「二つのことば・二つのこころ」(『ははのくにとの幻想婚』所収)

日本の大衆が自分自身の日常的思惟様式の欠陥にめざめるためには、在日朝鮮人からの打撃が必要である。私が負ってきた母国との断絶よりも深い傷そのものから、かりものの朝鮮らしさを超えた思想を生みだしてくれることがその一つだ。そのための試行錯誤が、日本人大衆の日常的思惟の世界に対する直接性である時期はなおつづくことだろう。大衆は異種分離ののちの無関心を贖罪だと感じているのだから。また同化の原理以外の対応を知らないから、目の前に立ちあらわれたものとの対応性がわからないぶきみさに、日本はさらされる必要がある。自分のもっていた発想法そのものをゆさぶられるという体験を意識にとどめたものは、敗戦後にやっとかすかに生じたにすぎない。

植民地体験に対する一般の日本人の罪は、戦前戦後を問わず、政治的には徹底した差別を行政化している国内で、なおくらしの次元では差別していないと感ずるはかない社会構造、精神構造をもちつづけている点である。それと格闘していない点である。どうもこの精神構造の特色は、二十世紀の核心部分が不明確というのか零だといえばいいのか、これがその核心だというものを指定できないところだとみえる。その内実となっているのは、わたしはあなたとおんなじ、あなたもわたしとおんなじだ、だからわたしもあなたもおなじで、つみはどこにもない、というふうに、いっさいの本質を無に帰結しうるところにある。つみのありようがない。それは一面からいえば権力に対する民衆の自衛法にはちがいない。支配権力はこの生活体にとどめをさすことはできないから、意見や行為の震源地がないのだから外からほろぼしようがないのである。そして誰でもくらしの次元ではここに加入することができる。
けれども支配の能力のこの運動体の法則性をあらゆる段階で他に利用することは容易である。特定の人間のあいだに同化の媒体や結合目的をあたえてやれば、それに対する責任の所在は不明のままに支配の目的へ近づけることができる。おそらくそうした能力は、このくらしの自衛運動体の要員となる要素を少なくとももっているものほど、やりやすいと思われる。というのも、アメリカが行なった日本の敗戦処理の方法を思い起こすからである。

こうした精神構造に対して、外来神をあたえるごとく安直に階級意識をもてということはいっそう罪ぶかい。階級意識を胸いっぱいかかえたあなたとわたしが、段々畠のようにならんで、自分たちの味方だと信ずるおなじ集団の支配能力の指令を待つからである。この精神構造は一代二代で超えることは不可能だ。他者との対立の視点を個人の発想の内側に定着させることは容易ではない。日本人の朝鮮問題は、やはり、日本自体を思想的葛藤の対象としたときにはじまるのだ。それ以外に朝鮮人を自分の発想の外に自立する存在だとして認識することができないからだ。われも問いかけ、かれも問いかける形を創りだすことがむずかしいからである。
朝鮮断章・わたしのかお
朝鮮について語ることは重たい。私は朝鮮慶尚北道大邱府三笠町で生まれた。生後十七年間、朝鮮でくらした。大邱。慶州。金泉。

私の原型は朝鮮によってつくられた。朝鮮のこころ、朝鮮の風物風習、朝鮮の自然によって。私がものごごろついたとき、道に小石がころがっているように朝鮮人のくらしが一面にあった。それは小石がその存在を人に問われようと問われまいと、そこにあるようなぐあいにあった。そしてまた小石が人々の感覚に何らかの影響をおよぼしているようなぐあいに、私にかかわった。
いや、そうではないのである。そのようなかかわり方にとどまっていたならば、加害者被害者の単純な対応図がえがけるだけである。
私は朝鮮で日本人であった。内地人とよばれる部類であった。がしかし、私は内地知らずの内地人にすぎない。内地人が植民地で生んだ女の子なのである。その私が何に育ったのか、私は何になったのか。私は植民地で何であったか、また敗戦後の母国というところで私は何であったか。(いや何であろうと骨身をけずったか。私は、ここで、このくにで、生まれながらの何であるという自然さを習慣的に所有していなかったのである。私は何ものであろうと、自分の力で可能なかぎりの生き方をした。まるで失った何かをうばいかえそうとでもするかのように)(同上)
〇 森崎和江 1927- 昭和後期-平成時代の詩人,評論家。 昭和2年4月20日朝鮮大邱生まれ。昭和33年筑豊の炭住街にうつり,谷川雁らと「サークル村」を創刊。のち「無名通信」を刊行。三池炭坑闘争に際し,大正行動隊に参加する。反権力の立場から民衆や女性の内面をえがきつづける。福岡女子専門学校卒。詩集に「さわやかな欠如」,評論に「闘いとエロス」,ノンフィクションに「からゆきさん」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)
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歴史を無視した場所で、ぼくたちはなにをいうのか、なにをいおうとするのか。隣国に対して、歴史を語らないで、ぼくたちはどんな主張ができるのか。どんな主張をしようとするのか。ぼくはたった一人の狭い範囲において、隣り合う国に対して島社会は「何をこのしてきたのか」、それを愚直に考えつづけてきました。なにか、判然としたものが生まれたとは言いませんが、自分を偽らないためにも学びつづけなければと思いなしてきたのです。
ぼくにはたくさんの「在日朝鮮人」(朝鮮は、全体(南も北も)としての、という意味です)の友人がいます。彼や彼女たちから、いろいろなことを教えられてきた。またこれまでにも雑文に書いたように「在日」の詩人や文学者にも多くを与えられてきた。森崎和江さんのように「朝鮮で生まれた日本人」からも学んできた。森崎さんは「贖罪」意識を今なお失っていない、それをバネにして生きてこられた稀有な人です。 「日本の大衆が自分自身の日常的思惟様式の欠陥にめざめるためには、在日朝鮮人からの打撃が必要である」
それもこれも、ぼくひとりだけでも歴史のなかで、島の先人たちと「同じ過ち」を犯さないように、人間(隣人)に対する敬愛の念を失いたくないという、きわめて素朴は感情を偽りたくないからであった。「歴史」離れをした段階で、人間は独断に走り、傲慢になり、自己中心主義のきわみに立つのです。いまこの地上では「自己中心主義」に寄りかかり、「独善」の毒をまき散らすきわめて多くの政治家が「君臨」(ほんの一瞬ですが)しています。この島社会も例外ではない。なぜか、「歴史」を侮辱しているからです。歴史の中にしか生きられない存在が、その空気(歴史は、ぼくたちには不可欠な空気です)を侮辱(無視)して生きられるはずはないのですが。

カントが言っていました、「君は愚かだ、もし空気の抵抗がなければ、もっと自由に飛べるのに、と考える鳩のように」と。ぼくは愚かな鳩になりたくはありませんね。
「私がやるべき仕事っていうのは、アジアの風土にごめんなさい、っていうことだったわけでしょう」(森崎『いのちの母国を探し続けて』)こういう人を「誠実味」に溢れているというのではないですか。
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