学校は安全地帯か

 いったい学校教育の問題はどこにあるのか、あらためて素朴な疑問を提示しておきます。

 今あるような事態に学校教育が落ちこんだのはどうしてなのか。「なぜ競争原理が学校にもちこまれたのか」「成績や序列を偏重するのはなぜなのか」「個性ではなく画一性が求められるのはどうしてなのか」「学校には多くの問題があるにもかかわらず、いっかな変わらない理由はどこにあるのか」

 このような疑問をいだいたからといって、学校教育がよくなる気遣いはありません。しかし、問題の所在を明らかにするにはここからは始めるしかないと、ぼくはかんがえる。学校教育が変わるというのはどういうことをさしていうのでしょうか。ある時期を期して全国一律に変わるなどということはありません。よほどの強権を発動すれば、そういう事態が生じるかもしれませんが、そのような強権発動によって、現状がたちまちのうちに(いい方向に)変わるなどとは想像すらできない。「変わる」とは「よい方向に変わる」でなければ意味をなさない。「だれにとって、よい方向なのか」は「みんなに」とはいうまい。少なくとも多くの子どもたちにとって、そこは譲れないね。

 世のなかが変わるというのは、それを変えるという意識がなければ不可能であるのはいうまでもありません。でも世のなか全体の人びとの意識が同じようになるということはありえないから、それはきわめてかぎられた範囲の変革でしかないのです。日本劣島全域が集中豪雨に襲われ、あるいは豪雪で埋まってしまう事態は想像すらできません。豪雨に見舞われているとなりの地域では日が差していることさえある。ここでいう世のなかとは自らの生活世界、生活範囲のことで、そこをよく変えるためにはなにを自分はすべきか、それをかんがえることが自分の仕事となるのです。

 教師にとって授業を変えるというのは自分の授業をよりよく変えることをさします。もちろん、それが生徒にもいい影響を与えなければ、話にならないが。世の中が変わるというのもそれと同じで、自分にできる範囲で問題に対峙することでしかありません。身の回り一尺の世界を変えること、それが世のなかを変えることであり、世のなかが変わる端緒にもなるのだといいたいのです。(さらにいえば、「世のなかを変える」というより、世のなかについての「自分のかんがえを変える」といいたいのです)

 《教育改革者たちが共通して犯す誤りは、学校制度が社会的な真空のなかに存在しているかのように取り扱うことである。しかしイリッチはこのような誤謬は犯さない。かれはむしろ、現代教育の内部的な非合理性をより大きな社会全体の反映であると考える。…学校は従順で、操作しやすい消費者に仕立てるために計画された模範的な官僚機構のモデルである》(Gintis & Bowles『アメリカ資本主義と学校教育』(宇沢弘文訳・岩波書店刊) 

 学校教育はいかにも自明のシステムのようにぼくたちの前に存在しています。それはまるで「平然と命令を下す」(ミッシェル・フーコー)システムのようにおもわれます。髪の長さはどれくらいで、靴下は白色にかぎる。「宿題は忘れるな」、「手を洗え」などなど、よくかんがえれば根拠があやしい命令がのべつくりかえされます。はたして自明なのかどうか、ぼくたちはそれを疑うことをしてきませんでした。すべては「疑い」から始まります。

 学校がかざす規範や規則を受けいれれば、それだけ学校集団に適応したということになるのでしょう。決められた規則は無条件で守る、権威には逆らわない、このような行動様式をみずからのものにできれば、それだけ評価されるのです。そして学校が下すその評価がそのまま社会の評価に移行していくのです。(学歴社会とは、学校序列を無条件で受け入れる社会(集団)のことです)

 ここであらためて社会集団の特性とおもわれるものをあげてみましょう。

 第一に、集団が統一された秩序を維持するためには集団の目的をはっきりさせなければなりません。目的や関心が曖昧であれば、集団は内部から解体する危険にさらされるからです。第二に、はっきりした目的や利害をかざした上で、集団内で指導力を発揮するもの(リーダー)が選ばれます。

 第三に、集団における問題を察知し、つねにそれを取りのぞく必要があります。第四に、これがもっとも重要な点ですが、集団の価値観にメンバーが同化するための装置(仕組み)をいつでも用意するということです。

 いかなる集団においても、その集団で公認された価値を受けいれようとしない人びとは存在します。どんな場合でも対抗勢力が生みだされるのはさけられないのです。これは集団の規模や性格によっても変わらない宿命です。学校には「問題行動に走る生徒」はかならずいる。それを排除してもまた現れてきます。集団の大小にかかわらず、党中党、多数派に対抗する少数派が棲息する。それは多数派からみれば問題となるでしょうが、集団そのものにとってはあたりまえ(機能している証明)の現象だともいえます。

 一集団全体が同質化されるということはよほどの強制力がはたらかなければ不可能であり、また同質化を保持しようとすればするほど、異質な存在を生みだすことになります。これはモグラたたきだ。

 教育における同化と異化、この現象は集団教育(学校教育)にはかならず見られる作用です。同化ばかり、あるいは異化一点張りでは教育(学校)はなり立たないからです。これは親子の間でもかならず生じます。くっついたり離れたり。そのことをはっきりと悟って教師を続け、親であろうとする、これが大切な心構えじゃないでしょうか。(左写真は「危険な安全地帯」嵐電・京都)

 命令、忠告、脅迫も。それは親や教師の専売ではないし、そうあっては困るのです。しばしば「子どもに注意する」などと教師たちは宣(のたま)うが、おしなべて、それは注意などではなく、命令や小言である場合がほとんどです。(そんなに脅していいの?)

 ?何度でもいいますよ、注意は他人がするものではなく、自分で自分にするものです。それこそ、人間の道徳の第一歩ですよ。注意深い人間であろうとする心がけこそ、子ども自身が育てなければならない姿勢であり態度です。(何度でもいわなければならない」人間らしい生活を営むための根っこの姿勢です。 

 その昔、志ん生はしばしば言っていました、「おい、気をつけろ。そこは安全地帯だから」と。路面電車が健在だったころ、停留所(安全地帯)は道路の真ん中にあり、乗り降りするのにそこに立つ必要があった。車も軌道(道路)を並行して走っているので、よく大きな事故が起こっていたのです。同じように、「学校は世の中の真ん中」にある。(もちろん例外も)はたして学校は「安全地帯」か。災害に見舞われるとそれは「一時避難所」となるのが習いですが、あくまでも「緊急事態」だからのこと。日常生活において、子どもにとって学校は「セーフティゾーン」足りうるか。あるいは永続する「避難所」かな。どこからの?なにからの?

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです