もうひとつのふるさとへゆこう

 序詩                          尹東柱
 
 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを、
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。
 今宵も星が風に吹き晒される。      (伊吹郷訳)

 「二十代でなければ絶対書けないその清冽な詩風は、若者を捉えるに十分な内容を持っている。

 長生きするほど恥多き人生となり、こんな風にはとても書けなくなってくる。

 詩人には夭折(ようせつ)の特権ともいうべきものがあって、若さや純血をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をも惹きつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。

 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。

 一九四五年、敗戦の日をさかのぼること僅か半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死させられた人である」 (茨木のり子「尹東柱」『ハングルへの旅』に所収)

( 尹東柱 1917‐1945 ユン・ドンジュ: 朝鮮の詩人。1941年,延禧専門学校(現在の延世大学)をくり上げ卒業のあと,翌年立教大学をへて同志社大学に進学。1943年に思想犯の嫌疑で逮捕,2年の刑で福岡刑務所で服役中に獄死。1948年,生前に準備した詩集《空と風と星と詩》が遺稿として発行される。《序詩》《星を数える夜》《たやすく書かれる詩》《懺悔(ざんげ)録》などがよく知られている。)(マイペディア)

 もう一つの故郷
 
 ふるさとへ帰ってきた夜に 
 おれの白骨がついて来て、同じ部屋に寝転んだ。
 
 暗い部屋は宇宙へ通じ
 天空(そら)からか 音のように風が吹いてくる。 
 
 闇のなかで きれいに風化する
 白骨を覗きながら
 涙ぐむのは おれなのか
 白骨なのか
    美しい魂なのか
 
 志操高い犬は
 夜を徹して闇に吠え立てる。
 闇に吠える犬は
 おれを逐(お)っているのだろう。
 
 ゆこう ゆこう 
 逐われる人のように
 白骨にこっそり
 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。  (伊吹郷訳)

 「二十四歳の時の作品だが、三年先の死を予見しているような詩である。クリスチャンでもあった尹東柱の『もうひとつのふるさと』は何処を指していただろうか」(茨木・同上)

 茨木さんは還暦を過ぎてだったか、ハングルを学び始め、ついには韓国現代詩の翻訳をなしとげられています。また、金時鐘さんは2012年に「尹東柱詩集 空と風と星と詩 」を文庫で訳出されています。ぼくはくりかえし読んできたものでした。この稿ではお二人のものを使って書くつもりでしたが、何よりも早くから慣れ親しんでいた伊吹さんのものによりました。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)