お前の方が「アウトサイダー」だ

 《ふつう逸脱というレッテルを貼られた場合に生じるもうひとつの反応は、「彼(彼女)にたいして何かがなされるべきだ」という気分が共同体の中に生じることである。われわれの社会におけるこうした反応に関するおそらく最も重要な点は、ほとんどすべての手段がもっぱら〈逸脱した当人〉に対してのみ講じられることだろう。処罰・リハビリテーション・治療・強制、その他社会統制のありふれた手段が彼(彼女)に対してほどこされるが、これは逸脱の原因はレッテルを貼られた個人のなかにあるということを意味している。彼(彼女)に何らかの措置を講じることで、彼(彼女)が示している問題は解決されうると考えられているのである。

「休業前は『何でまだ開けているんだ』と電話があり、再開したら『何でもう開けたんだ』と。宣伝すると嫌がらせを受けてしまう」
 県内で店舗を展開するスポーツジムの広報担当者はやりきれない様子で現状を語る。会員は再開を喜んでくれるが、そうでない一部の人たちからは非難する声が届く。(河北新報・20/05/10)

 これは奇妙なことだ。逸脱に関する社会科学的研究を背景にしてこの点を考えてみれば、とりわけそう言えよう。そうした研究がはっきり指摘しているところによれば、だれに逸脱のレッテルが貼られるのかとか、どのようなふるまいが逸脱にあたるのかが決められるときに決定的な役割をはたすのは通常の人々なのである。こうした研究は、レッテルを貼られる人だけでなく、貼る人にたいしても矯正手段が向けられるのでないならば、どんな矯正手段が用いられようとも意図するような成果はあがらないということを示している》(ロバート・A・スコット)

 「感染者」に対する社会集団内の他の人々の望ましくない行為、いやさらにいえば犯罪に等しいような行為があちこちで見られる。嘆かわしい風潮であり、法律的にも何とかしなければと考えられても、こうすればいいという決定打が見られません。「ヒトのうわさも七十五日」といってみたり、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」と言い含めたり。時間がたてば、減少は消えてしまうのでしょうか。でも同じようなことがくり返し生じているのです。人は変われど、加害者は不特定の様相を見せては、被害者は小さくならざるを得ないのです。

 《あらゆる社会集団はいろいろな規則をつくり、それをその時や場合に応じて執行しようとする。社会の規則は、さまざまな状況とその状況にふさわしい行動の種類を定義し、個々の行為を『善』として奨励し、あるいは『悪』として禁止する。ある規則が執行された場合、それに違反したとおぼしい人物は、特殊な人間 ― 集団合意にもとづくもろもろの規則にのっとった生き方の期待できない人間 ― と考えられる。つまり彼は、アウトサイダーと見倣されるのである。

 しかし、こうしてアウトサイダーのレッテルを貼られた人間が、そうした事態に対して、まるで異なった見方をすることもありえよう。彼(彼女)は自分がそれによって判定された規則を承認していないかもしれず、また、自分に判定を下した者たちに判定者としての権限も法的資格も認めないかもしれない。ここに、このことばのもう一つの意味が生ずる。すなわち、規則違反者が判定者をアウトサイダーと見倣すこともありうるということである」(H. S. ベッカー『アウトサイダーズ ラベリング理論とはなにか』)

 あいつは駄目な奴だ、とレッテルを貼られる。それはいったいどういうことでしょうか。この問題に関してはたくさんの立場がありそうです。ベッカーは引用の著書の開巻最初のページにW. フォークナーの『死の床に横たわりて』を引く。なるほど、そういうことなのかと納得させられる部分ですので、紹介しておきます。

 「わしゃ、ときどき、わからなくなっちまうんだが、どうして他人(ひと)のことを気違いだなんていいきれるんだろう。人間にゃ、ほんとの気違いもほんとの正気も一人だっていやしない。ただほかの連中がそういったからそう決まっちまうだけのことだって、ときどき、そんな気がするんだ。そいつが何をやるかというより、まわりの連中がそいつをどう見るかってことで決まっちまうらしいんだな」

 社会学的にみれば、<逸脱行為>はもともと中立的な概念で、道徳(善・悪)に関係はない。しかし、いったん日常生活のなかで用いられるとき、<逸脱>あるいは<逸脱者>はよくない行為であり、非難されるべき存在となります。なぜなら、ある一定の行動様式 ― 私たちはそれを規範と呼びならわしています ― をとることが求められる際、そこから外れるのはいけないことだとされているからです。

 いかなる社会集団でも、自らの秩序を維持するためになんらかの規則・規範をつくる。集団の各メンバーはその規則・規範を遵守して、集団への帰属意識を強めます。反対に、規則・規範にそむくことはもっとも嫌われるのです。重要なのは集団が秩序をもって存続することだからです。

 「まわりの連中がそいつをどう見るかってことで決まっちまうらしいんだな」、まるで悪意のある「裁判官」みたいだね。「お前の方が逸脱しているじゃないか」といわなければならないことが、あまりにも多すぎますね。でもやはり、いわなければならない。(「嘘」「脱法行為」をしているのはだれであるか、多くの市民はわかっている。理不尽な規則だから「破った(非同調)」のに逸脱のレッテルを張り、一方で、問題のない規則を踏みにじった「脱線行為」をした「権力」を見逃すわけにはいかないじゃないかと批判が生じているのが、この島の現実です)

 だが、十分に考えなければならないのは規則・規範は絶対的なものではないという点です。時代や社会によって規則・規範は変わるもの、きわめて相対的なものです。また、道徳的な見地からみて、ある種の規則・規範を容認することができないという場合も出てくるはずです。ある具体的な規則・規範に反する行為を指して、<逸脱>というのはそのとおりですが、それがただちに<まちがった行為>となるかどうかを吟味する必要があるのです。マートンが<非同調行為>と<脱線行為>と名づけて、その二つを社会学的に検討したのは理由のあることでした。

 学校というところは算数や国語を教えると同時に「規則は守らなければならない」という行動様式を身につけさせる。算数ができるということと、規則に従順であるということは、教師にも子どもにも同じことだといってもいい。学校の性格をフーコーは次のように表現しています。

 「規格を旨とする権力は、絶対的な均等をめざすある体系のなかで機能しやすい」