兵器一つない日本にしたい

「子どもの詩」いくつも(その1)

  てんごくのおじいちゃん(蛯名 眸美・千葉・五歳)
 
  がいこつに なっても
  すきだよ
  こんど くるまで
  まっててね
  だいすき(堀込 愛子・埼玉・五歳) 
 
  おかあさんだいすき
  おとうさんだいすき
  なっちゃん(姉)だいすき
  たっくん(兄)だいすき
  じぶんもだいすき
  それじゃないといきていけないの
  森羅万象(大西 英恵 ・神奈川・中三)
 
  森羅万象
  人間の作った言葉
  ボクも含まれているのかな
   (ゴキブリの独り言)
  にゅうがく(山越 美佳・埼玉・小一)
 
  きょうね もうおともだちが
  ふたりできちゃった
  がっこうはおともだちを
     たくさんつくってくれる
  まほうをもっているみたいだね
  あたりまえのことが(佐藤 裕子・神奈川・小五)
 
  食べられること
  ねむれること
  学校へ行けること
  友達と遊べること
  家族と話せること
  大人が仕事をすること
  健康で安心なこと・・・・
  それは あたりまえだった
  それが幸せに変わった
  平成七年一月十七日
  阪神大災害が私に残したこと
  まめまき(金井 有希子・二歳)
 
  おにあそーぼ
  ろめんでんしゃ(山口 耕輔・青森・四歳)
 
  あーっ
    いいのかー
  でんしゃが みちを
  はしって                      
  いいのかー                      
   (函館へ家族旅行して、初めて路年電車を見て発見した 言葉だそうです)
  どうして(渡辺 あずさ・神奈川・六歳)
 
  ねえ おばあちゃん
  どうして
  あーちゃんのこと
  おこるおかあさんを
  うんじゃったの?
  春の風と(小川 貴子・神奈川・中一)
  
     冷たい風から
  春一番が吹くようになって
  むかしは ちょっとした風にも
  遊ばれていた私が
  この六年間で
  北風に立ち向かえるようになり
  ついでに 親にも逆らいながら
  小学校を卒業します
  そして 春の風と
  中学生になります  (以上、川崎洋編『こどもの詩』文春新書。平成十二年)(読売新聞連載)

〇 川崎洋(1930-2004)昭和後期-平成時代の詩人,放送作家。「母音」「詩学」に投稿し,昭和28年茨木のり子らと「櫂(かい)」を創刊。詩集「はくちよう」,放送詩劇「魚と走る時」などをかき,32年から放送台本を中心に文筆生活にはいる。62年詩集「ビスケットの空カン」で高見順賞。方言の採集などでも知られ,平成10年「日本方言詩集」「かがやく日本語の悪態」ほかで藤村記念歴程賞。放送作品で芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。74歳。東京出身。西南学院専門学校(現西南学院大)中退。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 川崎さんに『わたしは軍国少年だった』(新潮社、九二年)という本があります。「軍国少年だったころ」の日記の一節。

 「(一九四五年)一月七日 晴れ 本日 ルソン島リンガエン湾に上陸用舟艇百隻が上陸のすきをうかがっているとのこと。愈々重大になってきた。早く俺が甲飛(甲種飛行予科練生)に入って敵艦を片っぱしから轟沈させなくては。明日から学校だ」 

 「私は軍国少年でした。それが敗戦で一八〇度変わって平和憲法が制定されました。私は思います。奇跡的に手に入れることができた憲法で、人類にとってとてもいいものだと」

 「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい。そのことで、マイナス面があれば引き受けようと思います」ともいわれた。 五一年から没するまで横須賀に住まわれた。五三年、茨木のり子さんと同人誌「櫂」をつくる。その茨木さんの「自分の感受性くらい」という詩もまた、軍国少女だった、のり子さんの再生の苦しみが生みだした覚悟の詩でした。

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 もうひとつのふるさとへゆこう

 序詩                          尹東柱
 
 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを、
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。
 今宵も星が風に吹き晒される。      (伊吹郷訳)

 「二十代でなければ絶対書けないその清冽な詩風は、若者を捉えるに十分な内容を持っている。

 長生きするほど恥多き人生となり、こんな風にはとても書けなくなってくる。

 詩人には夭折(ようせつ)の特権ともいうべきものがあって、若さや純血をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をも惹きつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。

 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。

 一九四五年、敗戦の日をさかのぼること僅か半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死させられた人である」 (茨木のり子「尹東柱」『ハングルへの旅』に所収)

( 尹東柱 1917‐1945 ユン・ドンジュ: 朝鮮の詩人。1941年,延禧専門学校(現在の延世大学)をくり上げ卒業のあと,翌年立教大学をへて同志社大学に進学。1943年に思想犯の嫌疑で逮捕,2年の刑で福岡刑務所で服役中に獄死。1948年,生前に準備した詩集《空と風と星と詩》が遺稿として発行される。《序詩》《星を数える夜》《たやすく書かれる詩》《懺悔(ざんげ)録》などがよく知られている。)(マイペディア)

 もう一つの故郷
 
 ふるさとへ帰ってきた夜に 
 おれの白骨がついて来て、同じ部屋に寝転んだ。
 
 暗い部屋は宇宙へ通じ
 天空(そら)からか 音のように風が吹いてくる。 
 
 闇のなかで きれいに風化する
 白骨を覗きながら
 涙ぐむのは おれなのか
 白骨なのか
    美しい魂なのか
 
 志操高い犬は
 夜を徹して闇に吠え立てる。
 闇に吠える犬は
 おれを逐(お)っているのだろう。
 
 ゆこう ゆこう 
 逐われる人のように
 白骨にこっそり
 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。  (伊吹郷訳)

 「二十四歳の時の作品だが、三年先の死を予見しているような詩である。クリスチャンでもあった尹東柱の『もうひとつのふるさと』は何処を指していただろうか」(茨木・同上)

 茨木さんは還暦を過ぎてだったか、ハングルを学び始め、ついには韓国現代詩の翻訳をなしとげられています。また、金時鐘さんは2012年に「尹東柱詩集 空と風と星と詩 」を文庫で訳出されています。ぼくはくりかえし読んできたものでした。この稿ではお二人のものを使って書くつもりでしたが、何よりも早くから慣れ親しんでいた伊吹さんのものによりました。

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 丈高いカンナの花よ

 茨木のり子さんは大阪市生まれで、愛知県西尾市で育つ。詩人。(1926-2006)。昭和十八年、東京の蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校(今の東邦大学の薬学部)に入学。20歳で敗戦を迎えられた。

 戦争中、なんど東海道線に乗って郷里に帰られたことか。そこから生まれた一編の詩。題して「根府川の海」。

 小田原→早川→根府川→真鶴→湯河原→熱海とすぎゆく、その根府川を読んだ詩。(夏の盛りに咲くカンナ。ぼくは幾度も、この駅に降りたことがありましたが、真夏の記憶がない。花言葉は「情熱」「妄想」とも)

    根府川の海

東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
 
たつぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまつさおな海がひろがつていた
 
中尉との恋の話をきかされながら
友と二人こゝを通ったことがあつた
あふれるような青春を
リュックにつめこみ
 
動員令をポケツトにゆられていつたこともある
 
燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かつたふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在つた
丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
あゝそんなかゞやきに似た十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だつた歳月
うしなわれたたつた一つの海賊箱
 
ほつそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ツパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?
 
女の年輪をましながら
ふたゝび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこゝろを育て
 
海よ
 
あなたのように
あらぬ方を眺めながら……

 敗戦当時を回想して、茨木さんはつぎのように語られています。

 《今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。

 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。

 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います》(インタビュー「二十歳の頃」より)

 戦時中は「軍国少女」で、敗戦後はぱっと「民主主義者」になった自分。そんな浮薄な自身が情けなく許せないと、そこから生まれたのが「自分の感受性くらい」だった。一編の詩に託された、叱咤、覚醒の声音。それは半世紀にもわたって発せられていたのです。「わずかに光る尊厳の放棄」、それをこそ「自分で守れ」

 この持続する志(姿勢)に、ぼくたちは驚いてもいいでしょう。「自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います」という、茨木さんの「過ちの原点」から、すべて(戦後)は発しているにちがいない。まちいは人のつね、そのまちいをみずからの根っ子にしっかりと据えること。自らの過ちを自分に隠さないこと、それが「正しさ」の感覚を養い、方向を定めるのではないか、まちがいの記憶、それは導きの糸なんだとぼくは考えています。

 教育というのはどこにでもある。だが、たしかにあると誰しもが思っている学校にこそ、もっとも教育は欠けている。教育ではなく、反教育、つまりは強制や命令が教育の名によって好き放題に振る舞われているのではないか。

 いったい、なんのためだれのための教育か、茨木さんの経験にならって、それをこそ、ぼくたちは考えつづけなければならない。

〇 茨木のり子 詩人。本名三浦のり子。大阪府生れ。帝国女子薬学専門学校卒業。1953年川崎洋とともに同人雑誌《櫂》を創刊。ヒューマニズムに基づく批評精神を持ち,代表作〈わたしが一番きれいだったとき〉で戦時下の女性の青春を描いた。主著に詩集《対話》(1955年),《見えない配達夫》(1958年),《鎮魂歌》(1965年),《人名詩集》(1971年),《自分の感受性くらい》(1977年),《倚(よ)りかからず》(1999年),評伝《うたの心に生きた人々》(1967年),50歳ころからハングルを習得し,訳詩集《韓国現代詩選》(1990年)などがある。(百科事典マイペディアの解説)

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