笑いは良薬、医者いらず

 (ぼくには「悪癖」がいっぱいあります。新聞の「コラム」を集めるのなんかはどうしようもないほど。昔は切り抜き帳を作っていたので大変だった。その後は、PCで安易に保存できるようになったので、悪癖は加速した。いったいどれくらいあるのか、見るのも嫌だ。そんなものでも悪いとばかりは言えなくもない。新聞は旧聞になってこそ、味が出ると納得したからです。(人間も同じか)「社説」は盲腸だと言いふらして虚仮にしたが、「コラム」は臍(へそ)で、まあ本体の「表裏(腹背)がわかる」くらいの便利さがある。数十年前には小新聞でセコイのを書いていたこともある。本日は「旧聞」に「旧著」です。ご照覧を)(「社説」の読者は、(それを書いた)筆者だけという噂もあるよ)

 「笑う門には福来る」といわれるように、笑いの効力は大きい。自分だけでなく周囲をも和やかにするほか、笑うことで免疫力が高まるなど健康への効能も指摘されている▼だが、気掛かりなデータもある。ある調査によると「最近は笑う機会が減った」という大人が増加しているという。パソコンや携帯電話のメールなど表情を必要としないコミュニケーションが増えた点を理由に挙げる声もあるが、そればかりではないだろう▼先に県内の小学校高学年の児童を対象とした作文コンクールの審査を担当した際は、ドキリとさせられた。テーマは「笑顔」。子どもらしいほのぼのとした内容を予想していたのだが、現在の社会に対する痛烈なメッセージも目立ったからだ▼「最近は戦争や殺害事件など私たちを怖くさせるものばかり。未来の人々には、笑顔という文字がなくなっているかもしれません」「兵士にされた子どもたちは、笑顔になることなく死んでいってしまうのでしょうか」▼このような児童たちの思いは胸に刺さる。ストレス社会でなかなか笑えない大人に加え、子どもたちも笑顔を率直に受け止めることができなくなりつつあるとすれば、由々しいこと。笑顔は元気の、そして希望のバロメーターであるはずだから▼幸い、「笑という字はすごいと思います。この一文字で何かが変わるかもしれない」と記した作文もあった。その通り。落ち込んだ時でも、心から笑うとふっと気持ちが楽になるから不思議だ。(秋田魁新報社「北斗星」・10/01/10)(註 このコラム、あまり面白くないね。失礼)

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 「わたしは十年ばかり前にハンス・セリエの古典的な名著『生命のストレス』を読んだことを思い出した。セリエはその書物の中で、副腎の疲労が、欲求不満や抑えつけた怒りなどのような情緒的緊張によって起こり得るということを非常に明快に示し、不快なネガティブな情緒が人体の科学的作用にネガティブな効果をおよぼすことを詳しく説明していた。

 それを思い出した途端に、当然の疑問がわたしの心に湧いてきた。では積極的、肯定的な情緒はどうなのだろう。もしネガティブな情緒が肉体のネガティブな化学反応を引き起こすというのならば、積極的な情緒は積極的な化学反応を引き起こさないだろうか。愛や、希望や、信仰や、笑いや、信頼や、生への意欲が治療的価値を持つこともあり得るのだろうか。化学的変化はマイナスの側にしか生じないのだろうか。

 たしかに、積極的な情緒を引き起こすということは、水道の栓をひねってホースの水を出すように簡単にはいかない。しかし自分の情緒をある程度までコントロールできれば、それだけでも病理学的にいい効果を生ずるかも知れない。不安の念をある程度の自信感で置きかえるだけでも役に立つかも知れない」(カズンズ『笑いと治癒力』岩波現代文庫。2001年)

 ノーマン・カズンズ(Norman Cousins)(1915~90)アメリカの最も高名なジャーナリスト。『サタデー・レビュー』の編集長を三十年にわたって務めた。また、広島の被爆女性25人をアメリカに招き、皮膚移植手術を受けられるように図った人でもあった。彼は1964年に重度の「膠原病(collagen disease)」に罹り、完治の確立は「五百に一つ」と診断されたほどでした。

 「もしネガティブな情緒が肉体のネガティブな化学反応を引き起こすというのならば、積極的な情緒は積極的な化学反応を引き起こさないだろうか」というカズンズの語るところはたしかです。肉体と心理と精神は一体であるからこそ、自分を卑下するより、自分を励ます方が生活の理にかなっているのです。「笑という字はすごいと思います。この一文字で何かが変わるかもしれない」という小学生は見上げた哲学者です。お見事!

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 いつごろからなのか。私たちの周りから“心のゆとり”が失われていったのは。取るに足りない事柄で、感情的にぶつかり合う▼駆け出し記者のころに、先輩から「遊び心も大事だぞ」と助言を受けたことがある。かつかつだと良い記事は書けない。遊び心=ゆとりがないと、自分が見えなくなると同時に、周囲への目配りや気配りができなくなる―という▼そのことを思い出させたのが、本紙教育面で連載された小野田正利大阪大教授の「イチャモンを超えて」。娘が同級生に針で刺されそうになった。担任は「他人の気を引こうとして、危害を加える悪い子だ」と説明するだけ▼母親はその少女と直接話し合う。危害行為に至る要因を把握し、少女の親と話し合った。その後、彼女は見る見る変わり娘の最高の友人になったという。おせっかいのようだが深い思いやりを感じた▼子どもだけではない。大人もそうだが、行為には何らかの理由がある。ある一面だけをとらえ「あいつは○」とレッテルを張りがちだ。だが、一度張ったレッテルをはがすのは相当な労力が要る▼かつて那覇市内の壮年が、深夜徘徊(はいかい)する少年たち一人一人と話し合い、エイサーを通して育成した。壮年は「ボルトも締め過ぎると亀裂が生じるのと同じでね」と語った。ゆとりを持ち多角的に見ることで違った解決策も見えてくる。(琉球新報「金口木舌」・09/12/05日)(註 小野田さんは「モンスター」の名付け親)

 多くの衆生は世のため他人のために生きているのではない。役に立たない(無駄な)ことはしないというのは、いかにも合理性をもった姿勢だと思われがちですが、事実はその反対ですよ。ムダ、不経済(道草だ)こそがもっと求められていい生き方の流儀だと思いたいのです。「役立たず」と他者を罵るのは、おのれこそ「役に立っている」という不遜(無根拠)な自惚れだし、「この無能め」という侮辱は、手前こそ「有能だ」という傲慢で、救いがたい意識の表明です。そんな意識が、おそらく国を滅ぼしたのではないですか。今もまた「傲岸不遜」が我が物顔で闊歩しているようですね。これが人の世の常です。

 役立たず、大いに結構、無能はなお結構と、真正の無能者であるぼくは怯(ひる)む様子がありません。遊び教の信者はまた、笑い宗の門徒でもあります。遊び心を不断に発揮する、「自称・有能者」を笑い飛ばす、こんな生き方こそなにかを生みだす。ナンセンスが存在しなければ、センスは手持無沙汰でしょうよ。