思いが募っていたのも理由の一つでした。どこかで書いてみたいのですが、この「島」は戦後ずっと「アメリカ」の領地でした。島の基本政策を島人だけでは決して決められないという、おぞましい状況を加速させてきたのが歴代の権力者でした。例外的に、アメリカの気に食わない政策や政治をしようとすると必ず潰される。その典型は「田中角栄」「石橋湛山」、少し下って「鳩山由紀夫」等々。政治家も政策も、ともにアメリカに「拉致」「略奪」されているのです。(辺野古基地もイージス武器システムの配置もオスプレイも、すべてはアメリカの一存で決められている、島政府は拒否はできない。金は当方負担だ)

 「安保条約」によってこの島が守られている(核の傘とかいうが)そうですが、それは表向きであり、実際は「アメリカのための軍事条約」そのものです。アメリカは(ぼくたちが思っている以上に)暴力的であり野蛮であり、差別的であり、まるで自分以外を「召使」のごとくに扱っているのです。その役割を唯々諾々と、実演しているのが政治家である。「売国」という美しくない言葉をぼくは使うのですが、本当にそうですね。詳細は別の機会に譲りますが、すべて(土地も人も金も)をアメリカ(宗主国)のためにささげているのが「総理大臣」をはじめとする「こくぞくたち」です。悔しいけれど、情けないけれど。ぼくは石橋湛山という人を深く尊敬しているのですが、彼を「公職追放」にしたのがアメリカでした。事実は「吉田」や「岸」がアメリカに「追放」を頼んだからです。以来、すべてはアメリカの命令に従うというのが「国是」(ぼくは「島是」という)となりました。その悪傾向が最も著しいのが現在です。「最長不倒内閣」のように言われますが、アメリカの「おかげ(かいらい)」だったでからしょうね。

 だから「貘」さんです。「さて、僕の国はどこなんだか」

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 学校 あの不思議な場所

   ある一行            (茨木のり子)
 
一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行
  
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
 
魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行
 
絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなことでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった
同じ訳者によって
 
〈絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!〉
 
というわかりやすいのもある
今この深い言葉が一番必要なときに
誰も口の端にのせないし
思い出しもしない
 
私はときどき呟いてみる
むかし暗記した古風な訳のほうで
 
〈絶望の虚妄なること 希望に相同じい〉
 
ハンガリーの詩人―ベテーフィ・シャンドル(1823~49)
               *竹内好訳
 (茨木のり子『倚りかからず』所収。筑摩書房、1999年) 

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 茨木さんの青春時代、二十歳前後は第二次世界大戦中・戦後でした。(この戦争で、日本は世界を相手に戦ったのです。「日本と世界」という、驚くべき構図で「日本」は「世界」のなかに入っていないんだよ)(上の写真は魯迅)

 《今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。

 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。(茨木さんは女学校の時、挺身隊だったかの「隊長」で、全員に向かって裂帛の気合で、全校生に「号令」をかけていた、得意のときだったともいわれた)

 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います》(立花隆ゼミ『調べて書く、発信する』インタビュー集「二十歳の頃」)(再掲です)

 《実は、この詩の種子は戦争中にまでさかのぼるんです。

 美しいものを楽しむってことが禁じられていた時代でしたね。でも、その頃はちょうど美しいものを欲する年ごろじゃありませんか。音楽も敵国のものはみんなだめだから、ジャズなんかをふとんかぶって蓄音機で聞いたりしてたんです。隣近所をはばかって。これはおかしいな、と。

 それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしいんじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじゃないかという疑問は子供心にあったんです。

 ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかったわけなんです。

 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをするっていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです》(同上)

 「絶望」からしか「希望」は生まれない。「虚妄な絶望」も「虚妄な希望」も麻薬みたいなものでしょう。「絶望」とは「希望」の別名です。(絶望したことのない「ぼく」は、これを口にすることはできない)

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 その茨木さんに「学校 あの不思議な場所」という詩があります。

 多くの人は学校や教師に対して「ちょっと間をおいた」あるいは「ズレた」感覚をもってつきあってきたんじゃないですか。学校と自分がピッタリかさなるというか、自分が学校で、学校こそが自分だという感じ方を経験された方はそんなにいるとは思えない。もしもいたら、ぼくはびっくり仰天してしまいます。なんとも不思議に思うはずです。(戦時中の茨木のり子は「ピッタリ」だった)

 全部を学校に預けてしまったら、そのとたんに自分は潰(つぶ)れてしまうという不信や不安の念(「ちょっと間をおいた」「ズレた」)をぼくはもっていたし、奇妙に思われるかも知れませんが、いまでももっている。学校に譲りわたせないもの、それは「自分の感受性」かもしれないし「自尊心」かもしれない。簡単に命令されたくないし、服従したくないという感覚のことですね。学校の餌食(えじき)になるのは許せなかった。学校に入って以来、ずっとです。

 このところなぜだか、茨木のり子さんがつづきます。われながら、よく読んできました。寝ても覚めても、というほどに、茨木さん(に限らず)を読んできました。どこがいいのか、と聞くのは野暮ですね。「みんな」というほかない。二十歳のときが「敗戦」というのは凄いことでした。他にもたくさんの「二十歳が敗戦」の人がいたにもかかわらず、やはり、のり子さんだけ(とはいわないが)でしたね。

 二連目の第二行ですね、「そうだったな」とおもったのは。そのあとは、ぼくとはちがう感覚です。ぼくは高校を卒業すると同時に、狭い土地(京都)を飛び出し、逃げるように異郷の地に来ました。そしてあろうことか「だいがく」に捕まった。「だいがく」がこんなによくない場所だったとは、一生の不覚でしたね。(もちろん、ぼくが入った学校がそうだったのであって、すべてが、というのではない)もう少し、考えがあったら、この島を飛び出していたのに、と何度も唇を噛んだものでした。要するに「自分はそれだけの小器だった」という話です。その後は、ズルズルと流され続けて「老いの坂」に。いまは「坂道」を滑りに滑っているのです。これでもスキーは結構楽しんだんです、ひたすら直滑降で。「自由の猛禽になれ」たかどうか、何とも怪しい。

 ここ(右上)に、「倚りかからず」という作品を出しておきます。何年も前、ある機会に、茨木さんのこの詩集を編集者として担当した女性(Nさん)にお会いし、いろいろと話を伺いました。(多分、茨木さんの亡くなられた後だったと思う)

「ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい」、これはぼくにもぴったりの感覚だし経験だった。「自分の足で立つ」というのはぼくの出発点であり、社会生活の基礎になる姿勢(態度)でした。「倚りかからず」、というのは「自由であること」を失わないという意味でしょう。「安全地帯は危険だよ」といったのは古今亭志ん生さんでした。 

 いまごろどうして、茨木のり子か。まるで「虫の息」のような、やわな日常を「コロナ」が襲来した。ぼくは気の向くままに「自粛」したりしなかったり。気分次第で草刈りをし、猫と遊び、買い物に出かけ、十キロほど歩き、…。気ままなものよ、というのではありませんが、だれかれに迷惑をかけないように「注意して」生きている。つまり「自分の感受性ぐらい」であり「倚りかからず」に、ささやかに生きているというあかしを得たかったんでしょうね。(蛇足 魯迅についても駄文を書いておきたいですね)

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 自分は何者か

   祖父と孫の詩と歌

 「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」

 《 わたしが一番きれいだったとき / 街々はがらがら崩れていって / とんでもないところから / 青空が見えたりした 》

 茨木のり子は06年に75歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。

 ともすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。

 「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代にも希望も笑いもあると教えてくれる」

 沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間で荷物をまとめ、再び日本に渡った。

 15歳から2年、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り、東京芸大卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった」(朝日新聞・98/11/16)

 数年前に一枚のはがきを沢知恵(ともえ)さんからいただいたことがある。彼女の唄う日本の童謡を聴いて、いたくほれこんだので、感想を送ったのに対する返信でした。たったそれだけの話ですが、沢さんの歌はいつも聴いてきました。その祖父は金素雲さん。詩人で、日本の植民地時代に朝鮮の詩を日本語に訳して紹介したり、あるいは日本の詩人の詩を訳したりしました。

 彼の詩集『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を茨木さんは少女の時代から愛読していたそうです。茨木さんは50歳から韓国語(ハングル)を学習された。その後いくつかの韓国現代詩を訳し、また『ハングルの旅』というエッセーを書かれた。それを沢さんが読み、そこに祖父のことが書かれてあるのを見いだした。

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 05年、沢は茨木の死を歌にした、アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。

 「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」

 療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。 

 「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」

 茨木の訃報が届いたのは半年後の06年2月だった。(同記事)

 日本列島の上にはさまざまな外国籍の人がいます。昨年(2007年)末で215万人を越えています。総人口に占める割合は約1.7%で、十年前の1.5倍にあたる。

 沢知恵という歌手がどのよう思いや願いで生きているのか。外からは窺い知れませんが、彼女の歌を聴くと、国境も民族も遙かに越えた地点で、さわやかな歌声が響いているように感じられます。

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 二十年以上も前の「日記」のような雑文です。沢さんはこの時期、ぼくの住んでいた隣町に居住しておられた。記憶があいまいですが、いまは岡山県在住だと思います。直接お目にかかったことはないが、かみさんは大学の先輩後輩で、同窓会で会ったことがあるとのことでした。いまでは立派な芸術家(シンガーソングライター)で、さまざまな活動をされています。いまも瀬戸内海の国立ハンセン病療養所・大島青松園に通われていると思います。牧師だった彼女の父がやはり奉仕活動で青松園に行かれた関係だといいます(幼児だった彼女を連れて通われていた)。(今年は、いかれるかどうか)

 ぼくはときどきは彼女のCDを聴く。祖父の素雲さんの詩集や訳詩集も愛読してきました。母親も何冊か著作を持っておられます。面白く、しかも真剣に考えながら読んだ記憶があります。大きな病を託っておられたようでしたが、なおご健在であられるか。(https://comoesta.co.jp/profile/)

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