なぜ、病は隠喩なのか

 ペストが猖獗をきわめた十六世紀から十七世紀にかけてのイギリスでは、歴史学者キース・トマスによれば、「幸福な人間はペストにかからない」と広く信じられていたという。伝染の実態がまだ判らなかった頃には、心が幸福な状態にあれば病気を避けられるとする空想が、どの伝染病についても流布していたのである。病気の原因は精神状態であり、意志の力でなおせるものだという理論は、間違いなく、病気の肉体にかかわる面がいかに理解されていないかの目印となるものである。

 まだある。何事についてもそうであるが、現代では病気の心理学的説明をとくに偏愛する。心理学を持ち出しさえすれば、実のところ人間にはまるきりどうにもならないか、それに近い経験や出来事(たとえば重病)まで何とかできるようになると思うらしい。心理学的な理解は病気の「現実性」を骨抜きにしてしまうのだ。しかしその現実性こそ説明されねばならないのである。(その現実性こそ実は意味を持つのであり、何かの象徴となるのであり、あるいはそう解釈されるべきなのだ)。

 死を前にして宗教的な慰めを持たない者、死を(あるいは他のすべてを)自然のなりゆきと感得する力のない者にとって、死とはおぞましい神秘である。究極の侮辱である。禦すことのできないものである。否定するしかないものである。心理学の人気と説得力の大半は、それが昇華された精神主義であることに、物質よりも「精神」が上であることを主張する世俗的な、ひとまず科学的な方法であることに由来する。病気という、ひたすらに物質的であるしかない現実さえも心理学的に説明がつく― 死そのものも、結局、心理的現象と考えることができるとされてしまうのである。(スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い エイズとその隠喩』富山太佳夫訳)

いん‐ゆ【隠喩】 の解説 比喩法の一。「…のようだ」「…のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。「花のかんばせ」「金は力なり」の類。暗喩。隠喩法。メタファー。(大辞泉)

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 ソンタグは現代のアメリカでもっとも勇気ある発言と政治にコミットする行動をもった作家でした。奇しくも彼女も癌に罹患していました。(彼女は30年間、「乳癌」と「子宮癌」を患っていたとされます)

 どんな種類の肉体の病気でも、それを精神(心理学)的病なのだと考えると、すべてが説明されたように感じさせられる時代が長くつづいています。心理学の時代である、精神分析の世紀がまだ終わっていないのです。ソンタグにいわせれば、近代以降の思想は、精神の病の範囲をますます拡大してきたのであり、彼女は、この拡大を支えた二つの仮説があるというのです。

 《ひとつは、すべての社会的逸脱は病気と考えうるとする仮説。もし犯罪行為を病気と考えうるなら、犯罪者を咎めたり、刑罰を加えたりすることはできない寸法で、(医者と同じように)理解し、手当てし、治療しなくてはならなくなる。第二は、すべての病気は心理学的に考察できるとする説。病気は心理学的な現象と解釈するのが基本線となり、人間は(無意識裡に)病気になりたいと思うから病気になるのであって、意志の操作によって快復できる、死なないでいることができると信ずるように仕向けられる。》

 エイズと癌は今日における二大隠喩です、避けなければならないが、避けられない運命というもの。ぼくたちの社会ではこの点に関しては長い歴史と伝統があります。たとえば、ハンセン病(らい病)がそうでした。もちろんこの社会だけではありません。ソンタグも触れています。「中世においては、癩患者とは堕落を目に見えるものとする社会的テキストであり、頽廃の見本、象徴であった。病気に意味を与えることくらい―そういう時の意味は必ず道徳臭が強くなるから―懲罰性のあらわな行為はない」

 ぼくたちはいまだに「中世の暗闇」から解放されていないようです。「あいつはこのクラスのばい菌だ」「ヤツはこの会社の癌だ」などと、いとも簡単に言ってのけます。特定の病気にかかれば、家族や一族までもが忌避されます。ある種の「逸脱」に走った子どもの親兄弟・姉妹はいわず語らずのうちにのけ者にされます。それは現代版の「魔女刈り」なのですか。「魔女刈り」などというおぞましい行為など、誰にも教わりもしないのに、人をその行為に駆り立てる、そのもとは何でしょうか。「村八分」の意味も歴史も知らない幼子たちが、大人顔負けの「排除」をやってのけるのです。

 「病気について考える!― 少なくとも病人がこれまでのように、病気自体よりも、病気について思いめぐらして苦しむ必要がないように、病人の想像力を鎮めること ― 思うに、それはなかなか意味のあることだ。大変なことだ!」(S. S.)

  今は「コロナ」の季節です。文字通りに地球規模で周章狼狽しています。「病気」の正体は何かということ以上に、「災厄」の張本人をだれ(なに)にしようかと、世間はいたるところで、「監視網を」張り巡らせている。この機会を千載一隅の絶好機と狙いを定めている不届き物が横行している。

 いったい「新型コロナ」はなんの「隠喩」なのでしょうか。

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<金口木舌> 自粛警察 「緊急事態宣言が終わるまでライブハウスを自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」。東京のダイニングバーの看板に4月、張り紙があったという。店舗は自主休業中で、張り紙が見つかった日は歌手のライブを無観客でネット配信していた▼新型コロナウイルスの感染拡大を受け、店舗に休業を求める嫌がらせが相次いでいる。「自粛警察」とネット上で呼ばれる行為だ。市民が市民を監視し非難する。コロナ禍は人の心までむしばんだのか▼新型コロナ関連の110番は4月、東京都内で前月の約6倍に達した。警視庁によると「自粛しなければいけないはずなのに、公園で子どもが遊んだり高齢者が集まったりしている」「居酒屋の営業は良いのか」などの苦情があるという▼ネット上には感染者の氏名や所属先を暴く真偽不明の情報もあふれる。相互監視の中で密告が横行する社会といえば、戦前を思い起こす▼ミュージシャンの七尾旅人さんが自粛を巡り、SNSで「争う必要のなかった場所にまで分断と排斥が進行している」と書き込み、政府を批判した。仕事を失った音楽関係者を支援するネット配信に取り組む▼今、必要なのは社会に敵を作りだし、恐怖をあおることではない。そもそも監視する相手が違うだろう。非常時だからこそ、権力を持つ者に対し一層目を光らせる必要がある。(2020/05/08琉球新報)

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