祖国にはあらざる国のことばより

 靴ぬぎてひとりたたずむすすき野のむこうは祖国ふりむけば日本

 詩(うた)わずにいられぬもの

 韓国人の私が歌っていると、「なぜ短歌でなくてはならないのか」と質問を受ける。それを問われると、正直なところつらい。私は多くの表現形式の中から特に短歌を選び取ったというわけではない。学生時代から『万葉集』の大らかなロマン性が好きで、啄木のストレートな生活臭が好きだった。図書室に行ってそれらの歌を書き写してゆくうちに、いつのまにか私も歌っていた。日本に生まれ育った身体には空気を吸うように短歌が入ってくる。

 そうして歌っているうちに、私のなかに沈潜していた民族が引き出され始めた。海を渡ってきた一世の父母。少女期に出会った民族というもの。その彼方に続く祖国への思い。日本と私たちのあいだに横たわる橋のない川。それでも川は流れる。泳げない私はどのようにしてこの流れをわたってゆけるのか。

 こんな歌には日本名が似合わなかった。ごく自然に私は本名になっていた。

    母の掌にわが掌かさねるたまゆらを日本の土が匂う哀しみ

  息の緒のかぎりたゆたい自転する人も地球もさだめにあれば

  いのちもつかぎりは思う母生(あ)れし朝鮮は届かざる白きふるさと 

  祖国にはあらざる国のことばよりもたねば唄うさまよいながら

 母国語ではない日本語しかもたない負い目に何度も傷つき、もうやめようと思いながら、詩(うた)わずにはいられずに今日まできた。(李 正子『ふりむけば日本』所収。河出書房新社、1994)

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  正子さんがこの文章を書かれてから四半世紀がたちました。こんな物言いは誤解されそうですが、あえて言えば、島社会の人が表わす「詩」や「俳句」や「短歌」、さらに言えば文章までもが、在日の文学者を突き動かす動機とは根本において異なる。それは(いろいろな意味を含めていうのですが)当然といえばそのとおりだと、ぼくは考えてきました。普段の生活ではまず思いも及ばないこと、ぼくは「在日」の友人と話す機会が割と多くありましたが、いつでも「日本人とは」という問題(刃)を突き付けられていたと感じていました。どうしてだろうと、今は言いたくありませんが、「在日」文学者の表現や著書には、ぼくたちを落ち着かせようとはしない何事かがあるのです。いつでも「中腰」を強いるような、座り心地の悪さ、それがぼくの「日朝問題」でした。それは、あえていうのですが、ぼくにはつねに欠かせない時間であり、空間でもあったというばかりでした。

 《 …民族側から「こんなこといまさら言ってほしくない」という声があった。日本人からも「抵抗を覚える本」だとして電話があった。(略)

 これから、韓国人の私は何を詩ってゆけばいいのだろうか。私は私の命を韓国人として全うしたい。そのために唄い続けたいのだ。生きてあることと民族、民族であることと日本、おのどちらも私には切り離せない。切り離せないもののなかで、私の短歌は育てられてゆくのだと思う。 

 詩わずにはいられないものから、何を詩うのかということへ、それは私があることへの私自身の問いである 》(同上)

 民族と出会いそめしはチョーセン人とはやされし春六歳なりき

 「チョーセン人チョーセンへ還れ」のはやし唄そびらに聞きて少女期は過ぐ

 少しばかり前から、父に渡日史を聞き始めた。なかなか口を割ろうとしないのを口説いて、仕事の合間に記録をとっているのだが、興味がつきない。

 父は一九一〇年、つまり韓国が併合された年に生まれている。九歳の春に「三・一運動」が朝鮮半島を覆い、故郷の晋州でも、南江を渡す船橋の上を大人たちが行進した。それを日本の官憲が阻止しようとするのを、意味もあまりわからないままに見ていたという。

 十九歳も終わろうとするころに、一枚の労働者募集の貼紙を頼りに海を越えた。以来、日本の一隅で、解放前後からその後々を見守ってきた。私の父もそうであるが、一世は往々にして口が重く、自身の背景も民族のことも伝えようとしなかった。それは、概して貧しく、生活に奔走していたためと言われてきたが、ほんとうのところはどうだったのだろう。

 解放前の時期、日帝は、一九二二年に第二次朝鮮教育令、一九三八年に朝鮮語・民族服の禁止措置をとり、一九三九年には創氏改名(この年はまた朝鮮人の強制連行があった)、一九四二年、官斡旋朝鮮人徴用令、一九四四年に朝鮮人徴兵令をしいた。

 こうしてみると、まずひたすら、皇国臣民であるべく生かされてきたことがわかる。狡猾な支配政策の下では、主体的に動くなどということは、かなわなかった。次に考えられるのは、一世は当初から永住すべく、日本の土を踏んだわけではなく、何年かたてば、帰還するのだという意志を秘めていたことである。

 「あれが一生の別れになるのだとは、とても思えなかった」

 と、釜山港(右写真)での肉親との別離を、父は今もそう述懐する。一世は祖国から引き離されたのであり、帰還に望みを抱きながらも、状況はなるばかりであった。日本が、朝鮮人を抱き込んで、絶望的な戦局をさらにつき進んだからである。(李正子「かぎりなく゛暑い夏゛」『ふりむけば日本』所収)

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  李さんの第一歌集「鳳仙花(ポンソナ)のうた」(1984年刊)から。

 半島(パンド)はるか越えきしものの息づきとおもいぬ父の背に触るるたび

 生(お)いし国異なる父と吾にして言葉にまどうさみしき時あり

 若き日は飯場人夫の父も病めば胸に抱けるほどの小ささ

 泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ

 国籍の壁越え得ねば去る君の弱さが憎しじっと目を伏す

 口ごもる母よりききて姉住むは「癩園」と知りきわれは二十歳

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「どこにいても、いつも少し違う私。朝鮮と私の違い。朝鮮と日本との違い。微妙で、だが大きいその違いをわかろうとするとき、つねに日本人の群れのなかにいた私を思い浮かべる。朝鮮人が密集する地域にいたならば、私は短歌をつくることにならなかったかもしれない。

 一人で歌い、考える。それは日本の風土と私のシーソーゲームである。過疎の地、上野の風土に育てられた私と短歌とのシーソーゲームである」(「ふりむけば日本」)

  「ひとりたたずむすすき野」の向かいは祖国と歌い、ふりむいたらあった日本に、いったいどれほどの思いを込めて住みなしてこられたのか。彼女の積み重ねられた歌集の重さや高さのうちに、「在日」のはざまに生きてきた感情も理性もともどもに息づいていると、ぼくは読んでいるのです。歌に託した希望や絶望もまた、正子さんのシーソーゲームのくりかえされる反復運動だったと思う。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。