「おとり」と「めとり」

越中おわら風の盆・富山市八尾で、9月1日から3日にかけておこなわれる(今年はどうか)。

 「日本では家が大切にされ、その家に血のつながりを持つものが尊ばれたのであって、他家からはいったものはやや低く見られる。世間も低く待遇するのである。したがって結婚して他家にはいらなければならない女の地位は低く見られることになる。

 だが、子どもができ、その子があとをとることになれば事情はかわってくる。世嗣(よつぎ)の親になるからである。

 しかし武家社会のように男中心の社会はともかくとして、男も女もともに働いた社会ではすべての女がみじめであったわけではない。女の相続権がかなりつよく見られたし、東北地方の奥羽山脈の両側にそうて姉家督(あねかとく)制度のあるところでは、家のなかで女が隠然たる勢力を持っている。

 これは長子が女であった場合、養子をもらって、女にあとをとらせる慣習であるが、宮城県栗駒町などでは姉にかぎらず、女の子はすべて家から出さず、養子を迎えて分家させているものが多いから、もともと母系的な色彩のつよいところであり、この地方の相続形式は栗駒式が旧来からのものであり、後にだんだん長男子相続へかわってきてそのなかへ母系的な姉家督が残存しているのではないかと思われる。」(宮本常一「女の位置」『女の民俗誌』所収。岩波現代文庫版)

 「明治の終わりごろまで、一般に女の地位はきわめて低いもののように考えられ、また若者たちの間には村の娘を管理する権利のようなものが存在した村も多いが、女はただ男の意志の自由になっていただけではなかったようである。男女の関係もそのはじめは女が男の気をひき、男の眼にとまろうとするような行為または儀式から出発している。踊りというのは本来そういうものではなかったかと思われる。

 大正時代、日本にいたロシアの学者ネフスキーは、踊りは男取り(おとり)だろうといったことがある。これは妻を迎えることをめとる(娶る)という言葉と対応する。日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それはもと男をえらぶためのものであったといっていいほど踊りにともなって情事が見られている。また多くの男が一人の女のところにかよっても、そのなかから一人の男をえらぶ自由は女の方にあった」(宮本常一「女の伝承」同上文庫所収)

 「この選択の自由は重要な意味を持っている。それによって女の運命がきまってしまうものだからである。そして自らの選んだものを大切にした。このことがあったからこそ女は家のよき伝承者たり得たのである。女を頑固なものにしたのもそうした自由意志がその最初にあったからである」(同上)

 宮本さんの指摘するところは、一方的に女は男に服従していたのではなく、いろいろな場面で「選択の自由」があったということです。どの男を選ぶか、どの家に奉公に行くのか、今からでは十分に理解できないことのようですが、以前ははるかに女に選択権が与えられていたらしい。

朝日新聞(05年9月29日)

 「盆踊り」は劣島の「夏の風物詩」といわれるような風情がありました。しかしその踊りにはさまざまな歴史が含まれていた。今ではそれはすっかり忘却されてしまいました。生活の中で必要とされない「事柄」はおのずから廃れます。「去るもの 日々に疎し」というのは人間ばかりではなかったのです。(ぼくにはとても懐かしい人である「ネフスキー」の名前が出てきました。かれは数奇な運命をたどったロシア出身の研究者でした。日本民俗学にも小さくない貢献をなした人として、もっと敬意と評価を払われていい存在だとぼくは考えています。いずれ、彼のことも書いておきたいと思います)

 「昔はさかんに離婚する風習のあったところが少なくなかった。とくに西日本に多かったが、離婚の経験を持つものにきいてみると、出されたのではなく、出てきたのである。『いやになったもの同士が一緒にいるのは道徳にあわんでしょう』と対馬のある老婆はいった」(「女の位置」)

 離婚する夫婦の数は、宮本さんの言われる時代と比較はできませんが、現在も決して少ないとは言えない。「出されたのではなく、出てきた」というのはいかにも旧家制度下の表現ですが、ともかく離婚するカップルの多さは何を語るのか、一考に値すると思われます。

(厚生労働省「人口動態統計(確定数)の概況」2018年)

 一方では、日本の女性、ことに農村や漁村の女性たちがもっていた伝承者としての性格やかしこさは、明治以降に学校教育が普及することによって失われてきたのだと、宮本さんはいわれる。戦後になってなによりも女性の解放が叫ばれたにもかかわらず、それとは反対に無口な女性が多くなったともいわれる。どうしてなのか。流れは逆になっていてもおかしくないのに、むしろ男に頼り、自分で選択できない女性が増えてきたとするなら、それは広く普及するようになった学校教育のせいだということになります。

 もちろん、いまでも男よりよほど強い権限を家の中で行使している女性も健在です。ボクのところなどはその典型かもしれない。よそのことはあまりしらないから、断定はできませんが。(「時代が変わる」といいます。だが、時代を変えるのは人びとであるのですが、その人々が時代によっても変えられるのですね)

(前列右から)柳田国男・ネフスキー・金田一京助 (後列左)折口信夫

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●ネフスキー ニコライ(英語表記)Nevskii Nikolai Aleksandrovich

国籍ソ連 生年1892年2月6日 没年1937年11月24日 出生地ロシア・ヤロスラブリ

学歴〔年〕ペテルブルグ大学東洋学部〔14年〕卒 主な受賞名〔年〕レーニン賞〔62年〕

 経歴1915年ペテルブルグ大学(のちのレニングラード大学)派遣の官費留学生として来日。民俗学者の柳田國男、折口信夫、伊波普猷らと親交を結び、日本文化、日本民俗学を研究。’17年のロシア革命のため帰国を延期し、’29年まで日本に滞在、小樽高商、次いで大阪外国語学校、京大などのロシア語講師を務める傍ら、日本各地を調査旅行し、東北のオシラ信仰、アイヌのユーカラ、沖縄宮古島のフォークロアなどに関する論文を「民族」その他の雑誌に発表。’22年北海道出身の萬谷磯子と結婚。’29年ソ連に帰国、レニングラード大学とレニングラード東洋学研究所の講師となり、日本文化研究、西夏語研究を続行したが、スターリンによる粛清の犠牲となり’37年10月夫妻ともに逮捕され、11月24日レニングラードで銃殺刑に処せられた。  

 死後’57年に名誉回復され、’62年には西夏文献学等の業績に対しレーニン賞を授与された。’90年長らく不明だった没年と没地がソ連誌に掲載された略伝により判明。’91年、14年に及ぶ日本滞在中に沖縄宮古島の方言を記録したノートのマイクロフィルムが、ソ連科学アカデミー東洋学研究所のL.グロムコフスカヤらにより早稲田大学図書館に寄贈された。邦訳書に「アイヌ・フォークロア」(北海道出版企画センター)がある。(20世紀日本人名事典の解説)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)