次の一文は、民俗学者であった宮本常一(1907~1981)が著した『忘れられた日本人』に収められているものから一部を引用したものです。(何度目になりますか)昭和三五年に愛知県北設楽郡内に位置する名倉の地を宮本さんが訪れた際に土地の老人から聞いた話をまとめたのが「名倉談義」です。そこには、いまではまったくこわれてしまった村社会の姿や人間関係のありさまが眼前の事実として語られています。土地の古老、松沢喜一さんの語るところを聞いてください。


《小笠原のシウばァさんのつれあいは、敬太郎といいまして、子供のときこの家の子になりました。わたしがまだ生まれていなかったと思いますが、そのころ西三河の郡の方はひろみでありながら、よほど暮しのむずかしいところであったそうであります。それであまった子供をこの方へ連れて来る者が多うありました。敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれてやって来ましてな、方々の家へたのんであるいて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。
たのむといいましても、まあ、その家へいって「今夜一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕食を出して、しばらく話をしていると、そのうちみなそれぞれへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように一人でここにねせられるかもわからん。そう思うと、「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると、「いろいろ、おせわになりました」といって出ていくと、とめた方も別にこだわることもなく、「あいそのないことで」といって送り出します。

こうして家々へとまわってみて、親が気に入らねば、子供をあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々をあるいてみたが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの家には、私の祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕はんがすんでひときり話をして、みなへやへはいったが、モトばァさんが、「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙をながして喜んで、この家なら子供をおいていけると思うて「よろしくたのみます」といってかえったそうであります。それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。
敬太郎は大きくなって親もとへ挨拶にかえったが、ふるさとの者にはならず、この土地のものになりました。私も敬太兄ィといってなにごとにも力を貸してもらいました。はじめはこの屋敷に家をたてて分家したのであります。そうして、わたしの家を本家にして出入りしておりました。シウさんはこの上の加藤の娘で、なかなかのしっかり者でありましたから、二人でかせいで、いまの場所へ大きい家をたてたのであります。
この村にはもらい子が分家した者が何軒もあります。たいていは西三河の方から来たものでありました。もらい子の奉公人だからというて、むごいことをするようなことはなかったが、やしない養子には財産をあまりわけてやることはなく、跡つぎ養子には財産をゆずりました。

わたしの家は、この村では古い家でありますが、分家も出したことがなく、たった一軒だけで何百年ほどつづきました。ところがわたしの祖父にあたる富作という人には子がなくて、上から国吉という子を跡つぎにもらいました。ところがこれは大して読み書きもできません。子がないのだからどうせもらうならもう一人もらおうということになって田口からもらったのが米作という人で、これがなかなかよくできた人だと富作もこの方にかかることになりましたが、これが私の父親であります。しかし国吉も跡つぎにもらったのですから、財産をわけんわけにはいけません。六分と四分にわけて家をたてたのが、いまの貞登さんの家で、血はつながっていないが、親の代は親類としてつきあいました。
跡つぎ養子とやしない養子とは それだけの差がありました。親類というのは祝言や葬いのときによい役がつき、また仕事の手伝いあいをします。やしない養子が分家すると、仕事の上で本家をたすけることが多くなりますが、いまわたしのうちと小笠原はそういうことはありません。祝儀・不祝儀の手伝いあいはいたします。》
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宮本常一という人は生涯にわたって旅をつづけ、日本全国をじつにていねいに歩かれました。一年のほとんど半分を異境の地で過ごされたのでした。彼の記録によれば、昭和二五年には二七三日間も旅で過ごしたほどです。交通がいたって便利になった今日からは想像することができない、そんな時代に歩きつづけた宮本さんの踏査から生みだされ後世に残されたのは、ぼくたちが住んでいる社会の今にいたる歴史、つまりは、人間の生活・文化―それは人びとの生き方でもありました―というものが親から子どもへ、大人から未成年者へとたしかに受けわたされる、その実際の姿・形だったといえます。愛知県の名倉地方で出会った古老から聞き書きされた話に託されたのは、わたしたちには考えることすらできないような、その時代その地域の人びとに宿されていた感情の深さというものではなかったでしょうか。

ぼくたちの社会にはこんな思いをもって生きていた無数の人びと(庶民)がいたのだと、宮本さんはいいたかったのかもしれません。歴史の教科書に名前が出ることは絶対にありえない、そんな人間たちこそがこの国の歴史を作ってきたのだということに心を向けてほしい、と。そんな人びとのことを、彼は「忘れられた日本人」と呼んだのです。
『忘れられた日本人』には男女を問わず、多くの老人が登場します。日本各地の農・山・漁村に生き死にした、ほんとうに個性的な老人たち―昔の村社会の人たちはだれも似たような生き方をしていたのだから、その性格やものの見方も似かよっていると、ぼくたちは思いがちですが―生活の知恵に恵まれた、自立した老人たちがこの書物の主人公であるといっていいほどです。その「あとがき」に宮本さんは、この本を書く動機となったものについて、つぎのように書いておられます。
《この文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いてみたいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたしてきた役割を考えてみたくなったからである》
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ぼくたちはいま、少子・高齢化の時代(一面では、それは多くの人によって、あるいは望まれたものであったかもしれないのですが)そのまっただなかにあって、さまざまな問題に直面させられています。科学や技術が格段に進歩した今日において、教育・福祉・医療といった諸課題に対する有効な政策がかえってうちだせないでいるのはなぜでしょう。また物質的には、以前と比べようもないほどに「豊か」になったのに、老人や児童をはじめとする他者の人権を蹂躙するような事件が日常的に多発しているのです。いつの時代にもこのような事態が人びとを襲っていたとはいかにも考えにくいことでしょう。その一例として、「子ども」に向けられる前代社会(大人)の視線(眼差し)というものをあげてみたわけです。 『忘れられた日本人』が公刊されたのは一九七一(昭和四六)年四月。一九八一年一月三〇日に、宮本さんは亡くなられました。七四歳でした。
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