前車の覆るは後車の戒め

朝日新聞(大阪版)2016年10月4日。「せかいのかみやま」の「今」がどうなっているのか。「前轍」の戒めとはならないだろうか。劣島各地に死屍累々と「悪夢の跡」があるのですが。まあ、束の間の夢でいいから、と白昼夢を我も彼も。

 飽きもしないで、宮本常一さんを続けます。理由はいくつか。ぼくが彼をこよなく好きであるということ、さらには宮本さんは地べたを這うがごとくに、島の各地を踏査された「記録の確かさ」をぼくは認めているから、です。

 《工場誘致は戦後の税制改革から起こって来た現象である。工場誘致によって地方にも有利な就労の機会の生ずることは地方を活気あらしめるものとして喜ぶべきものであるかも知れない。また固定資産税がその町の財政を支えることになる。だが割安な労賃で労働者を雇い入れそれによって得た高い利潤は地元におちつくのではなく他へ持ち去られてしまうのである。そういうことを承知で地方政治家たちは工場誘致に狂奔するほど地方の資本力は枯渇しているのである。(中略)

 工場誘致だけではない。最近は観光設備に血の道をあげているところが少なくない。観光客が来さえすればその土地が発展するように考えてのことでるが、しかし観光施設ができて、地元の人でそこを利用し得るものは何人あるのであろうか。豪華な観光ホテルは都市から来た観光客のためのものであり、また観光客のおとす金は外部資本がもっていってしまう。(宮本常一「日本列島にみる中央と地方」1964年)

 このように書いて宮本さんは、これは戦時中に「外地」で見られた「植民地風景だ」といわれます。敗戦後の旧植民地は高い犠牲をはらって「植民地風景」を払拭するのに懸命であったのに対して、「戦後国内に伸びつつある植民地政策は地方民すらもこれを歓迎しようとしている」ではないか。国外においてとられた植民地政策は旧植民地の住民をいつも支配者の風下に位置させていたその反動で、怒りをもって独立にかりたてたのだったが、現実に生じている国内の植民地政策に対して住民が怒りを示す気配はない、とも。戦地の植民地政策を現に地方都市で実施しようとしている政府の政策を地方住民は「歓迎」さえしているのです。

 「その植民地主義によって地方在住民はいよいよ浮足だって行きつつある。そしていよいよ自主性を失いつつある」明治以来、政府がとってきた政策は地方の衰微をもたらせるものでしかなかった。地方を踏み台にして「今日の繁栄をつくりあげていったのだが、それに対して報いられることはほとんどなかった」というのが実態だった。

 宮本さんは周防大島という瀬戸内の島で生まれ育った。その島は交通の便が悪く、住民は日常の行き来に不自由していた。そこで、「国鉄バス」を導入してもらおうと陳情したら「小さい島のくせに、国鉄バスなどもってのほかだ」といわれた。住民は占領軍に頼むことをおもいついた。この島では明治十七年からハワイへの移民が行われており、占領軍には移民の二世が何人かいたのです。実際に陳情したところ、ひとりの二世が島に来て「この島から国税をどれだけ出しているか」「また国家からいくらの税金がこの島に投入されているか」と質問されたのに、だれもまともに答えられなかった。ようやくにして調べた結果、戦時中に県立高校の建物が国家から移管されただけで、はるかに国税を多く納めていたことが判明しました。

 そこで、国家投資が島の納税額よりはるかに低いのだから、「それは国家の政策的怠慢である」として申し入れてみよ、と教えられたとおりに陳情したら、「国鉄バス」が通じたというのです。とられるだけとられて、その見返りがなくとも、それに不満も不平も言わないように国民は押さえ込まれてきたのです。(JRバスは2007年9月30日で廃止)

 「植民地における文化は定着性のないのを特色とする。文化をもたらした支配者たちは定住性に乏しい。一方在住民たちにとっては自らが生みだした文化ではなく、支配者に強いられ、また真似たものである」( ここで一言。戦時中の軍幹部の八割もが「病気・事故等」で亡くなったのであって、戦死したのはごくわずかだった。兵隊は死ぬために戦争に駆り出されたのでした。「一将巧なり 万骨枯る」とは、まことに「戦死やあはれ」ですね)

 いつの時代にあってもみずからの根拠地(文化)を失いたくないという根源の要求を手放したくはない。

 《狭い家に住み、もまれる電車にのり、終日机に向かって事務をとり、夕方になれば帰っていく。家庭自体が甚だ不安定なものであり、日々の生活が枠にはめられたものであるとすると、これから三〇年五〇年の後にでき上がっていく人間像というものははたしてどういうものであろうか。広い鶏小屋を走りまわって餌をあさっている鶏と、バタリーで飼われている鶏とは解剖して見ると内臓がすっかりかわっているという。これからさきの人間の体質や思想にもバタリー的な要素が加わって来るのではなかろうか。新しい都市文化はすでにそういう人間を作り始めている。(右写真は養鶏用のbattery cage)

 文化のいたりつく終局がそういうものであっていいのだろうか。それは一種の人間の消耗品化である。

 人口の都市集中はこのままにしておいていいものであるかどうか。また収入がふえて、時間の余裕ができて、レジャーをたのしむ生活が幸福な生活というものであるだろうかどうか。あるいはまた新産業都市計画によって人口の地方分散は可能になるのであろうかどうか。マスコミとマスプロのこれほど発達した中にあって、はたして地方文化が発展していくものかどうか。これからさき地方の持つ意義はどんなに変わっていくものであろうか。それらについての検討はまだほとんどなされたことはない。ただ地方人口の減少だけが問題にされている。》(宮本常一「日本列島にみる中央と地方」昭和39年) 

 東京オリンピックが開催される直前の猛烈な普請ぶりをありありとおもいだします。いまから五十年以上も前に宮本さんが指摘した諸点はことごとくといっていいほどに、無惨な状況を晒すことになりました。地方は中央の「植民地」だとする傾向は急激に進んだのがこの時代以降でした。それを称して「高度経済成長期」ともてはやしていたのです、国を挙げて。しかしさらにおどろくのは、いまなお、その路線というか方向を必死になって突きすすんでいるといわなければならないようです。「劣島改造」は進行中です、無残な姿をさらしながら。どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ。

 「地方の時代」というのは、まるで「痴呆の時代」を思わせます。首長やその取り巻きが地方を食い物にし、その首長は東京と結託し、または中央から天下ってくるのですから、いつまでたっても、地方の衰弱はとどまるところをしらないのです。この状況を生み出し永続させてきた原因や理由はなんでしょうか。宮本さんは「国家資本の片寄り」だといいました。中央(東京)だけが投資の実権をにぎってはなさなかったからです。いうまでもなく、収税権も握って離しませんし、あろうことか「地方交付税」などと馬の鼻先に付けたニンジンのように、地方団体をなぶりものにしている始末です。今回の給付金も勿体をつける筋合いはまったくないのであり、納税者に戻すだけの話です。(ぼくは「税を納める」とは言わない。「税を取られる」のが現実ですから)

 「国家投資の地方的中心がいくつかつくられてよい筈である。今日の府県では単位が小さすぎる。むしろ府県の存在することが地方開発の障害にさえなっている」という。これまでも道州制がなんどか議論されかけましたが、最後には中央が実権をはなそうとしなかったゆえに、それはいつでも立ち消えになったのでした。「三割自治」の弊害が問題にされながら、いまもその不自然な事態はつづいています。

 陳情政治を打破し、国の門戸を四方にむかって開く。これしか地方も中央も共存共栄する道はないと、宮本さんは指摘しました。「地方の生産、文化が中央のおこぼれによって、それに追随して発展するのではなく、地方の自主的な力によって発展する対策のとられない限り、僻地性の解消はあり得ないと考える」(同上)まず実現の可能性はなさそうですが。

 奇しくも「東京五輪」は「東京コロナ」に様変わりしたのが現下(春から夏への能登半島ならぬ、島社会)の状況であり、感染者は、その多くが中央から地方へと分散?天下り?か、かくして拡散していきましたし、同様の事がさらに再現されるはずです。その政治体制は、内容においても仕組みにおいても、とどまるところを知らぬ頽落の一途です。

 ぼくは「日常の生活ぶり」においては進歩論も進化論も取りません。進歩でも進化でもない、あえて言えば、「深化」という、まったく別個の「機制」によって動かされているのだと思うのです。文化と文明という問題として、これを熟考しなければならない。主題は「さらになお、収奪される劣島」となるはずです。

 稿を改めて書かなければならないような重要な問題が、いくつもここに出てきます。「国破れて山河在り」はけっして戦争だけがもたらしたのではない。明治以降、ぼくが知っているのは「昭和三十年代」からですが、いったいどれだけ山野を荒らし、農地を荒廃させ、農村を破壊し、家族をつぶしてきたか。それは人心の破壊に直接関係していたからこそ、言葉を失うのです。おそらく、もう限界点をはるかに過ぎてしまった地点に、ぼくたちは茫然と立ち竦んでいるにちがいないのです。内からも外からも、痛めつけられて路頭に迷っているさなかに、ウイルスの無音の襲撃を受けているのです。ぼくたちは例外なしに「コモンズ(共有地)」というホームグランドを奪われた homeless 状態に置かれている。(●「共有地の悲劇」= 経済学で、多くの人の利己的な行動によって共有資源が枯渇すること。山林や漁場などの共有地(入会地(いりあいち))において、各自が適量を採取すれば存続できる資源も、自己利益のために濫伐・乱獲する者が増えれば枯渇し、共有地全体の荒廃を招くことから。コモンズの悲劇)(デジタル大辞泉の解説)

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 わかってくる態度

 「学問のすすめ」という短文において、作家の司馬遼太郎は興味深いことをいっています。

 《学問がある、というのは、知識があるということではない。私は語学の学校を出た。いまさらこんなことをいうのは恩師への誹謗になりそうだが、私が接した多くの語学教師は言葉の練達者であっても、べつに学問があるようなけはいはなかった。大工の徒弟が、カンナの削り方だけを教えられるようにして(つまり家の建て方は教えられずに)語学を学び、学んだところで知的要求がすこしもみたされず、ちょうど牢獄で、バケツを、あっちへもって行って水をすて、こっちへもってきて水を満たし、それを一日千回もくりかえしているような(囚人は発狂同然になるそうだが)作業であった。まったく、えらい目にあった。そういうにがい経験があるから、学問というのは知識とはちがうのだろうということで、多少の感覚はできた。

  学問というのは、態度なのである。》(司馬遼太郎「白石と松陰の場合―学問のすすめ」)

 六代将軍だった徳川家宣(いえのぶ)の政治顧問であった新井白石(はくせき)は一七〇九(宝永六)年十一月、江戸の茗荷谷(みょうがだに)の「切支丹(キリシタン)屋敷」でイタリア人宣教師シドチに会っています。鎖国時代に渡来したというので、禁を犯したかどで監禁されてしまった。その彼を白石が取り調べにあたったのは有名な話です。シドチはかろうじて日本語を話せたそうですが、だれにもその意味が通じなかった。しかし白石だけには彼のいうことがわかった。

 じつに奇妙な日本語だったが、それをじっと聴いているといくつかの法則らしい、いわば独特の調べ、特徴というものが存在することに気がついた。それをもとにして話を聴いていけば、自然に彼の日本語がわかってきたのです。(註 そこから「西洋紀聞」が生まれた)

 「このわかってくる態度というものが、学問であろう」と司馬さんはいいます。

 山口県の萩に生まれ、密航を企てたとして斬首の刑に処せられた吉田松陰(しょういん)(1830-59)。

 かれは一度も学校(藩校)に行かないで、十七歳で明倫館(藩校)の先生になります。いまならさしづめ、小・中・高・大学での教育を一切経験しないで、どこかの国立大学の教授になるようなものだったろうと司馬さんは驚嘆する。その短い生涯において、かれがとった学問の方法はまったくの「独学」だったといえます。そして、そのかなりな部分は「旅行」という学び方でした。旅に出て、多くの人に出会うことがかれの学問の内容であり方法であったのです。

 一年ほどの江戸遊学時代に四ヶ月もかけて東北旅行をはたしています。

 「松陰にとっての旅行はかれの大学のようなもので、たんなる遊山ではない。かれの文章にもあるように、この当時、東北諸藩の教養水準はきわめて高く、多くの学者がこの日本の僻陬(へきすう)の山河にすんでいる。…東北旅行は、松陰のみじかい生涯のあいだにあっては大学院の課程にあたるかとおもえるほどに収穫があった」(司馬・同前)

 日本の陽明学の開祖は中江東樹(とうじゅ)です。「わが門下に躰充(たいじゅう)とて、俊秀なる人ありて、平日疑問論難止むときなし」と、いつも師匠を質問攻めにしていたという。その「疑問論難」にむけて先生がていねいに応答して生まれたのが「翁(おきな)問答」(1649年刊)という書物でした。先生に対する「平日疑問論難止むときなし」いう弟子の態度もまた学問をなすものではなかったかとおもうのです。ここで使われている「学問」ということばは「生き方」の探求を指していたでしょう。

 先の短文を、司馬さんは次のように結ばれています。

 「この両人(白石と松陰)に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現がじつに明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問をうけ入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性かどうか、みごとにもっていた。学校教育という場は、学問にとって必要ではないというのは暴論だが、しかしかれらがもっていたこの態度をもたずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に、学校教育から離れた場所に身をおいていても、この態度さえあれば学問(その種類にもよるが)は十分にできるという例証になりうるのではないか」

●松下村塾=江戸末期、長門(ながと)萩にあった私塾。吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾を、安政3年(1856)から松陰が主宰し、高杉晋作・伊藤博文ら明治維新に活躍した多くの人材を養成。平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。(デジタル大辞泉)この小さな「学校」は江戸末期の「松下政経塾」のごとき位置を占めていました。というより、「松下塾」が松陰のひそみに倣ったというのが正解でしょう。両者は「雲泥万里」と言うべきですが。

 知的好奇心とは「疑問論難止むときなし」という姿勢であり、じっと耳を傾けているとだんだんに「わかってくる態度」というものだということではないでしょうか。(ぼくは松陰好きではありません。偏狭なナショナリスト。時代の制約はどうしようもありませんでしたが。彼についても少し雑文を書いてみたいですね)

 子どもも大人も含めて、人のもつべき大切な資質の一つは(ひとによってとらえ方はさまざまにちがいますが)、それは相手に対して質問しつづけることだと、ぼくは考えてきました。そんな人に対して、これまた疑問でいっぱいになった相手が出会うと、そこではどんなことが生じるのでしょうか。