婦人には、三従の道あり

「女子に教ゆる法」

 《婦人は、人につかふるもの也。家に居ては父母につかへ、人に嫁しては舅姑・夫につかふるゆへに、慎みてそむかざるを道とす。もろこしの曾大家が言葉にも、「敬順の道は婦人の大礼なり」といへり。黙れば女は、敬順の二をつねに、守るべし。敬とは慎む也。順は従ふ也。慎むとは、おそれてほしゐままならざるを云。慎みにあらざれば、和順の道も行なひがたし。凡そ女の道は順をたっとぶ、順のおこなはるるは、ひとへに慎むよりをこれり。詩経に、「戦々と慎み、競々とおそれて、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如し。」、といへるは、をそれ慎む心を、かたどりていへり。慎みておそるる心もち、かくのごとくなるべし。

 婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三従の道と云事あり。是亦、女子に教ゆべし。父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。三の従ふ也。幼きより、身をおはるまで、わがままに事を行なふべからず。必ず人に従ひてなすべし。父の家にありても、夫の家にゆきても、つねに閨門の内に居て、外にいでず。嫁して後は、父の家にゆく事もまれなるぺし。いはんや、他の家には、やむ事を得ざるにあらずんば、かるがるしくゆくべからず。

 只、使をつかはして、音聞(いんぶん)をかよはし、したしみをなすべし。其つとむる所は、舅、夫につかへ、衣服をこしらへ、飲食をととのへ、内をおさめて、家をよくたもつを以って、わざとす。わが身にほこり、かしこ(賢)だてにて、外事にあづかる事、ゆめゆめあるぺからず。夫をしのぎて物をいひ、事をほしいままにふるまふべからず。是皆、女の戒むべき事なり。詩経の詩に、「彼(かしこ)にあっても悪(にく)まるる事なく、ここにあつてもいと(厭)はるる事なし。」といへり。婦人の身をたもつは、つねに慎みて、かくの如くなるべし。》

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 これは江戸時代の本草学者であり思想家でもあった貝原益軒(1630-1714)があらわした『和俗童子訓』(巻之五)の「女子に教ゆる法」の一部です。『和俗童子訓』は宝永七年(1710)、貝原益軒が八十一歳のときに書いたもので、江戸時代以降、一部階級(武家階級か)の女性の生き方をつよく特定するほどの影響力をもちました。これを種本にした『女大学』がただちに数種刊行され、後々に大きな陰影を残すことになったといえます。(本頁上部の写真参照)

 「女は陰性(いんしょう)なり。故に女は男に比ぶるに、愚かにして目の前なる可然(しかるべき)ことも知らず」「総じて婦人の道は、人に従うにあり」という徹底した男性優位性、女性蔑視観をこの社会に植えつけたのです。あるいは、既存の社会に厳然として根付いていた「男尊女卑」の慣習は風俗を、そのままの現実として書き表したともいえるでしょう。現実の姿を描写し、それが現実の状況をさらに深めるという依存関係にあったともいえるのです。

 明治になってからも「女大学」は猛威をふるい、同一内容のものが数十種も出版されたし、また「教育勅語」と「女大学」を結びつけた教科書「中等教科明治女大学」がなんと、加藤弘之と中嶋徳藏によって公刊(1906年)され、第二次大戦の敗戦時まで使われたのです。なかでも「良妻賢母」は普遍性を持った「女性像」であったし、その表現の根底には夫に対しては「良妻」であれ、子どもに対しては「賢母」たれと、女性自身の自己実現を省みられていなかったのです。「悪妻愚母」を奨励するのではありませんが、自分の足で立つ女性、それを強く願うし、そのためには経済的な自立は欠かせない条件だと、ぼくは考えています。いまもなお、その実現を阻む環境にあるのはどうしてですか。それを考えるのもぼくたちの世代の課題でした。

 明治以降に「女子教育」の振興をはかるために、各地に女子の教育機関が起こりました。その多くは今日の「女子大学」に至る歴史を紡いできたとも言えます。この島社会で、女性に大学の門戸が開かれたのは戦後になってかららでした。その根底には「女大学」流の女性軽蔑観が滔々と流れていたと想像しても、あながち間違いであるとは言えないとぼくは考えています。それでは明治も大正も昭和も遠くなり、平成でさえ過去となった現在、女性の地位はいかほどの浮き沈みを見せているのでしょうか。「女大学」の「大学」は学校じゃありません。儒教の経書(四書)の一つです。『論語』『中庸』『孟子』と並んでいるのが『大学』でした。まあ、教訓書といったところでしょうか。

 一見すると関係なさそうですが、ぼくはネットの画面を見ていて、やっぱりそうなんだなと痛感し、情けなくなったんです。国会の内閣委員会(15日)での法務大臣・森まさこさんの無様な晒されよう、でした。おそらくこれがボクシングなら「タオル」が投入されていたでしょう。任命権者は彼女を見殺しにしたといっていい。TKOどころかKOそのものだったと思う。おろかな勘繰りですが、男性大臣だったら、はたして、…。奴は「逃げ切れる」と考えているのでしょうか。「クズ」の専守防衛に地位か名誉か(両方か)をかけているのなら、恥ずかしい限りです。首尾よくいって「勲章」ぐらいなんだから。大臣の気持ちは超滅入り状態( dispirited)だろうよ。そこまでしても、やり甲斐がないですよ。所詮はクズとフジか。その心は、カットウ、それぞれが、目下「葛藤中」ですか。

 あらゆる事柄において、物事・人事(世の中の状況)は直線的には進まないようです。一歩進んで二歩下がる、ですか。

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● 貝原益軒=1630‐1714(寛永7‐正徳4) 江戸前期の儒者,博物学者,庶民教育家。名は篤信,字は子誠,通称は久兵衛。号は損軒,晩年に益軒と改めた。先祖は岡山県吉備津神社の神官で祖父の代より黒田氏に仕え,父は祐筆役らしく,その四男として福岡城内東邸に生まれた。幼少年期に父の転職で地方に移住したことや青年期の永い浪人生活が,後年〈民生日用の学〉を志す結果となった。壮年期に黒田藩に再就職し,京都に数年間藩費留学して松永尺五,木下順庵らの包容力に富んだ学風の朱子学者や,中村惕斎,向井元升らの博物学者と交際し,また元禄直前の商業貨幣経済の進展を背景として上方(京坂地方)を中心に起こりつつある経験・実証主義思潮を体認し,後年それをあらゆる方面に最大限に発揮させ,膨大な編著を残した。(世界大百科事典 第2版の解説』

●「女大学」=江戸中期以降広く普及した女子教訓書。貝原益軒(かいばらえきけん)あるいはその妻東軒(とうけん)の著とされてきたが、証拠はない。現在では益軒の『和俗童子訓』巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保(きょうほう)(1716~36)の教化政策に便乗した当時の本屋が通俗簡略化して出版したものとされる。現存最古の版は1729年(享保14)で、その後挿絵や付録をつけ多くの異版が出た。益軒の原文が結婚前の女子教育を17か条に分けて説いたのに対し、本書は字数を3分の1に減らし19か条に分け、まず女子教育の理念、ついで結婚後の実際生活の心得を説く。一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調される。益軒には敬天思想に基づく人間平等観があり、それが原文の基調となっていたが、『女大学』ではすべて捨象されている。明治に至り、『女大学』を批判し、近代社会生活における女性のあり方を説くものが、福沢諭吉(ゆきち)の『新女大学』(1898)をはじめとして数種出ている。[井上忠](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

 徳川時代の女道論で最も勢力のあった貝原益軒の「女大学」に対しては、幕末、明治初期の頃から、福沢は甚だ批判的で、常にその所説を駁撃してやまなかったが、この書において福沢は「女大学」の各条項を徹底的に批判し、併せて自己の立場からの「新女大学」を書いたものである。
明治三十二年四月一日から七月二十三日まで三十四回に亘り「時事新報」紙上に発表せられ、同年十一月菊判洋紙活字版の単行本として上梓された。(http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a53/117

 名倉談義 ~ 養子について

 次の一文は、民俗学者であった宮本常一(1907~1981)が著した『忘れられた日本人』に収められているものから一部を引用したものです。(何度目になりますか)昭和三五年に愛知県北設楽郡内に位置する名倉の地を宮本さんが訪れた際に土地の老人から聞いた話をまとめたのが「名倉談義」です。そこには、いまではまったくこわれてしまった村社会の姿や人間関係のありさまが眼前の事実として語られています。土地の古老、松沢喜一さんの語るところを聞いてください。 

 《小笠原のシウばァさんのつれあいは、敬太郎といいまして、子供のときこの家の子になりました。わたしがまだ生まれていなかったと思いますが、そのころ西三河の郡の方はひろみでありながら、よほど暮しのむずかしいところであったそうであります。それであまった子供をこの方へ連れて来る者が多うありました。敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれてやって来ましてな、方々の家へたのんであるいて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。

 たのむといいましても、まあ、その家へいって「今夜一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕食を出して、しばらく話をしていると、そのうちみなそれぞれへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように一人でここにねせられるかもわからん。そう思うと、「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると、「いろいろ、おせわになりました」といって出ていくと、とめた方も別にこだわることもなく、「あいそのないことで」といって送り出します。

 こうして家々へとまわってみて、親が気に入らねば、子供をあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々をあるいてみたが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの家には、私の祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕はんがすんでひときり話をして、みなへやへはいったが、モトばァさんが、「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙をながして喜んで、この家なら子供をおいていけると思うて「よろしくたのみます」といってかえったそうであります。それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。

 敬太郎は大きくなって親もとへ挨拶にかえったが、ふるさとの者にはならず、この土地のものになりました。私も敬太兄ィといってなにごとにも力を貸してもらいました。はじめはこの屋敷に家をたてて分家したのであります。そうして、わたしの家を本家にして出入りしておりました。シウさんはこの上の加藤の娘で、なかなかのしっかり者でありましたから、二人でかせいで、いまの場所へ大きい家をたてたのであります。

 この村にはもらい子が分家した者が何軒もあります。たいていは西三河の方から来たものでありました。もらい子の奉公人だからというて、むごいことをするようなことはなかったが、やしない養子には財産をあまりわけてやることはなく、跡つぎ養子には財産をゆずりました。

 わたしの家は、この村では古い家でありますが、分家も出したことがなく、たった一軒だけで何百年ほどつづきました。ところがわたしの祖父にあたる富作という人には子がなくて、上から国吉という子を跡つぎにもらいました。ところがこれは大して読み書きもできません。子がないのだからどうせもらうならもう一人もらおうということになって田口からもらったのが米作という人で、これがなかなかよくできた人だと富作もこの方にかかることになりましたが、これが私の父親であります。しかし国吉も跡つぎにもらったのですから、財産をわけんわけにはいけません。六分と四分にわけて家をたてたのが、いまの貞登さんの家で、血はつながっていないが、親の代は親類としてつきあいました。

 跡つぎ養子とやしない養子とは それだけの差がありました。親類というのは祝言や葬いのときによい役がつき、また仕事の手伝いあいをします。やしない養子が分家すると、仕事の上で本家をたすけることが多くなりますが、いまわたしのうちと小笠原はそういうことはありません。祝儀・不祝儀の手伝いあいはいたします。》

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  宮本常一という人は生涯にわたって旅をつづけ、日本全国をじつにていねいに歩かれました。一年のほとんど半分を異境の地で過ごされたのでした。彼の記録によれば、昭和二五年には二七三日間も旅で過ごしたほどです。交通がいたって便利になった今日からは想像することができない、そんな時代に歩きつづけた宮本さんの踏査から生みだされ後世に残されたのは、ぼくたちが住んでいる社会の今にいたる歴史、つまりは、人間の生活・文化―それは人びとの生き方でもありました―というものが親から子どもへ、大人から未成年者へとたしかに受けわたされる、その実際の姿・形だったといえます。愛知県の名倉地方で出会った古老から聞き書きされた話に託されたのは、わたしたちには考えることすらできないような、その時代その地域の人びとに宿されていた感情の深さというものではなかったでしょうか。

 ぼくたちの社会にはこんな思いをもって生きていた無数の人びと(庶民)がいたのだと、宮本さんはいいたかったのかもしれません。歴史の教科書に名前が出ることは絶対にありえない、そんな人間たちこそがこの国の歴史を作ってきたのだということに心を向けてほしい、と。そんな人びとのことを、彼は「忘れられた日本人」と呼んだのです。

 『忘れられた日本人』には男女を問わず、多くの老人が登場します。日本各地の農・山・漁村に生き死にした、ほんとうに個性的な老人たち―昔の村社会の人たちはだれも似たような生き方をしていたのだから、その性格やものの見方も似かよっていると、ぼくたちは思いがちですが―生活の知恵に恵まれた、自立した老人たちがこの書物の主人公であるといっていいほどです。その「あとがき」に宮本さんは、この本を書く動機となったものについて、つぎのように書いておられます。

  《この文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いてみたいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたしてきた役割を考えてみたくなったからである》

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 ぼくたちはいま、少子・高齢化の時代(一面では、それは多くの人によって、あるいは望まれたものであったかもしれないのですが)そのまっただなかにあって、さまざまな問題に直面させられています。科学や技術が格段に進歩した今日において、教育・福祉・医療といった諸課題に対する有効な政策がかえってうちだせないでいるのはなぜでしょう。また物質的には、以前と比べようもないほどに「豊か」になったのに、老人や児童をはじめとする他者の人権を蹂躙するような事件が日常的に多発しているのです。いつの時代にもこのような事態が人びとを襲っていたとはいかにも考えにくいことでしょう。その一例として、「子ども」に向けられる前代社会(大人)の視線(眼差し)というものをあげてみたわけです。  『忘れられた日本人』が公刊されたのは一九七一(昭和四六)年四月。一九八一年一月三〇日に、宮本さんは亡くなられました。七四歳でした。

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