学校 あの不思議な場所

   ある一行            (茨木のり子)
 
一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行
  
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉
 
魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行
 
絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなことでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった
同じ訳者によって
 
〈絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!〉
 
というわかりやすいのもある
今この深い言葉が一番必要なときに
誰も口の端にのせないし
思い出しもしない
 
私はときどき呟いてみる
むかし暗記した古風な訳のほうで
 
〈絶望の虚妄なること 希望に相同じい〉
 
ハンガリーの詩人―ベテーフィ・シャンドル(1823~49)
               *竹内好訳
 (茨木のり子『倚りかからず』所収。筑摩書房、1999年) 

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 茨木さんの青春時代、二十歳前後は第二次世界大戦中・戦後でした。(この戦争で、日本は世界を相手に戦ったのです。「日本と世界」という、驚くべき構図で「日本」は「世界」のなかに入っていないんだよ)(上の写真は魯迅)

 《今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。

 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。(茨木さんは女学校の時、挺身隊だったかの「隊長」で、全員に向かって裂帛の気合で、全校生に「号令」をかけていた、得意のときだったともいわれた)

 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います》(立花隆ゼミ『調べて書く、発信する』インタビュー集「二十歳の頃」)(再掲です)

 《実は、この詩の種子は戦争中にまでさかのぼるんです。

 美しいものを楽しむってことが禁じられていた時代でしたね。でも、その頃はちょうど美しいものを欲する年ごろじゃありませんか。音楽も敵国のものはみんなだめだから、ジャズなんかをふとんかぶって蓄音機で聞いたりしてたんです。隣近所をはばかって。これはおかしいな、と。

 それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしいんじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじゃないかという疑問は子供心にあったんです。

 ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかったわけなんです。

 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをするっていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです》(同上)

 「絶望」からしか「希望」は生まれない。「虚妄な絶望」も「虚妄な希望」も麻薬みたいなものでしょう。「絶望」とは「希望」の別名です。(絶望したことのない「ぼく」は、これを口にすることはできない)

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 その茨木さんに「学校 あの不思議な場所」という詩があります。

 多くの人は学校や教師に対して「ちょっと間をおいた」あるいは「ズレた」感覚をもってつきあってきたんじゃないですか。学校と自分がピッタリかさなるというか、自分が学校で、学校こそが自分だという感じ方を経験された方はそんなにいるとは思えない。もしもいたら、ぼくはびっくり仰天してしまいます。なんとも不思議に思うはずです。(戦時中の茨木のり子は「ピッタリ」だった)

 全部を学校に預けてしまったら、そのとたんに自分は潰(つぶ)れてしまうという不信や不安の念(「ちょっと間をおいた」「ズレた」)をぼくはもっていたし、奇妙に思われるかも知れませんが、いまでももっている。学校に譲りわたせないもの、それは「自分の感受性」かもしれないし「自尊心」かもしれない。簡単に命令されたくないし、服従したくないという感覚のことですね。学校の餌食(えじき)になるのは許せなかった。学校に入って以来、ずっとです。

 このところなぜだか、茨木のり子さんがつづきます。われながら、よく読んできました。寝ても覚めても、というほどに、茨木さん(に限らず)を読んできました。どこがいいのか、と聞くのは野暮ですね。「みんな」というほかない。二十歳のときが「敗戦」というのは凄いことでした。他にもたくさんの「二十歳が敗戦」の人がいたにもかかわらず、やはり、のり子さんだけ(とはいわないが)でしたね。

 二連目の第二行ですね、「そうだったな」とおもったのは。そのあとは、ぼくとはちがう感覚です。ぼくは高校を卒業すると同時に、狭い土地(京都)を飛び出し、逃げるように異郷の地に来ました。そしてあろうことか「だいがく」に捕まった。「だいがく」がこんなによくない場所だったとは、一生の不覚でしたね。(もちろん、ぼくが入った学校がそうだったのであって、すべてが、というのではない)もう少し、考えがあったら、この島を飛び出していたのに、と何度も唇を噛んだものでした。要するに「自分はそれだけの小器だった」という話です。その後は、ズルズルと流され続けて「老いの坂」に。いまは「坂道」を滑りに滑っているのです。これでもスキーは結構楽しんだんです、ひたすら直滑降で。「自由の猛禽になれ」たかどうか、何とも怪しい。

 ここ(右上)に、「倚りかからず」という作品を出しておきます。何年も前、ある機会に、茨木さんのこの詩集を編集者として担当した女性(Nさん)にお会いし、いろいろと話を伺いました。(多分、茨木さんの亡くなられた後だったと思う)

「ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい」、これはぼくにもぴったりの感覚だし経験だった。「自分の足で立つ」というのはぼくの出発点であり、社会生活の基礎になる姿勢(態度)でした。「倚りかからず」、というのは「自由であること」を失わないという意味でしょう。「安全地帯は危険だよ」といったのは古今亭志ん生さんでした。 

 いまごろどうして、茨木のり子か。まるで「虫の息」のような、やわな日常を「コロナ」が襲来した。ぼくは気の向くままに「自粛」したりしなかったり。気分次第で草刈りをし、猫と遊び、買い物に出かけ、十キロほど歩き、…。気ままなものよ、というのではありませんが、だれかれに迷惑をかけないように「注意して」生きている。つまり「自分の感受性ぐらい」であり「倚りかからず」に、ささやかに生きているというあかしを得たかったんでしょうね。(蛇足 魯迅についても駄文を書いておきたいですね)

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 自分は何者か

   祖父と孫の詩と歌

 「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」

 《 わたしが一番きれいだったとき / 街々はがらがら崩れていって / とんでもないところから / 青空が見えたりした 》

 茨木のり子は06年に75歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。

 ともすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。

 「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代にも希望も笑いもあると教えてくれる」

 沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間で荷物をまとめ、再び日本に渡った。

 15歳から2年、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り、東京芸大卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった」(朝日新聞・98/11/16)

 数年前に一枚のはがきを沢知恵(ともえ)さんからいただいたことがある。彼女の唄う日本の童謡を聴いて、いたくほれこんだので、感想を送ったのに対する返信でした。たったそれだけの話ですが、沢さんの歌はいつも聴いてきました。その祖父は金素雲さん。詩人で、日本の植民地時代に朝鮮の詩を日本語に訳して紹介したり、あるいは日本の詩人の詩を訳したりしました。

 彼の詩集『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を茨木さんは少女の時代から愛読していたそうです。茨木さんは50歳から韓国語(ハングル)を学習された。その後いくつかの韓国現代詩を訳し、また『ハングルの旅』というエッセーを書かれた。それを沢さんが読み、そこに祖父のことが書かれてあるのを見いだした。

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 05年、沢は茨木の死を歌にした、アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。

 「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」

 療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。 

 「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」

 茨木の訃報が届いたのは半年後の06年2月だった。(同記事)

 日本列島の上にはさまざまな外国籍の人がいます。昨年(2007年)末で215万人を越えています。総人口に占める割合は約1.7%で、十年前の1.5倍にあたる。

 沢知恵という歌手がどのよう思いや願いで生きているのか。外からは窺い知れませんが、彼女の歌を聴くと、国境も民族も遙かに越えた地点で、さわやかな歌声が響いているように感じられます。

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 二十年以上も前の「日記」のような雑文です。沢さんはこの時期、ぼくの住んでいた隣町に居住しておられた。記憶があいまいですが、いまは岡山県在住だと思います。直接お目にかかったことはないが、かみさんは大学の先輩後輩で、同窓会で会ったことがあるとのことでした。いまでは立派な芸術家(シンガーソングライター)で、さまざまな活動をされています。いまも瀬戸内海の国立ハンセン病療養所・大島青松園に通われていると思います。牧師だった彼女の父がやはり奉仕活動で青松園に行かれた関係だといいます(幼児だった彼女を連れて通われていた)。(今年は、いかれるかどうか)

 ぼくはときどきは彼女のCDを聴く。祖父の素雲さんの詩集や訳詩集も愛読してきました。母親も何冊か著作を持っておられます。面白く、しかも真剣に考えながら読んだ記憶があります。大きな病を託っておられたようでしたが、なおご健在であられるか。(https://comoesta.co.jp/profile/)

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 まっさらの頁があるのだ

 [大弦小弦]詩人の川崎洋さんの作品「存在」の…

《 詩人の川崎洋さんの作品「存在」の一節にある。〈「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ、と言え〉

 ▼一人ひとりはかけがえのない存在である。その死を無機質な数ではなく、命のぬくもりをまとった名前が大事なのだと説く▼ニュースは実名報道が原則だが、例外的に匿名にする場合がある。少年法が保護する未成年や刑事責任能力がない人、乱暴された女性らである。書かれる人の名誉やプライバシー、遺族感情を傷つけないかが考慮されている▼日本新聞協会で匿名報道をめぐる研究会があった。沖縄での痛ましい暴行殺人事件も取り上げられた。匿名によって、事件の「痛み」がかすむのではないか。落ち度のない被害者の名を伏せることが、逆に尊厳を傷つけることにならないか。議論となった▼深い悲しみや怒りで混乱する遺族の動揺を思う時、配慮する気がまさる。被害者の無念に寄り添い、存在を記憶に刻むには名前がよりどころになる。議論に一理あっても、実名か匿名か簡単に割り切れる問題ではない▼「平和の礎」に刻まれた名前を見れば、戦争に進む社会であってはならないと思う。自死遺族や心病む人、認知症の人らが近年、偏見を拒み存在を受け入れる社会を求めて名乗り出ている。「名前」の問題は社会のありようが深く関わる。難しさを痛感する。(宮城栄作)《沖縄タイムス:2016年6月10日)

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 いま、ネット上で生じた「SNS中傷」に起因すると思われる「一人の女性の死」が大きな問題となっています。ぼくは「スマホ」などを所持していない(触れたことはある)ので、細かいことはわかりませんが、要するに他人が「誹謗中傷」のかぎりを「匿名」で行うことの是非が問われているのでしょう。ネットの時代だから、なおさら問題の深刻さが拡散(拡大)されているのかもしれません。事件(複数人による「犯罪」です)に何かコメントする資格をぼくは持ち合わせていません。ひたすら「若くして死にいたった方」に哀悼の意を深く表するほかありません。

 「存在」という川崎さんの詩はどこかのブログで掲げておきました。デジタル万能に歯向かうことも背中を向けることも難しい時代、ぼくは苦々しく「無責任の時代」に孤立を好んで(仕方なく)、ようやくにして糊口をしのいでいます。数(匿名)は暴力です。その昔「数は力」、と政治力をいかんなく発揮した政治家がいました。戦争で言えば「兵隊」です。兵隊は個性を持たない、持ってはいけない。(政治もまた、一つの戦争、権力闘争です)物量になりきらなければ「戦い」にならないのでしょう。ただ今は「戦時」ですか。暗闇から「人を撃つ」時代に抗うすべを、どのようにして手に入れるか。

 昨日、かみさんと夕食を食べていると(そのときは、テレビをつけている、かみさんの趣味か)、「緊急事態」解除後(ぼくは、二度目の「宣言」はいらなかったと、今でも思っている。あるいは最初のも。島社会では「宣言」を出す段階で感染のピークは終わっていたから)のある電車の駅に(神奈川だったと思う)、「伝言板」が設置され、その前で一人の女性が号泣している場面が映し出されているのでした。事情は分からなかったけれど、「手書き」の生きた言葉に、彼女は心をゆすられたのだと思いました。「伝言板の再登場」は駅員の発想だったとか。

 これを「アナログ(形・長さ・回転角などの物理量で示す)」というらしい。それは時代遅れ(河島英五です)そのものと軽視され、あるいは邪魔者扱いを受けて、「デジタル(量を、段階的に区切って数字で表す)」によって、無理矢理にわき(隅)に追いやられているのが「いま」です。ぼくは「アナログ」結構じゃんという人間。田舎のあぜ道が「コンクリート」で固められたような、無機質な時代状況に、孤立や孤独を託つのが生きものです。ひとは、心のうちに「でんごんばん」を持って生きています。「詩」も「歌」もまた、そこに書かれた「でんごん」なんだね。「ひろし!読んだよ!」「えいご!聴いたよ!歌ったよ!」

 『子どもの詩』の編者である、立派なアナログ人間だった川崎洋さん(1930-2004)の、アナログそのものの詩に魅かれてきました。その川崎さんの詩(でんごん)をひとつ、ふたつ。

   これから
 
  これまでに
  悔やんでも悔やみきれない傷あとを
  いくつか しるしてしまった
  もう どうにもならない
  だが
  これから
  どうにかできる 書きこみのない
  まっさらの頁があるのだ
  と思おう
     それに
     きょうこの日から
  いっさいがっさい なにもかも
  新しくはじめて
  なにわるいことがある
 
   海がある
 
  海があるということは
  夜になって仄かな明るさを残す水平線が
  あるということ
  ふるさとのもうひとつ向こうにある
  ニンゲンの始源の生まれ故郷を
  いつも見晴るかすことができる
  ということ
  朝の渚で
  土製の小さな朱色の耳飾りを揺らし
  拾った貝を
  カズラとシダの茎で編んで籠に入れている
  縄文の少女達を思い描くことができる
  ということ
  千々に砕かれて波に光る太陽を見て
  向日性にこそ生の証を求めようと
  うなずくことができる
  ということ
  海があるということは
                          (『川崎洋詩集』水内喜久雄選・著、理論社。〇五年)

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