まっさらの頁があるのだ

 [大弦小弦]詩人の川崎洋さんの作品「存在」の…

《 詩人の川崎洋さんの作品「存在」の一節にある。〈「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ、と言え〉

 ▼一人ひとりはかけがえのない存在である。その死を無機質な数ではなく、命のぬくもりをまとった名前が大事なのだと説く▼ニュースは実名報道が原則だが、例外的に匿名にする場合がある。少年法が保護する未成年や刑事責任能力がない人、乱暴された女性らである。書かれる人の名誉やプライバシー、遺族感情を傷つけないかが考慮されている▼日本新聞協会で匿名報道をめぐる研究会があった。沖縄での痛ましい暴行殺人事件も取り上げられた。匿名によって、事件の「痛み」がかすむのではないか。落ち度のない被害者の名を伏せることが、逆に尊厳を傷つけることにならないか。議論となった▼深い悲しみや怒りで混乱する遺族の動揺を思う時、配慮する気がまさる。被害者の無念に寄り添い、存在を記憶に刻むには名前がよりどころになる。議論に一理あっても、実名か匿名か簡単に割り切れる問題ではない▼「平和の礎」に刻まれた名前を見れば、戦争に進む社会であってはならないと思う。自死遺族や心病む人、認知症の人らが近年、偏見を拒み存在を受け入れる社会を求めて名乗り出ている。「名前」の問題は社会のありようが深く関わる。難しさを痛感する。(宮城栄作)《沖縄タイムス:2016年6月10日)

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 いま、ネット上で生じた「SNS中傷」に起因すると思われる「一人の女性の死」が大きな問題となっています。ぼくは「スマホ」などを所持していない(触れたことはある)ので、細かいことはわかりませんが、要するに他人が「誹謗中傷」のかぎりを「匿名」で行うことの是非が問われているのでしょう。ネットの時代だから、なおさら問題の深刻さが拡散(拡大)されているのかもしれません。事件(複数人による「犯罪」です)に何かコメントする資格をぼくは持ち合わせていません。ひたすら「若くして死にいたった方」に哀悼の意を深く表するほかありません。

 「存在」という川崎さんの詩はどこかのブログで掲げておきました。デジタル万能に歯向かうことも背中を向けることも難しい時代、ぼくは苦々しく「無責任の時代」に孤立を好んで(仕方なく)、ようやくにして糊口をしのいでいます。数(匿名)は暴力です。その昔「数は力」、と政治力をいかんなく発揮した政治家がいました。戦争で言えば「兵隊」です。兵隊は個性を持たない、持ってはいけない。(政治もまた、一つの戦争、権力闘争です)物量になりきらなければ「戦い」にならないのでしょう。ただ今は「戦時」ですか。暗闇から「人を撃つ」時代に抗うすべを、どのようにして手に入れるか。

 昨日、かみさんと夕食を食べていると(そのときは、テレビをつけている、かみさんの趣味か)、「緊急事態」解除後(ぼくは、二度目の「宣言」はいらなかったと、今でも思っている。あるいは最初のも。島社会では「宣言」を出す段階で感染のピークは終わっていたから)のある電車の駅に(神奈川だったと思う)、「伝言板」が設置され、その前で一人の女性が号泣している場面が映し出されているのでした。事情は分からなかったけれど、「手書き」の生きた言葉に、彼女は心をゆすられたのだと思いました。「伝言板の再登場」は駅員の発想だったとか。

 これを「アナログ(形・長さ・回転角などの物理量で示す)」というらしい。それは時代遅れ(河島英五です)そのものと軽視され、あるいは邪魔者扱いを受けて、「デジタル(量を、段階的に区切って数字で表す)」によって、無理矢理にわき(隅)に追いやられているのが「いま」です。ぼくは「アナログ」結構じゃんという人間。田舎のあぜ道が「コンクリート」で固められたような、無機質な時代状況に、孤立や孤独を託つのが生きものです。ひとは、心のうちに「でんごんばん」を持って生きています。「詩」も「歌」もまた、そこに書かれた「でんごん」なんだね。「ひろし!読んだよ!」「えいご!聴いたよ!歌ったよ!」

 『子どもの詩』の編者である、立派なアナログ人間だった川崎洋さん(1930-2004)の、アナログそのものの詩に魅かれてきました。その川崎さんの詩(でんごん)をひとつ、ふたつ。

   これから
 
  これまでに
  悔やんでも悔やみきれない傷あとを
  いくつか しるしてしまった
  もう どうにもならない
  だが
  これから
  どうにかできる 書きこみのない
  まっさらの頁があるのだ
  と思おう
     それに
     きょうこの日から
  いっさいがっさい なにもかも
  新しくはじめて
  なにわるいことがある
 
   海がある
 
  海があるということは
  夜になって仄かな明るさを残す水平線が
  あるということ
  ふるさとのもうひとつ向こうにある
  ニンゲンの始源の生まれ故郷を
  いつも見晴るかすことができる
  ということ
  朝の渚で
  土製の小さな朱色の耳飾りを揺らし
  拾った貝を
  カズラとシダの茎で編んで籠に入れている
  縄文の少女達を思い描くことができる
  ということ
  千々に砕かれて波に光る太陽を見て
  向日性にこそ生の証を求めようと
  うなずくことができる
  ということ
  海があるということは
                          (『川崎洋詩集』水内喜久雄選・著、理論社。〇五年)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです