円満にいったのでしょうな

 愛し合っている若い男と女が、親が許してくれないので駆け落ちして、村からかなりはなれた在所に身をひそめた。この在所では二人を大事に守って仕事も与えた。そのうち親の方が折れたので、二人は郷里の村へ帰っていった。そして生活も安定し、子どもも何人もできた。この夫婦は駆け落ちさきの村人の情が忘れられず、毎年農繁期になると手伝いにいった。そしてそれが四〇年あまりもつづいているという。対馬できいた話である。

 その話をきいてから二、三年もたったころ、愛知県三河の山中をあるいていてその話をしたら、そういう話ではないが私にも思い出があると八〇すぎの老女が話してくれた。その老女は一五の年にその村へ嫁に来たそうである。嫁入りさきの家はそのころ人手不足で困っていた。戸主は女房を失い、年寄りはおらず一八になる息子を相手に田畑をつくっていたのである。仲のよい馬喰(ばくろう)がそれを見るに見かねて息子の嫁を世話しようといって方々へあたってみた。そしてその村から東へ一里半ほどさきの村で一五になる娘を見つけ、その親には奉公に出すと思って、しばらく貸してくれといってこの家へ連れて来た。

『宮本常一が撮った昭和の情景 』(上・下)(毎日新聞社刊、2009)より

 そしていつの間にか一八の息子と夫婦のいとなみもするようになって、そのまま月日がすぎ子どももできた。貧しくはあったが、夫がいつもやさしくしてくれた。それに舅(しゅうと)がよい人であった。結婚式らしいものをしたのは子どもができて、実の親のところへ見せにいったとき、まず嫁入りさきで祝ってくれ、たくさん餅をついて、それを夫とかついで子どもを連れて帰ると、里でもにぎやかに祝ってくれた。そのときのうれしさはいまも忘れることができない。そのことがあってから、郷里の娘を嫁入りさきの村の嫁に世話するようになった。そうした女が一〇人あまりいる。こちらからも嫁にいく。私が嫁に来るまでは、何ら行き来のない村であったが、いまは村同志が親類のようになっている、とその老女は話してくれた。男と女のこまやかな愛情がもとになって、婚域がひろがっていった話はもとはずいぶんあったようである。

 三河山中できいた話とそっくりの話を下北半島の西海岸でもきいたことがある。母親が死んで人手不足で困っているが、嫁に来るものがなくて困っていた一家がある。下北半島の西海岸は漁業が盛んでとれた魚は塩物や干物にして、それを川崎船という運搬船に託して津軽へ持っていって金にして生活をたてていた。あるとき嫁がなくて困っている家のものが川崎船の船頭に津軽のあたりに嫁に来てくれるような女はなかろうか、と話したが、話はそれだけのことだった。ところがあるとき、親子で山の畑へ仕事にいっていると、川崎船の船頭がやって来て、女を連れて来たから帰ってみるがよいといいすてて立ち去った。家へ帰ってみると、見知らぬ女が台所で仕事をしている。そこでいろいろ指図して夕飯もつくってもらった。何とも奇妙な出逢いであった。さて寝ることになったが、女の分の布団はないので若い男は自分の布団で一緒に寝た。それで円満にゆきましたか、ときいたら、いまはすっかり年寄った男の方が、

 「円満にいったのでしょうな、いまもこうして一緒にいる」

 と老女をふりむいた。下北の西海岸にはこのようにして津軽から嫁に来た女が多かった。そうした女たち何人かにきいてみた。男と気が合うておりさえすれば、どこに住んでも同じことだという。

 このような話はこれだけではなくてもっと広く各地できいている。そしてそれによって男女の婚域はひろがっていったことが大きかったのではないかと思う。明治の初めごろまでは婚域はきわめて狭いものであり、なかには一村のうちにかぎられていたという例も多い。それが次第にひろがって来たことの理由の一つに男女の愛情の問題があったと思う。

 しかもいまこんなことを思い出したのは近ごろ農村に嫁がないということばが流行語になっていることからで、嫁を狭い地域のなかから求めようとしたり、結婚がより打算的になって愛情よりも打算が先行するようになったためではないかと思う。田舎をあるいていると、実にこのましい老夫婦に逢うことが多い。両方ともいい顔をしている。そして共にいたわりあっている。基礎になっているものは本当の愛情だと思う。と同時に女を強からしめたのもこうした愛情ではなかったかと思う。

 新聞も雑誌もテレビもラジオもすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか。その平凡だが英知にみちた生活のたて方がもっと掘りおこされてよいように思う。当節はすべて演出が多く、芝居がかっていすぎる。(宮本常一「文化の基礎としての平常なるもの」『女の民俗誌』所収。岩波現代文庫版)

 引用した文章(昭和五六年に執筆された)はいかにも宮本さんらしい「結婚」論で、ぼくたちの社会の昔には、さまざまな結婚の仕方や家庭の仕組みが存在したことを教えられます。このようなことを調べていけば、ぼくたちが考えている以上に、女性は力を持っていたり、自由であったりしたことがわかるにちがいありせん。過去は、もう一つの未来でもある。歴史は過去との対話とある西洋の賢人はいいましたが、それは別の意味で「未来」との対話でもあるのですね。

 宮本常一(みやもとつねいち)さんは明治四十(1907)年、山口県で生まれました。師範学校を卒業しましたが、その後全国各地を歩き、日本の文化の足跡を訪ね、人々をの生活・文化をていねいに調べられました。昭和五六(1981)年に死去。宮本常一著作集(全50巻・未来社)をはじめ、膨大な数の著作が残されました。

 ぼくは柳田国男(右写真)というひともよく読んだといえますが、宮本さんのものは独特の香気というか肌触りといったものが強く感じられました。その違いはお二人の気質によるのでしょうが、さらにさかのぼれば、気質をはぐくんだ生育環境にたどり着くでしょう。いい悪いではなく、生まれも育ちも含んだ「人柄」というものが外に現れるのだと思います。(ぼくはもう六十年も前の姉の「婚礼の日」のことを鮮烈に覚えています。「方違え」をして生家を出、…。この方位を忌む風習の始まりは平安時代、「陰陽道」でした。この古い慣習が、ぼくの眼前で行われているのに驚愕したのでした)

 もっとぼくたちの足元の歴史(生活の範囲)を知る必要があるでしょうね。そんなことを教えてくれた、宮本さんの写真のお顔はいつでも「笑い」に溢れたような、「破顔」そのものの、にこやかな表情で、ぼくはいつでもその温和な物腰に魅かれてしまうのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。