「あの施設の…」感染者1人でも老人ホームに白い目 地域に根深い偏見「差別的な言葉怖い」(20/5/6 10:30 ©株式会社京都新聞社)

(新型コロナウイルスの集団感染のきっかけとなる交流会が開かれた「むすび家カフェ」。現在はチェーンが張られ、閉鎖されている)(井手町井手)
最初はただの筋肉痛だと思った。発熱などもなく、栄養ドリンクを飲むと一晩で治まった。井手町の40代男性は、後の検査で感染が分かるまで「まさか、新型コロナウイルスが自分に関係してくるとは考えもしなかった」
幸い、感染判明後も症状はほとんどなく、身体的な不安は感じなかった。それよりも、「感染したことで周りにどう思われるかが、一番怖かった」。男性は、自宅待機に加え、家族と離れて療養する「隔離生活」を送った数週間の心境を、そう振り返った。

男性は井手町で3月下旬に開かれた、京都産業大生との交流会に参加。学生の1人に続き、同席した複数の町職員の感染が判明したためPCR検査を受け、陽性反応が出た。
療養で自宅を離れて過ごす間、別のまちで感染した人を中傷する落書きが見つかったというニュースを見た。「うちは大丈夫かと、思わず家族に電話して確認した」。これまで嫌なことを直接言われたり嫌がらせを受けたりしたことはないが、「周りの人が自分の耳に入れないようにしてくれているようだ」
男性は、すでに回復した今もなお、自分や周りの人がいつ偏見や差別にさらされるかもしれない―という不安を抱きながら、日々を過ごしている。
新型コロナ感染拡大とともに生じた偏見や差別は、感染者が出た地域の住民や施設などにも及んでいる。

井手町の京都産業大生との交流会は、府内では京都市に次いで2番目に多い22人(3日現在)の累計感染者を出すきっかけとなった。会場となった古民家「むすび家カフェ」の近くに住む住民は、「(特に親しい関係でもない)遠方の知り合いから突然連絡があり、大丈夫かと心配された」と困惑を口にする。
同町の70代男性も、隣町の喫茶店でいつものように朝のコーヒーを楽しんでいると、他のテーブルで「(集団感染が起きた)井手町には近寄りたくない」と客が会話している声が聞こえ、不快な思いをしたという。

4月中旬に職員1人が感染した木津川市の特別養護老人ホーム。訪問介護のため職員が利用者宅を訪れると、近隣住民らが「こんなところに何の用だろう」「大丈夫かしら」とうわさする声が聞こえる。介護の一環でスーパーに行くと、施設の名が書かれた制服を見て、「あの施設の…」と、すれ違いざまに客から言われたことも。
施設は消毒を何度も行い、その後、感染者は出ていない。職員は業務中、マスクを着用し手指の消毒も頻繁に行う。それでも、地域では白い目で見られてしまうという。30代の男性職員は「周囲の人が不安になる気持ちも分かる。でも差別的な言葉を浴びるのは怖い」と打ち明ける。
城陽市では4月上旬、新型コロナに感染したとする3人の名前が書かれた紙が、民家の壁などに無断で貼られているのが見つかった。府によると、3人は実在するか不明という。奥田敏晴市長は「憶測やデマ情報に惑わされず、冷静な対応を」と市民にメッセージを出した。
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《そもそも、他者の行為の原因をその人自身に求めたがる心のしくみもかなり頑健である。これを対応バイアスという。「明らかに本人のせいではない」とは断言できないようなケースでは、この対応バイアスがさらに顕著となる。》((大阪大学大学院人間科学研究科教授=三浦麻子)・「47NEWS」(2020/5/3)
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被害にあった人は「二重の苦しみ」を味わうという話です。なぜこんなことが起きるのか、という問題には明確な答えはなさそうです。「道徳」論をかざしても、「刑罰」論をぶってみても、「いじめ」や「差別」はなくならないといえば、大いに非難されそうですが、ぼくの小さな経験からもそういうほかありません。昔、アメリカのマートンという社会学者の本を熱心に読んだことがあります。かれは「差別と偏見」というテーマで重要な理論を展開した人です。彼の地では「黒人差別」はなんとしてもなくならなかった(今でもなお)。「差別主義者」は「確信犯」だ、したがって重罰に課すしかないのだと彼はいっていたことをいまでも記憶しています。(この項は、「コロナ禍で、こんなことがありますね」と軽く始めたのですが、意外にもマートン先生が現れました。この「差別と偏見」に関して、ぼくが彼から学んだ事柄をどこかで話してみたくなりました、まるで付録のような展開です)

まずい例ですが、「飲酒運転」です。ぼくの知人(ご夫妻)(現在はオーストラリア在住)が飲酒運転をしていた大型トラックによる追突事故よって九死に一生を得たが、同乗していた二人のお嬢さんを亡くされた。その後、大変な活動を重ねられて道路交通法の改正を当局(政府・法務省等)に働きかけ、それまでどんなに悪質な飲酒運転でもたかだか懲役四、五年だったものを「死刑」を含む処罰規定を獲得するところまで進められた方でした。その後は、じつに残念なことですが、重罰を恐れて「飲酒運転」がなくなるという気配はありません。「隠喩としての病」はソンタグですけれど、「犯罪は病」かとさえ考えてしまう。

上に引用した三浦さんは「対応バイアス」は「人間だもの」というほかないという意味のことを言われています。「ヒトの噂も七十五日」という俚諺があります。類似の表現に「人の上は百日・善きも悪しきも七十五日・世の取り沙汰も七十五日」というのがありまして、まあ、噂話も首をすくめていれば、ほどなく消えるというのでしょう。一種の「生療法」かもしれません。下世話な知恵ですね。でも「噂」のご当人にしてみれば、七十五日も百日も根拠なしで「打たれ続ける」のは堪えられない話です。何十年も前にぼくは「噂の真相」というヤクザな雑誌に埒もないことを書かれた経験があります。当人は知らなかったのに、ご親切にも教えてくれた人がいました。クズのような話でしたよ。また、別の雑誌に「都はるみ命」とほざいている「クレージーおじさん」と揶揄されたこともありました。それは噂じゃない、当人にしてみればホントの話でした。
「差別」問題は根が深いですね。ぼくはいつでも「差別しているのは」「差別されているのは」自分であるという立場にたちつくすという姿勢で生きてきました。さらにいえば、あくまでも「差別される側に立つ」のだ、という具合でした。それで、どうしたといわれましたが、どうもしませんよ。ぼくにはいくつもの偏見があるのを隠さない。その偏見から解放される(自由になる)ために、なにかと成長しようというこころざしが生まれるのじゃないですか。さらにいえば、自分では「差別していない」つもりでも、結果的に「差別している」という、厄介な次元の問題が残ります。どこにでも見られる事柄です。「みんなそうしてる」「だれもが言ってるじゃん」というように、です。その場合「みんな」や「だれも」から自分を引きぬこうとするのがいいんじゃありませんか。ぼくはそう思って生きています。
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