頭がいいってのは、なんだよ

 頭がいいってのは、なんだよ。足したり割ったりを覚えるだけではないか。それで人生を渡っていけると思うのかよ。会社に入ったって大事なのは計算ではない。人間関係でみんな苦労するんだ。会社をクビになっても生きていけるけど、家族と心が通わない、友人もいない、そんな人生になんの意味があるんだ。足し算引き算は学校で習うけど、人との付き合い方は親から学ぶものなんだよ。

 今の大企業の経営者も、頭はいいけど利口ではないのばかりですよ。計算はうまいけど、人の気持ちが読めない。だから間違うんだ。コマセを撒かないで魚を釣ろうってやつばっかりなんだよ。意味は自分で考えてくれよな。俺は解説したくない。俺はそこまで言いたくないよ。(岡野雅行・松浦元男『技術で生きる』)

 (こませ= 釣りで、撒(ま)き餌。また、それに用いる小魚など)(大辞林)

 岡野さんが85歳になる2018年に廃業するという。理由は後継者の不在だ。岡野社長は「跡取りがいないのは悔しい」と本音を漏らす。「会社は私の代でおしまい。跡取りがいないのは悔しいが、やりたいことはやったので未練はない」(読売オンライン・2019/02/20)この時点でも、岡野さんは現役続行中でしたが。彼の経験が教えるところには深いものがあります。

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 学校とは何だろう?

 上の引用文は、すでに何度か紹介した岡野雅行さんの「コトバ(啖呵)」です。墨田区の小さな町工場の代表社員(社長)。彼はどのようなことを言っているのか。また、学校教育をどのようなものとしてとらえているのか。

 教える、教えすぎる教師はくさるほどいる。でも、子どもにむかって真剣に質問する教師は驚くほど少ない。おおくの教師は自分では「質問している」とおもっているだけ。そのじつ、自分が作った「正解」をかくして「これはなんですか?」と聞く場合がほとんどです。答えを知っていながら(知らないふりをして)、子どもに「質問する」というのは子どもをみくびっている証拠です。そこには真剣さがみられない。

 そんなことばかり強制されると、出された問題には「正解はひとつ」で、それを「知っているのは先生だけ」だという日常生活ではありえない「神話」を子どもは信じこまされるようになる。どんな問題にも「正解はひとつ」などということはありえないのに、です。この不思議なからくりは教師の側の事情による。「正解はひとつ」ときめれば、採点はかんたんだし、それに対して文句をいう生徒がでないという安心感が生まれます。一種の権威主義から、さらにはご都合主義からの手抜きです。

 教師自身がわからないから質問するのです。子どもに質問したところで、まともに答えられるはずがないというのは子どもを見くだした態度だといわなければならない。わからない問題だからいっしょにかんがえるという誠意がなければ、子どもは教師にこころを開かないでしょう。真剣に問いつづけられるにしたがって、子どものかんがえるはたらき・ちからは伸びてきます。かんがえるはたらきをおさえるのはかんたんです。教師の知っている答えを教えればいい。正解を記憶させるのです。でも、その結果はおそろしいことになる。それを承知で教師は教えつづけるのでしょうか。

 どこにもある教室の風景は「教師が教え、生徒が聞く」というものです。学校では「教師は教え、生徒は聞く」がずいぶん長く広く行われてきました。教師の話す(板書する)内容が子どもの勉強の内容になっているのです。「いい教師」は熱心にしゃべる教師であり、「いい生徒」は従順に耳をかたむける生徒、それが通り相場になっているでしょう。いい教師といい生徒というけれど、それはだれにとって「いい」なのでしょうか。

 このような教室の風景(実情は殺風景)、それを「銀行型教育」と名づけた思想家がいました。パウロ・フレイレというひとです。「学校教育はおしゃべり病に罹っている」ともいいました。教師が一言も発しなければ、生徒の勉強は始まらないからです。教師の話す内容は細大漏らさず生徒によって「記録され(record)」「記憶され(recite)」「繰りかえされ(repeat)」るのです。教師は「預金者」で、生徒は「金庫」だというのです。生徒は入れ物とされている。与えられた役割を上手に果たせば、彼や彼女は「優等生」になれる。いい生徒であるためには、なによりも教師の話を素直に聞かなければならない。算数であれ国語であれ、どんな勉強においても「おしゃべりしないで」は子どもに対して要求されるのです。学校の勉強はしつけ、それも徹底したしつけになっているのです。国語もでも音楽でも、従順な人間を作るためのしつけそのものだといえます。

 教えるというのはどういうことか。「答えがわからないから、教える」それでなんの問題もなさそうですが、「教える」を「与える」と理解するなら、かんたんに与える、必要以上に与えるのがどんなに当人のためにならないか、世の中にその実例があふれていませんか。まちがえない、失敗しないように正解をあたえる。もらった側は、それを記憶するだけが求められます。それも試験が済むまでの間です。

 与えられる不幸というものを少しはかんがえたい。与えられることになれれば、かならず不満がでてきます。もらう一方だから、たまらないんですね。自分でなにかしたいのに、させてもらえない不満です。自分で、自分の頭で考え、判断することを放棄してしまえば、それはひとりの人間であることのかなりな部分を失ってしまうことになります。教えるが与えるで、それが教師の大事な仕事になっているところに子どもの不幸があるのではないでしょうか。もちろん、それは教師の不幸でもあるのですが。(写真左は「擬宝珠(ぎぼうし・ぎぼし・ねぎぼうず)と呼ばれる。岡野さんの父はこれをつくる名人だった、金型職人でした)

 「一番病」のクラスターか。母原病や医原病という言葉がつくられましたが、これにくわえて「校原病」を加えなきゃ。「頭はいいけど利口ではない」のを作りたいのが学校なのでしょうか。

 「意味は自分で考えてくれよな。俺はそこまで言いたくないよ」

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