医学と専門家の言説について

金沢大学のインフォームド・コンセント調査委員会の調査結果を報じる2006年1月18日の朝日新聞(石川版)の記事。 ぼくは三十年以上も、(身の程も知らないで)小さな看護学校に勤めていたことがあります。その関係でいわゆる「医療事故」に分類されるような事件や訴訟について調べたことがありました。驚くべき頻度で「事故」は生じていました。「医者にかかれば、命が危ない」と深刻に考えたことでした。

 《現在のように、治療法がないのに診断だけつくという期間は、案外長くつづくかもしれない。そこで告知の問題が起こってくる。発病してしまったガンの告知の問題もまだ完全には解決されていない。これは医学が進歩して診断や予後の予想ができるようになったために生じた問題である。発病したガンを本人にではなく家族に知らせるという慣行はいつどのようにしてできあがったのであろうか。これは、医学の進歩に人間がついていけなかった結果のように思えてならない。

 もし、誰でも自分の病気あるいは死を受容できるように訓練されている社会であったら、医師は迷うことなく本人に真実を告げるであろう。患者が受容できないであろうと疑うから、家族に告げるという事態が生じる。

 遺伝子診断ができるようになると、発病前に自分の将来の運命を知ることができるようになる。これは、現在のガンなどの告知よりもいっそう深刻な問題をふくんでいる。

 この場合には、原則として最初に告知を受けるのは本人であるということが重要であると私は思っている。本人の希望により、本人のみに告げられるべきであろう。他の人は、たとえ家族であっても遺伝子診断を依頼してはならないし、本人の許可なく結果を聞いてはならないと思う。

 そのためには、一人ひとりがもっと精神的に自立しなければならないし、死や病気について若いうちから真剣に考え、受容できるだけの精神力を養っておく必要がある。子供のころから、生物であるとはどういうことであるか、病や死をいかに受け入れるべきかという教育を家庭や学校でしなければならないのではなかろうか。医学の進歩に見合った人間の成熟、社会の成熟が望まれる。(中略)

 出生前に遺伝子診断ができるようになると、病気になる可能性のある胎児は抹殺されることになる。このような方法が普及してくると、障害児を生むことが罪悪のように思われるおそれがある。障害児、障害者やその家族に肩身のせまい思いをさせるようでは困る。

 しかしすべての胎児に遺伝子診断をするわけにはいかない。ダウン症の子供を産みやすい女性があるとは考えられているが、それ以外の女性でも、二〇代で一〇〇〇人に一人、三〇代で一〇〇人に一人の割でダウン症の子供を産む可能性をもっているデュシェンヌ型筋ジストロフィーのように、突然変異率の高い病気もある。これらの病気の子供が生まれることは、現在では完全には防げないのである》(柳澤桂子『遺伝子医療への警鐘』岩波現代文庫、2002)

 引用させてもらった書物が出版されたのはいまから二十年以上も前のことです。したがって、柳澤さんが杞憂していた状況はさらに深刻の度を加えているといわなければならない。今では、すでに遺伝子に関する情報が知悉されかかっている段階にあるのかもしれない。かなりの程度で解明が進んできたのは事実だからです。そこからいかなる結果が将来するか、おおよその見当はつきます。「進歩」というのは一直線ではありません。これは人間の感情や思考においても言えます。古い部分、つまり「古層」の上に「新層」が乗っかるわけで、古層はいつでも残るというより、それがなければ「新層」の根拠がなくなるからです。いつでもぼくたちは、新旧の感情や思考のせめぎあいで苦しむのでしょう。「世代間」の軋轢です。

 彼女はさらに指摘します。

 「欧米の書物もふくめて、人類遺伝学やヒト・ゲノムに関するものを読んでいると『社会にとって悪い遺伝子』という表現をよく目にする。しかし、個人にとって悪い遺伝子はあるかもしれないが、社会にとって悪い遺伝子という考えはあってはならないのではなかろうか。遺伝子プールの構造を考えれば、それはつねに存在するものなのである」(同上)

 かりに「社会にとって悪い遺伝子」という考えがあるとするなら、それは社会の考え方が悪いのであって、遺伝子ではないと明確にいわれます。ときには「優性思想」が勢いを増す場合があります。これもまた、人間存在の「古層」部分をなしているのでしょう。

「社会から差別感情をなくして、障害をもつ人にあたたかい手をさしのべることも、個人と社会の成熟のあかしであろう」と、ご自身が難病に罹患されているからこそ、実感が強く伝わってくるのです。

「あとがき」では、次のようにいわれます。

「科学を科学者だけにまかせておいてはならないと私は強く思う。科学者も、何がおこなわれているかということを一般の人に語る義務があるし、一般の人も、努力をしても、科学の分野で何がおこなわれているかを知る義務がある。お互いに努力して、取り返しがつかないようなことをしてしまわないように気をつけようではないか」

 まさに柳澤さんが指摘されているとおりだと思います。何ごとも専門家の独占にゆだねてはいけないと、だれしもが考えているでしょうか。無条件で頼ってもダメではないでしょうか。「素人のくせに」という言い草は、科学者も素人もともに不幸にならないために、ここらでご用済みにしたいものです。

 この瞬間に困難の渦中に置かれているぼくたちは、「新型コロナウイルス感染症」のさまざまな問題について、いわゆる「専門家」と称される人々の見立てがいかに多様(甲論乙駁)であるか、同じ人でも時間の経過とともに自論をどのように変化させてきたか、それを目の当たりにしました。何が正しいか、それは「だれにもわからない」という問題に対して、ぼくたちの取るべき姿勢(態度)はどのようなものか、それぞれがじゅうぶんに注意して考えなければならないでしょう。

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●5月22日0:00現在、PCR検査陽性者16,513例が確認されている。●PCR検査陽性者(国内事例16,339例、チャーター便帰国者事例15例、空港検疫159例)(厚労省HP)毎日のように、この数字を眺めるのですが、それが何を具体的に示しているのか、ほとんど参考にならないとさえ思ってしまう。(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#kokunaihassei

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〇 お断り これまでのコラム名「今週のことば」を「平談と俗語」という名称に変更します。なかみは代わり映えがしませんが。冬服から夏服への衣替えの類です。内容浅薄はいかんともしがたい。拙者は娑婆に未練を持つ身じゃありませんが、世相も世情も頓に悪辣至極になってきましたね。ネット(網状)栄えて、夜郎自大の季節は酣(たけなわ)というべきか。功罪もまた著しい。だからこそ、ひそやかに平談を俗語で。この作業もまた、ぼく自身の「自主トレ」用の練習台です。(20/05/24)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)